第62話 少女の傷
かぽーん
木製の天井から滴る水音。
静寂な空間に交じり高らかな音が響き渡る。
「ふぉへぇ…」
そんな味のある空間をたった一人の少女がぶち壊す。
「なに馬鹿声出してるのよ…」
はぁ、とため息をついたアイビー。ちなみに馬鹿声を出したのはもちろんスカーナである。
大浴場にて湯船に浸かりながら、二人はふぅっと息をつく。
「暖かいですね…」
続いて湯船に入って来たのは長い白銀の髪の毛を結わえてまとめたテンシアである。
「うっ、発育の暴力…」
そんな彼女を見て、思わずスカーナは目を背けた。そしてその視線を今度はアイビーに向ける。
「ま、まあアイビーの断崖絶壁には私のでも勝ってるか」
「誰が断崖絶壁よ!!!」
嘲笑気味の笑いをするスカーナに向けてアイビーがお湯を手ですくってぶっかける。
「怒ってる怒ってるぅ!」
「別に怒ってないわ!!」
仲がいいのか悪いのか、そんなやり取りを続ける二人の間にテンシアが割って入る。
「喧嘩はやめましょう!」
ほっぺたを膨らませて喧嘩の仲裁をしているつもりなのだろう。当の本人達は喧嘩をしているつもりなどないのだが。
「…ぷっ」「…くっ」
アイビーとスカーナは水を掛け合う手を止め、互いに顔を見合わせ軽く吹いた。
「大丈夫よ、テンシア。別に本当に喧嘩してるわけじゃないから」
「え、ええっ??」
アイビーは本当ですか?と心配そうに覗き込んでくるテンシアの肩に手を置いて苦笑を浮かべた。
「…ん?」
だが彼女のその苦笑はすぐに崩れ、テンシアの肩から手を離し少し曇ったような表情を浮かべた。
「…アイビー?」
「あっ」
不思議そうにスカーナがアイビーに近寄り、焦ったように自分の肩を確認するテンシア。
「いや…テンシア。あなたの体にもの凄い量の傷跡があるわ…。どれもうっすらとしたものだから今まで気が付かなったけど」
「傷跡、ですか?」
「ええ、それも新しいものもあれば古いものもあるわ。…もしかすると記憶を失う前のあなたは、そういう危険のある仕事なり行動を取っていたのかもしれないわね…」
二の腕に触れると、やはりあちこちに傷がある。それも切り傷のような物もあれば火傷の痕のようなものまである。しかも、触って分かったことだが見かけ以上に筋肉が着いている。
「これはますます、明日あの場所に行く必要が出てきたわね」
ふふっとアイビーが不敵な笑い声を上げる。おそらくそこになんの悪意は無く、ただただ難しいジグソーパズルのピースの並べ方の予想が着いた時のような感情から発されたものなのだろう。
「テンシアはちょっと先戻っててくれる?スカーナと話したい事があるから」
「…え、ええ。わかりました」
十数分、少し長めの風呂から上がり着替えを済ませたアイビーがテンシアに部屋の鍵を放る。
「部屋の場所は覚えてるわよね?」
「はい、多分」
バスタオルでわしわしと頭を拭きながらアイビーの服を借りたテンシアは小さく頭を下げて脱衣場を後にした。
そんな彼女の背中を見守り、完全に出ていったのを確認した後アイビーが口を開き、切り出した。
「テンシアの傷、やけに新しいものがあったわ」
「?それはあの事故の現場にいたからじゃ…」
「それにしてはおかしい傷、痣があるのよ。腕には誰かに強く掴まれた後があったし」
アイビーの見間違えで無ければあれは明らかに誰かに故意によって付けられた傷だ。
「彼女は何かを隠してるのかもしれない。悪意がある、という風には見えなかったけど」
「私達に言えない何かがある、と?」
「…かもしれない、ってだけだけど」
今までの彼女を見ている感じ、何か嘘を着いて記憶が無い振りをしている。のようなことは無いと思う。
だったらなんなのか…。二人は俯いて考え込む。
「とりあえず、本人の口から出てくるのを待ちましょう。何か、自分から言いにくいことかもしれないし」
「うん、そうだね」
互いに目を合わせてこくんと頷いて意思疎通をする。
「…もうちょい時間使って戻りましょうか。たまにはテンシアも一人になりたい時だってあるかもしれないし」
「…そうだね。ずっと私達と一緒だったわけだし、ちょっとそこら辺でも歩きましょうか」
ずっと誰かと一緒だと息も詰まるだろう。二人はしっかりと頭を乾かしてから脱衣場を出て、ぶらぶらと時間を潰すのだった。
「テンシア部屋の場所間違えないと良いけどね」
「…多分大丈夫でしょ…多分」
「えっと…」
そして案の定、迷っていた。そこそこな広さを誇るこの宿はかなりの部屋数で、構造も入り組んでいるため分からなくなってしまうのも無理はない。鍵に部屋番号は彫り込まれているのだが、それにテンシアは気づいていない。
「ど、どうしよう」
部屋の鍵を持っているのは自分なのだ、自分が迷えばアイビー達が部屋に入れなくなってしまう。
しかし、浴場に戻る訳には行かない。二人で話したい事、ということはテンシアに聞かせたくない。という意味なのだ。戻ってその話を聞いてしまえば、失望されてしまうかもしれない。
その時だった。
「ふぁぁ…」
近くの部屋の扉が開き、そこから知っている顔が大きな欠伸をしながら現れた。
「あっ」
「んん?あぁ、テンシアか」
頭をぼりぼりとかきながらテンシアに向き直る筋肉男、スディである。
その顔を見た瞬間に、テンシアの顔が強ばる。
「…」
「おい、逃げんなって」
「ひっ」
思わず距離を取ろうとしたテンシアのか細い腕をスディは片手で握りしめる。
「風呂上がりにわざわざここに来るってことは、そういう事だよな??」
「はな、してっください!」
彼女は必死の抵抗をするも、相当な握力で掴まれているため逃げられずそのまま引きずられるように開いたままの彼の部屋に連れ込まれる。
「あの二人はいねぇのか。なら好都合だな」
背筋が凍ったように全身に寒気を感じ、体がぶるぶると震えていた。
「だ、誰かぁ!」
「おっと、あんまり騒ぐなよ」
「ん、んんー!!!」
大きな掌で口を覆われ、声を出すことすらままならない。
(い、いやだっ!!)
彼女の目の縁から滴が零れ落ちた。自分が何かしたのだろうか。気がついたらあの森にいて、なすがままに流されて。もし私が本当に記憶を失っているだけなら、私はどうなってしまうのだろうか。消滅してしまうのか、記憶が戻った後でも残っているのか、と。実体の無い恐怖と先の見えない絶望感。そんなものに彼女は毎日押し潰されそうだと言うのに。
(でもっ!!)
記憶を取り戻さない訳にはいかない。きっと元の私にだって何かしらの目的や待っている人がいるのだろう。
(私は、私はっ!!)
テンシアは口を塞いでいるスディの手をもう片方の手で掴んで思いっきり引っ張って下にずらして、その手に噛み付く。
「っく!?痛ってぇ!!何しやがんだ!!」
暴れるスディの皮膚をズブリと突き破る音が聞こえた。
そして音が聞こえた刹那、自分の中で何か鎖のようなものが外れたような気がした。
冷たくて、暖かいような不思議な感覚だった。
「っ!?」
うっすらとした翠色の光が、二人を包んだ。
「な、なんだぁ!?」
正確にはテンシアの体が光を纏っている、わけなのだが。
それに驚き、思わず彼女の手首を手放すスディ。その瞬間を見逃さず、彼女は両手の平を押し当てる。
「なっ!?」
体が勝手に動いてくれる。本能、というやつだろうか?それとも元の体の持ち主のカンだろうか。
どちらにせよ、彼女はその体の動きに身を任せていた。
両手の平を押し当てている場所から彼女を包んでいた光と同じ色の魔法陣が現れる。
「吹き飛べ!!」
そして彼女がそう、叫んだ刹那。
その魔法陣の輝きが増し、強烈な何かがそこから放たれる。
「うごっがはっ!?」
密着した状態でその何かを鳩尾にくらい、近場の壁に背中から激突するスディ。
「…。っ!逃げないとっ」
自分でも何をしたのか理解がおぼつかず、ぼーっとはさていた彼女だったが、すぐに我を取り戻しアイビーとスカーナがいるであろう浴場の方へ踵を動かした。
「ま、待てっ…!」
しかし彼も諦めが悪い。鳩尾にもろにくらったというのに壁に寄りかかりながらテンシアを追いかける。
「アイビーさん!!スカーナさん!!」
テンシアは走りながら大声で二人の名を呼ぶ。二人の事を呼ぶ、という意味合いもあるのだが…
「なんだなんだ、騒がしいなぁ」
「なんかへばってるやついるぞ」
「おう嬢ちゃんどうした」
周囲の注目を集める、これが本当の目的。
「あの、男の人に襲われてっ」
彼女はスディの事を指差しながら、近くにいた中年の女性の背中に隠れる。
こうしてしまえば彼も弁明はできない。襲われたと主張する女とそれを追いかける男。どちらの意見が周りに強く真実として伝わるかを考えればそれは一目瞭然である。
「ほう、兄ちゃん。ちょいとそれは頂けねぇなあ」
「その様子だと嘘じゃないみたいだ」
テンシアを庇うようにしてずいと二人の男が前に出る。
「なんか騒がしいわね」
「…ん?あれテンシアじゃないですか?」
「っ!」
そしてアイビーとスカーナの二人もここに集まった。
「うわっ、ちょっとどうしたのよ」
テンシアの視界に二人が入った瞬間、彼女は何も言わずにアイビーの元に駆け寄り抱き着いた。
「う、ううっ!」
「ちょ、テンシア?」
アイビーに会えて、安心したのだろうか。今まで溜め込んでいたものを爆発させ、涙を流すテンシア。状況の理解出来ないアイビーは両手をホールドアップしていたものの、肩を震わせる彼女の背中をいつの間にかぽんぽんと摩っていた。
「すみません、一体何があったんですか?」
そんな動くことをままならないアイビーを他所にスカーナが近くにいた中年の女性に問うた。
「なんか女の子が襲われたらしいよ。ほら、あそこの銀髪の女の子があっちの膝を着いてる男に」
女性の指差す方向に視線を向けると、それはテンシアとスディのことを指しているに違いなかった。
「おそ、われた?」
スカーナは着ている服の裾をぎゅっと握り締めた。
「…スディ」
彼女はふつふつと湧き上がる憎悪や悪寒を抑えつつ、膝を着き息を整えているスディの元へ歩み寄り見下した。
「な、なんだよ」
「良い人だとは思っていませんでしたが、ここまで性根が腐っているとは思っていませんでした」
言い終えて目を逸らした。こうなってしまったのは、即興だったとは言えスディとパーティを組んでしまった自分達に非がある、と深い後悔の念に襲われていた。
「ああ、そうかい」
「あっ、しまった!」
しかし彼はまだ諦めていなかったようで一瞬、周りの気が緩んだのを見て立ち上がり駆け出した。
「っ!」
スカーナを突き飛ばし、アイビーからテンシアを引き剥がし腕を首に回す。
「ぐ、うっ!?」
「ここの全員、動くなぁ!!一歩でも動いたら、こいつの喉笛を掻き切ってやる!!」
スディは懐から小さなナイフを取り出し、彼女の首に突きつけた。折りたたみ式の小さなナイフだが、命を刈り取るには十分な代物だ。
この場にいる全員が息を飲み、動きを止める。
「スディ!!あんた、心の奥まで腐ってるわ」
「うるせぇ!!近寄るんじゃねぇ!!」
うぐ、とアイビーが息を詰める。スディのナイフがテンシアの喉に触れ、その先から血液がナイフに伝う。
そのままスディはジリジリと廊下を移動して行く。テンシアを人質にしてこの宿から出る算段なのだろう。
「このまま逃げ切ってやるぜ…」
「は、はなして…」
「うるせぇ!!こうなったのも全部お前のせいだ!!」
弱々しい声を出すテンシアを拘束する力が強まる。
「う、う…っ!」
その時、再び彼女の体が翠色の光に包まれ始める。
「ま、またかよっ!おい!それを止めろ!」
「止め方が、わからない…っ!」
スディは首に突きつけていたナイフを彼女の腰の方へと位置を変える。
「なら、致命傷にならない程度に痛めつけて気を失ってもらおうか。正直抱えて逃げた方が俺も都合がいいしな」
「っ」
ナイフが服を切り裂き、脇腹の皮に刃が触れる。
(やだっ)
抵抗しても、抵抗しなくてもいずれかは殺される。唯一この状況から逃れる術はさっきのようにスディを謎の力で退けることなのだが、彼女にその力を使う方法は分からない。
この場に駆けつけた面々の方に目を向ける、が歯を食いしばって全員動きたくても動けない状況にある。
(誰かっ、助けてっ)
心の中で、願った。
刹那
『…ようやく出番が来たってか』
彼女の体を包んでいた翠色の光が薄紫色に変化し、どこからともかく誰かの声が聞こえる。
『ったくこの野郎、さんざん調子乗りやがって』
その薄紫色の光はテンシアの体を離れ、彼女の体の正面に集まりやがて一つの形を形成する。
それはテンシアと同じ姿をした、一人の少女。
「なっ!?」
思わずスディも驚愕し、体を止める。
『悪いな、待たせちまって』
そしてその銀髪の少女は右手を指鉄砲の形にして彼の額に突きつけた。
『寝てろ、脳筋が』
バチッと少女の指鉄砲の指先から閃光が走り、辺りは静寂に包まれる。
「…が」
何が起きたのか、と周りの面々も息を飲む。しかし、次の瞬間スディは白目を向き泡を拭きながら。
「へ…」
一同、状況が出来ずに間抜けな声を発していた。テンシアがもう一人現れ、指鉄砲で筋肉男を倒してしまったのだから。
『お…もう時間だな。…さて、テンシアって名前なんだっけ?』
もう一人のテンシアはスディにナイフで切りつけられたテンシアの首元の傷にそっと触れた。
『俺は、お前の中にいるから。…入れ違いが元に戻るまでは頑張ってくれ』
しまいにニカッと笑みを浮かべ、再び紫色の光を纏いテンシアの体の中へと戻っていった。
「…」
辺りは静寂に包まれていた。
テンシアが首に手を触れると、そこにあったはずの切り傷は綺麗さっぱり無くなっていた。
「…あの人は、一体…」
髪の色も、身長も容姿もテンシアとまるきり同じだった。テンシアは彼女のことを知らないのに、向こうはテンシアのことを知っているようだった。
けれど、不思議と嫌気も恐怖心も生まれなかった。妙に落ち着く温かみと安心感があった。
「…」
テンシアはぎゅっと胸の前で手を握った。
(あの人に、助けられた。そしてその人は私の中に、いる…。…でも、もしかすると…私は)
「テンシア!!」
「わぶっ」
そこで静寂を破りながらテンシアに抱き着いたのはアイビーとスカーナ。凍るような張り詰めた空間と緊張感がほぐれたからだろうか。普段は冷静沈着でクールな彼女の顔は涙でぐちゃぐちゃになっていた。
「怪我は!?大丈夫!?」
「う、うん」
「あの人は!?誰なの!?」
「わ、わかんない…です」
「でも無事でよかったぁ!!!!」
ほっと胸を撫で下ろしアイビーはテンシアを強く抱擁する。
「アイビーったら私が突き飛ばされた事に関しては何も感じないんですかね…」
すると痛たたと、腰を抑え錫杖を支えにして立つスカーナが苦笑を浮かべながらアイビーの頭をつついた。
「だっていっつもあなた転けてるじゃない。その位大丈夫かなって」
「大丈夫じゃないですよぉっ!いたっいたたた…」
その老婆の如く腰を曲げた様は滑稽で、吹き出したアイビーとテンシアの笑い声によって張りつめていた空気は徐々に解れて行った。