第23話 吸血鬼とお風呂
「わぉ…」
思わず声が漏れた。服を脱ぎ、それをまとめて籠に入れ、貸してもらったタオルを抱えて大浴場への扉を開けるとそこに立ち込めていた湯気と共に温泉ならではの独特の匂いが鼻をついた。
目の前に広がるのは日本人であれば一度は入ってみたいであろう美しい温泉だった。入っている人は数人しかおらず、これならあまり人目を気にすることなく素肌をさらすことができそうだ。
「いしょ…」
まずかけ湯で軽く体の汗を流す。以前に入浴したときのような痛みはなくむしろ心地よかった。
「体…洗うか…」
入浴の順番など気にしない。というか知らない。だからとりあえず前世で入っていたように体を洗ってからお湯につかるようにする。
しかし、ぐるりと辺りを見回してみてもシャワーらしきものは存在しなかった。まぁ、さすがにシャワーはないか。
俺はとりあえず洗い場の方に移動する。
「…【解析者】?…これどうやって体洗うの?」
『ソレハデスネ「炎魔法と水魔法の会わせ技です」』
「はぅぁぁっ!?」
いつもの機械音声と重なるようにして妙に艶のある、透き通った声が耳に届いた。
あまりの不意討ちに心臓が飛び出しそうになり、慌てて後ろを振り替えるとそこにはなんとも凄まじい威力を持ったせくしーばでぃが存在した。
「リーコさぁぁぁん!?」
「びっくりした顔も可愛らしいですねぇ。今夜にでも襲おうかしら」
頬に手を当てて、うっとりとしているリーコ。
そのおっとりとした動きからは想像もできないくらいの恐ろしい言葉が彼女の口から漏れた。
「…ななななななんでここにっ!?」
「いやー。あなたのようなかわいい娘の入浴シーンを想像したらいてもたってもいられなくなりましてー」
「…」
唖然。開いた口が塞がらないとはまさにこのことなのだろう。シーカーを助けた俺に対して懸命にお礼をしていた彼女はどこへ行ったのだろう。
「さて、体の洗い方でしたよね?…ですが順番的に先に湯船に浸かった方がいいですよ?」
「へ、へぇ…?」
「まぁ、お風呂に入る機会の少ない吸血鬼ですからね。知らなくても仕方ありませんよ。…っと、ちょっと動かないでくださいね?」
軽く俺のことをフォローした後で、リーコは俺の髪の毛を手早くまとめてくれる。
「女の子の痛みやすい髪の毛はあまりお湯に浸けるわけにはいきませんからね。こうやってまとめるんです」
そんなもん、男として二十四年間過ごしていた俺が知るわけないだろう、と心の中でぼやきながら俺は湯船の方へ足を動かした。
「…」
もうもうと煙をあげるお湯に足先をちょんと浸ける。念のための安全確認と温度の確認だ。
「…ほぇぇ…」
特に問題が無さそうだったので、足から順に体をゆっくりとお湯の中に入れていく。
やがて、全身がお湯に包まれ体の芯から解れていく感じがした。
久しぶりの入浴、それも温泉。その心地よさに心も表情も崩れていく。
「お湯加減はどうですか?」
リーコがざぶざぶとお湯を掻き分けるようにして俺の元へと向かってくる。
「丁度いいです…熱すぎもなく、ぬるすぎもなく…ふぁぁ…」
自分の頭にぽんとタオルを置く。
「そう言って頂けると幸いです。もう少ししたら露天風呂にでも行きますか?今日は雲が無くて、いい夜空ですよ」
「…露天風呂まであるんですか…」
「ええ。うちの露天風呂、結構人気なんですよ?」
「…。…じゃあ行ってみますね」
俺はその場で立ち上がり、お湯から出た。一瞬、立ちくらみで視界がぐらりと揺れるが何とか耐えることができた。
「はい、こちらです」
同様にお湯から出たリーコの後に続く。
彼女は湯船のすぐ側にある、硝子製のドアにぐっと力を入れ、俺が通るまで開けていてくれた。
「…さむ…」
急激な気温の低下に思わず鳥肌が立つ。
「さ、ここが露天風呂です」
リーコは腕を伸ばして、自慢気に言った。
そんな彼女の背後に広がるのは、日本庭園のような設計をされた露天風呂。
湯船は岩で囲われるようにして作られていて、湯船の外に所々立っている灯籠の淡い橙の光が優しく周りを照らしていた。
そして何より目につくのは、お盆の上に乗って湯船の上をさ迷うとっくりと盃と酒瓶。
「…」
夜風が頬をくすぐり、ようやく我に返った。どうやら数秒の間、見とれてしまっていたらしい。
「温か…」
お湯に浸かると、少しだけ冷えた体が再び温まり、ほぐされていった。
お湯に入っていない部分はひんやりと、お湯に入っている部分はほんわかと。
これならのぼせることなくいつまでも入っていられそうだ。
「ティアーシャさん、はい」
「え?」
そんな状況だったからいきなり手に置かれた物を、それがなんなのか知るよしもなく受けてってしまった。
まじまじと見つめてみると、それは赤く、艶のある手のひら一杯くらいの大きさの盃。そしてそこには並々と注がれた透明な液体。
「酒…?」「ええ、お風呂に入ったらお酒。これは常識ですよっ…っ…っ…」
いつの間にか隣に座っていたリーコの艶やかな唇に、彼女の盃が当てられ、一定の間隔でその喉が動く。
「ぷはぁ…。あれ?ティアーシャさん、飲まないんですか?」
「…いや、お…私みたいなこんななりでお酒飲んだら駄目でしょう」
罰されるのはお酒を飲んだ未成年者ではなく、その人に酒を飲ませた成人、または買わせた人に罰則がいくことに日本ではなっていた。
一応、俺の『精神年齢』は二十代後半だがこんな幼女体型でそんなことを言ったところで信じてくれる人などそうそういないと思う。
唯一の前世との共通点は月が存在していることだろうか。
孤独月 月は星座に 混ざれない
昔、知り合いがそんなことを言っていた気がする。
月は明るいし、大きいし、美しい。
けれどその分。『特別』であり『異常』である分、他の星と線を結ばれることはないのだ――。
‐‐‐
翌日の日の入り頃、俺はシーカーに案内され『ギルド』に足を踏み入れていた。
一見、静かそうに見えるその建物も扉を潜ってしまえば酒の入った冒険者達の溜まり場に変化してしまう。
「…お嬢ちゃん、どうしたの?」
じろじろとギルドの中を観察していると、お盆を抱えた従業員らしき人に声をかけられた。
「…門番の人の紹介で…。…話は通じてる?」
「門番の人の紹介…。あぁ!門番さんがギルドマスターに熱弁してた人のことね」
従業員さんは指を顎に当てて数秒間考える仕草を取った後で大きく頷いた。
「…にしてもこんなに小さくてかわいい子が…?」
「小さくて悪かったね」
少しむすっとしながら、「ついてきて」と言って踵を進めるその従業員さんの後を追った。
「ちょっと待っててね」
従業員さんは少し大きめな赤い二枚扉の前で足を止めると、こちらにそう言ってその中へ入っていった。
そして待つこと数分後、その扉はゆっくりと開かれ中からは二人の人が現れた。
一人は先ほどの従業員さん。そしてもう一人は…
「よくぞ来てくれた。我らが町のギルドへ!話は聞いている!多いに歓迎しよう!」
扉から現れるなりすぐに両腕を羽根のように広げ低く響きのある声を発した、黒髪に混じった白髪のせいで灰色にも見える髪を後ろで一つに束ねた推定五十七歳のおじさん。おそらくこのおじさんがギルマス、ギルドマスターなのだろう。
「その容姿で森の獰猛な狼三体を一網打尽…か。なかなかよい人材ではないか!では来るがよい!ステータスプレートを作ってやろう!」
「…ステータスプレート?」
「知らんのか…?ステータスプレートは自分自身の身分を証明してくれ、さらには己の強さをも知ることができる万能アイテムだ!さあ来なさい!」
「っぁ!?」
ギルドマスターにとてつもない握力で腕を掴まれ、無理矢理その部屋に連れ込まれる。
なんともテンションの高い人だこと。
しかし、連れ込まれた部屋の中はとても綺麗で整っていた。どこぞの大企業の社長室のようにだだっ広い作りをしていて、部屋の奥には扉と向かい合うようにして焦げ茶色の大きな机と真っ黒な椅子が配置されていた。
「冒険者登録をするのには、その者の強さを第一に知らなくては始まらぬ。少々時間をとってしまうが、これから試験を始めさせてもらおう。いいか?」
「…試験?どんな試験?」
筆記試験だったら確実に終わる。
なぜならまだこの世界の文字を読むのになれていないのだ。日本語にしかなれていない人間がいきなり外国へ行ってその国の試験を受けるようなものなのだ。
何を意味しているのかわからない単語や文法。まだこの世界に来て三年間しかたっていない俺にそんな問題を解かせるのはいささかハードすぎる。
「その顔だと筆記試験かどうか心配しているようだな?安心せい、冒険者は経験によって知識を得るものだ。冒険者登録をするその日にそれを求めて何になろうか?…試験というのは実技試験だ。だが、あくまで己の実力を知るだけのもの。緊張せず、気楽にやればよい」
ギルドマスターは椅子にどかっと座ると机の引き出しから一本の木の棒を取り出した。
「…準備はいいかな?」
「…大丈夫」
「ではいこうか。【展界】」
その棒で机の上を三度叩くと、そこから部屋を包み込み始める漆黒の霧が発生し始める。
「…っ」
数秒後、それはもう俺の視界をも包み込んでいた。視界が利かなくなったから、全神経を耳に集中させ腰の剣の柄に手を掛ける。
『そこまで固くならんでよい。今からモンスターを一定時間ごとに放出する。放出されるごとに強くなっていく故、気の抜きすぎには気を付けるがいい』
「…了」
時間がたつにつれて、出現するモンスターは強くなっていくということか。つまり、そのウェーブを何回乗り切ったかによって俺の実力の判定が出るということだな。
『…コノ霧ニハ―タシトノ会話ノ―害効果ガアリマス―。試験ガ終ワレバ、ワ―シトノ関係モ復活シマスノデ―心シテクダサイ』
「…わかった。また後で」
『―張ッテ―サイ』
途切れ途切れの【解析者】の声を聞いて、抜剣する。今回は【解析者】の補助によっての相手との位置関係を知ることができない。
正真正銘の己だけの力の計測。雑魚モンスターの俺…いや、今は雑魚とも言えなくなっているが、“ティアーシャ”がどれだけの力を保持しているのかを知るいい機会になり得よう。
『では開始する!』
ギルドマスターの声で視界を遮っていた霧が一瞬で晴れる。
首を動かして辺りの状況を確認する。
ここはギルドマスターの部屋とは全く違う、別の場所。
ところどころに苔の蒸れた石煉瓦で囲まれた直方体の空間。数本、壁には松明がはめられているが普通の人間であればかなり目が効きにくい状況だろうが、吸血鬼である俺にとってはなんの問題もない環境だった。
「っ…」
そんな風に辺りの観察をしていると、突然足元に水色の幾何学紋様の魔方陣が現れた。
すぐさま一、二歩下がって片手で剣を構える。
「…」
そこからどんなモンスターが現れるのか。
思わず息を飲んだ。
魔方陣が少しずつ輝きを増していきやがて一匹のモンスターが現れ――
「ただのスライム!」
拍子抜けして剣を取り落とした。
大層な演出をした魔方陣から現れたのは、なんのへんてつもないただの水色のスライム。
『カッカッカ!愉快愉快!だから言ったであろう。あまり固くならんでよいと!』
ギルドマスターの言葉通り愉快そうな笑い声が耳に届く。おそらく声を対象者にへと届ける【拡声】を使っているのだろう。
「あんな演出で、こんな下級モンスターが出てくるなんて誰が想像する?」
苛立ちを足に乗せてスライムを踏み潰す。