外伝15 漂う花の匂い
「……さて、こいつ、どうする?」
元の肉体に戻った後、手や足の感覚を確かめながら、手足を適当な縄でグルグルに拘束された傀儡のオースティンを見下しながらティールは言った。
「殺せ……」
「何言ってんだ馬鹿タレ。お前には俺らの店をぶっ壊されてるんだよ。……殺すくらいで済むと思ってんのか?」
ティールはオースティンの胸ぐらを掴み、額を押し付け、とても主人公には見えない程の恐ろしい顔を向けた。
「それにソウカのことを俺の体で痛めつけやがって。……お前なんぞ殺しても殺しきれんわ」
「……が……、……ぁ」
ワナワナと震える手でオースティンの首根っこを掴み、締め上げる。
オースティンが苦悶に満ちた表情を浮かべるが、ティールの手の力が抜け、彼女はベッドの上に叩きつけられる。
「不便とは言えどここまで精巧な傀儡はそう作れるものではありません。一度バラして研究材料にでもしましょうか」
「……エルティナさん、サラッと俺よりも怖いこと言うね」
ティールが顔を引き攣らせ、おどけた様子で肩を竦めた。
彼女は現在、全ての生物を支配下に置く神である。色々制約はあろうとも、その気になればその存在を抹消する事くらい容易いだろう。
それはかつてとある神が、ティールに毒牙を向けた男を消滅させたように。
以前までのエルティナであれば、今既にオースティンの姿は消えていたに違いない。しかし、彼女はティールと共に過ごした日々により、人と殆ど変わらぬ思考能力を有している。
他人よりも優位であれば喜の感情を浮かべ、劣っていれば怒、哀の感情を抱き、皆と話している時には楽の顔を見せる。
そんな彼女だからこそ、このままオースティンを消したとて、ティールやヘイゼル、ソウカの気持ちが晴れるかというとそうでは無いという事を知っているのだ。
「……私はそれこそ傀儡では無いのです。その人の抱く憎しみや悲しみ、喜びなどの感情を理解出来ているつもりです。今、彼女をこの世界から消してしまう事は出来ます。ですが、何か心に引っ掛かりが出来るのはあなた達でしょう?」
エルティナが首を持ち上げると、神妙な顔つきをしたティールの顔があった。復讐、というと聞こえが悪いが確かにこのままにしておいて収まるほど彼女らは仏の心を持ち合わせてはいない。
「はてさてどうしたものか……。とりあえず水責めにでもする?」
「……あなたが一番人の心を持っていませんよ」
エルティナが苦笑いを浮かべ、ヘイゼルも反応に困ったかのように顔を顰める。
そうして各々がオースティンの処遇に対する案を練り、されど妙案も出ず、唸り声も出なくなった頃。
「……あ、れ。……ティア…………?」
「っ、ソウカっ……!?」
眠そうに欠伸を零しながら目を開けたソウカの声を聞き、ティールはソウカの寝るベッドの脇に飛び付いた。
彼女の肌は血色も良く(半吸血鬼と思えない程に)、傷だらけだったとは思えない程、すっかり治癒され綺麗になっていた。
「……ティア、な……の?」
「……うん、…………俺だよ。ごめん、迷惑かけて」
「…………ううん。あなたが帰って来てくれたのなら、それで充分」
心配そうに覗き込むティールの頬を、ソウカはその手で優しく撫でる。
そんな彼女の顔を見て、張り詰めていた何かがどっと溢れて来たのか、ティールは大きく一息を吐き出した。
「生きてると分かっても、ヒヤヒヤするもんだな……。……でも、ほんとに良かった……」
「……私も」
少し高揚したお互いの顔を見つめ合い、周りの目があると言うのにも関わらず唇と唇を重ねる。
「おやおや……」
「わあ……」
「おあついねぇ……」
それぞれが感嘆の声を零すが、誰も空気を読んで割って入ろうなどとしない。普段なら茶化している所なのだが、とヴィオラは思ったが、此度起きたことにおける彼女らの心労を気遣って腕組みだけして俯瞰することにした。
が、もちろんこの世界にはそんな風に空気を読める人ばかりでは無いということを忘れては行けない。
「おお、感動の再開からの熱いキッスね。焼けるねぇ」
「なっ……!!」
「いっ……!?」
店のドアに取り付けられている鈴の音が響いたかと思うと、両手に弁当を抱えたトゥルナが、病室に駆け込んで来て二人のベッドの脇で茶々を入れる。
無論、そんな風に何の比喩も無しにこの状況を説明されると思ってもいなかった二人は顔を林檎のように真っ赤に染めて爆発し、お互いを突き放すようにして距離を取った。
「なんならそこでおっぱじめても構わないわよ?あぁ、シーツの交換は自分でやってよね?」
カラカラと笑いながら弁当を机の上に置くトゥルナは、二人を尻目で見ながら極悪的な笑みを浮かべてそう言った。
ヘイゼルは大きく首を傾げ『おっぱじめるってなんですか?』という場違いな質問をエルティナに問いかけ、それを聞いてエルティナは心底面倒くさそうに溜息をつき、ヴィオラは頭を抱えて近くのベッドに身を投げた。
「なあ、………………こいつが一番人の心を持ってないんじゃ……………………?」
「当たり前でしょう。吸血鬼なんだから」
「「……………………はぁ………………」」
――――――
何だかんだありつつも、一時休憩という事で各々がトゥルナの買ってきた出来合いの弁当を頬張りながら思考を巡らせる。無論、目覚めたばかりのソウカとティールにはトゥルナが適当に拵えた病人食が渡された。
「……味がしねぇ……」
ガチガチに固まった黒パンにバターを塗り、味の薄い野菜のスープでそれを流し込みながらティールは顔を歪めた。
「病人分は買ってなかったのよ。我慢しなさい」
「そもそも俺は病人じゃねぇし……」
とはいえ、魂の移植を行ったり、過度な戦闘だったりで体調が優れるかと言われればそうでは無い。故にこういう病人食のようなものは有難いのだが、やはり元日本人としてはお粥に梅干しを乗せたものをちまちまと啜りながら食べたいものだ。
「あの……一切れ食べますか?」
そんな彼女哀れんだのか、ヘイゼルが手に持っていたサンドイッチの一切れをティールに渡そうとする。
幾枚かのハムにレタス、それをマヨネーズで味付けした至って普通のサンドイッチ。決して味が良いとは言えないが、噛んでも噛んでも小麦の粉感の残る黒パンよりは幾分もまじであろう。
「おおぉお、やはり持つは心優しき友よ……」
ティールはわざとらしく涙ぐんで、ベッドから飛び降りてそのサンドイッチを受け取ろうとした。
「…………んだよ」
が、その手は鋭い目付きをしたトゥルナによって叩かれ、ティールは不服そうな目で彼女の事を仰ぎ見た。
「これはヘイゼルの物よ。……そもそもあなたが体を取られていなければこんな事にはならなかったんだからね」
「…………むぐ」
黒パンのせいで口内の水分が無くなっていたからか、ティールは言葉を詰まらせた。そしてそのパンを受け取る手を引っ込め、渋々手元のパンにかぶりついた。
「別に私は構いませんが……」
「良いのよ。ちょっと戦いに飢えてるからって余裕こいて大事になったんだから。少しは痛い目を見てもらわないと」
別にトゥルナには何の被害も出ていないのだが。
半ば無理矢理パンを口の中に突っ込み、手に着いた小麦の粉を叩き落とすティール。
「んで、皆食いながら聞いて欲しいんだけど……俺に一つ案があってさ」
ティールは椅子の上で雁字搦めに拘束されているオースティンを指差しながら言った。
「ほんははんへふふぁ?」
「食い終わってから言えよ……」
口をパンパンに膨らませながら食い入るように聞くエルティナに対してツッコミをいれるヴィオラ。お互いに大した面識は無いはずだが、年の功か、かなり打ち解けているようである。
「どのような案ですか?」
「……それは」
悪魔的な目付きでオースティンを眺めるティール。話している間にも時折薄ら笑いが零れるのも、とても主人公とは思えない形相であった。
だが、その案というのは妙案だったようで満場一致で賛成と言うことになった。
――
数日後。
「あー!バカ!フライパンは逐一洗って!?……あと、さっき机拭くのサボったでしょ!!……ほら!手持ち沙汰でも自分でやる事を探す!!」
「……このっ、我を使役するなど…………!!!」
厨房の奥からやんややんやと怒声が飛び交っている。そんな声をまるで森の野鳥の囀りを聞くかのように清々しい顔で聞いているティールとヘイゼル。二人は店のテーブルに頬杖を着きながら厨房の奥の方を眺めていた。
「にしてもよく思い付きましたね、こんな事」
「伊達に長く生きてないからな。嫌がらせだけは頭が回るのよ」
彼女らが目を向ける厨房の奥では、エプロンを巻いて鍋を振るソウカと同様に似合わぬエプロンを身に付けた傀儡姿のオースティンの姿があった。
『傀儡』の心臓はヘイゼルが食らった為、今のオースティンに魂に干渉するだけの能力は無い。そこで戦闘能力を全く持たない新たな傀儡を作り、そこへオースティンの魂を移動、保管させ、ソウカの元で働かせる事にしたのである。
「あの傀儡はエルティナの特別製さ。関節部は球体にして可動域と滑らかさを改善した代わりに、魔力回路をめちゃくちゃにしてあるから魔法を使おうと思っても大した魔法も使えない。せいぜい手から水を出したり火を出したり程度だな」
要するに改善した体を提供する代わりに労働をしろ、という訳である。労働といってもソウカの補助である為、地下労働なんかよりかは幾分もマシであると思って欲しい。
それに加え、エルティナの粋な計らいにより彼女が人に殺意を向けて何か行動をした場合、それぞれの関節部が強制分解するという機能が付けられている。
要するに殺意を持ってソウカに手をかけようとすれば、オースティン自身が行動不能になるという訳である。
「少なからず今の体から解放するには、俺達の店をぶっ壊した損害分働いて貰ってからだな……。めちゃくちゃ大変だったんだから」
壁に空いた大穴を修復するのは中々骨が折れる作業だった。というのも、壁一面を変えるのであれば業者に頼めば良いのだが、一部分となるとそれに応じた木材を買って来て、ティールが魔法で変形させてはめ込むという作業をしなければならないのである。
木材を売っている店というのも多くは無いし、修復の作業も繊細な作業であるが故に数週間かかった。
その修理をしている間にも、ティールのオースティンへの苛立ちというものは高まっていき、最終的に彼女の傀儡の首の後ろにあるスイッチを押すと玩具のように首が吹っ飛ぶという意味不明な機能まで搭載された。
「んでも『傀儡』の力を使いこなせるのが早くて助かったよ。……俺もある程度魂の操作はできるけど、器から器に移すような繊細な行為は出来ないしな」
ティールが視線をヘイゼルの方へ向け言うと、ヘイゼルは小っ恥ずかしそうに頬を掻きながら謙遜するようにして返した。
「とは言ってもかなり使いにくい力ですよ。……相手の魂がある程度消耗していないと器に移す事も出来ませんし。相手と自分の体を交換する事なら簡単ですが、メリットがありませんし」
オースティンがティールと体を交換する事にメリットがあったのは、彼女の体が扱いにくい傀儡の体から戦闘能力に長けたティールの体になったからであって、それ以外の状況であれば一般的に交戦相手と体を交換した所で得られるメリットというのは中々無い。
この力は、オースティンが傀儡の体を持っているからこそ使えた能力と言っても差し支えないだろう。
「それよりも、この力の方が役に立ちますね。……『幻惑』でしたか、相手に幻覚を見せることの出来るこの力は何かと役に立つかもしれません」
オースティンが有していたもう一つの能力、『幻惑』。彼女曰く、以前に奪った力だと言う。
相手に、相手の心の隙となりうる幻覚を見せ大きな隙を作るという中々に陰湿な能力である。
ティールがオースティンと交戦した際、その容姿に亡き妹の姿を見たのもこの能力が原因である。
なお見せる幻覚というのは選択できず、対象の心が自然と求めている物を、そんな物を聴覚や触覚にまで影響を与えて見せるのである。
「砂漠で行き倒れている人がオアシスの幻覚を見るようなもの、か。案外役に立つかもな」
「……試してみますか?」
ヘイゼルが悪戯な笑みを浮かべてティールの顔を覗き込むが、彼女は肩を竦めて首を振り、一言も発さずその提案を拒否した。
「はい、お待たせ。今日のお昼ご飯ね」
「……あ、ありがとうございます」
そうして二人で談笑に耽っていると、ふと視界の外から湯気の立ち上る平皿が現れ、机の上に静かに置かれる。
ヘイゼルが顔を上げると、そこには母性を感じさせるような笑みを浮かべたソウカが盆の上から机の上に皿を移していた。
「あれ、オースティンじゃないんだ?」
「……彼女、あなたの皿は絶対に運ばないって聞かなくて。それに丁度私もお昼にしようと思ってたから」
どうやらティールはオースティンに毛嫌いされているようで、事ある毎に彼女はティールの視界から消えようと物陰に潜んでいた。
魂に干渉された挙句、敗北したのが気に食わないのか。新しい傀儡の体に閉じ込められ、タダ働きをさせられていることに怒りを感じているのか。はたまた他の理由か。
「アイツは役に立ってる?……役に立たないようならスクラップにして捨てて、俺が厨房に入ろうか?」
「少なくともあなたよりは役に立ってるわ。皿も割らずに洗えるし、ある程度なら包丁も使える。傀儡の方が役に経つとはね」
「……むぐ」
ソウカは盆を置き、嘲るような笑みを浮かべながらティールとヘイゼルの間の席に座った。
「ティールさん、料理下手なんですか?」
「馬鹿言え、これでも妹と暮らしてた時は毎食作ってたんだぞ?」
「じゃあ何で……」
「剣を握れないのと一緒よ。皿洗いなんて力の加減が難しいでしょう?変に力を込めでもすれば皿が割れちゃうのよ」
実際何枚割れたことやら……、とソウカは小さく溜息をついた。
手に力を入れる事が不得手となってから、ティールは店の厨房を実質出禁になっている。作業を手伝えば、必ず店の何かが壊れるから、とソウカに言いつけられているのだ。
と、随分ソウカが突っぱねたような感じではあるが、ソウカ的には『ティールに怪我をして欲しくない』『ティールに無力感を感じさせたくない』という思いがあっての行いであったりする。
所謂ツンデレである。
「……あぁ」
ヘイゼルはしまった、と数秒前の自分を殴りたい気持ちになった。人とコミュニケーションを取る事に慣れてきたとはいえ、デリケートな部分に気を使って話をする事は未だ得意では無い。
「そんな顔すんなよ。気にしてねえから。…………さ、飯が冷めちまう。食べよう」
若干重くなった空気を晴らすかのようにティールが一度手を叩き、机の横に取り付けられている引き出しから各々に鉄の箸と匙を配り、手を合わせる。
「頂きます」
「「……いただき、ます」」
流れるように手を合わせるティールに吊られ、つい二人も手を合わせてしまう。これはティールの故郷の習慣であり、この世界にはこのような行為をする人はいない。
だが、この行為の背景にある意味を二人とも聞かされているし、それが悪しき習慣だという訳では無い。
共に生活している内に、癖として伝染ってしまっているのである。
「あ、そうだ。今朝ティア宛に手紙が届いてたわよ。渡そうと思って忘れてたわ」
「……手紙?俺に?」
パクパクと料理を口に運ぶソウカが、ふと思い出したかのように懐から封筒を取り出した。
ティールは箸を置き、その封筒をしげしげと眺めた。
封筒の口は青の封ろうで止められており、その状態を見るにソウカも中身を確認していないようだ。封筒の裏には小さくティールの本名である『ティアーシャ様へ』とだけ綴られており、差出人の記載は無かった。
「ふぅん……?」
確かに戸籍上はティアーシャという名前で間違いないのだが、それでも久しぶりにその名で呼ばれると少しむず痒いような気分になる。何故ならその名は己の母親の名前なのだから。
ティールは眉間に皺を寄せながら、封筒を破かぬようにして封ろうを剥がし、中に収められていた便箋を取り出した。
几帳面に二つ折りされている手紙を開くと、そこには機械で書いたのかと思う程の丁寧な文字がびっしりと羅列されており、彼女は思わず目を細め溜息を漏らした。
「なんの手紙ですか?」
口いっぱいに食事を詰め込みながらヘイゼルがその手紙を覗き込む。が、活字の勉強を初めて間もない彼女はその文面を目にした途端顔を歪め、目を逸らした。
「……ぬぅ……。ソウカ……?」
「自分で読みなさい」
「うえぇ……」
第一言語が日本語であるティールにとって、この手の堅苦しい文章は苦手なのだ。読み書きなら一般人程度には出来るが、公的な文章となると解釈の違いや言葉の使い方がややこしくなる。
ティールは目を細め、文字の上に指を置きながら一文一文丁寧に読み込んでいく。
「……拝啓……、季節の変わり目に……。ここは読まなくていいや。……えーっと……、何かの招待か……?」
ダメだ、もう無理。と無理矢理ソウカに手紙を渡すティール。ソウカは呆れた表情を浮かべながらも渋々その手紙を受け取り、羅列された文字に目を落とす。
「うわ、これスレニア王国からの招待状じゃない。それも国王直々の。……あなたあそこの国王と仲良かったっけ?」
「……スレニア王国?」
ヘイゼルが首を傾げ、問うのでソウカが丁寧に国について説明する。
スレニア王国。
この街から馬車を用いて丸一日程の距離に位置する巨大国家であり、絶対王政を政治体制とする国である。
以前からこの街をスレニア王国の統治下に起きたいと執拗に迫られていたが、全てティールが却下していた。この街はどの国の統治下にも置かないと、強い意志を持って。
故にその時の王とは関係性が険悪だったが、そういえば最近その王が退位したとか何とか。
「しばらく何も関わってこないなあ、と思ってたんだけど……。こうも急に関わってくるとは……?」
「あんまり疑い過ぎるのも疲れるだけよ?隣国の社交辞令として送ってきただけかもしれないじゃない」
「……うん」
ティールはソウカから再び手紙を受け取り、流し見るようにして手紙を読んでいく。
「……ああ、新国王の即位式か」
「……即位、式?」
「うん、先代の王が王を辞め、新しい王が出来ることをお祝いする式だよ。……何で俺まで呼ばれたのかよく分からないけど」
文面には、式へ招待出来るのは二人までとなっている。恐らくソウカと二人で出れるように向こうが配慮したのだろう。
「……招待状は二人分。どうする?ソウカ、来るか?」
「うーん……、私はパス。なるべくお店は空けたく無いし、私とあなたが行ったらヘイゼルとオースティンが残るじゃない。……二人はなるべくくっ付けないようにしたいわ」
そう言うとヘイゼルが申し訳なさそうに頭を垂れた。いくらオースティンの体にセーフティが備わっているとはいえ、流石に二人っきりで店のお守りをさせる訳にはいかないだろう。
留守にしている間に何が起こるか分かったものでは無い。
「じゃあ俺とヘイゼルで行くか?学園ももうすぐ長期休暇が始まる事だし」
「うん、良いんじゃないかしら。……ヘイゼルは大丈夫?」
ソウカはその提案に相槌を打つも、すぐさまヘイゼルの顔色を伺った。ある程度のコミュニケーションスキルがあるとはいえ、彼女はこの世界をこの街しか知らない身だ。
そんな彼女を突然隣国に連れて行ったりして良いものなのだろうか。
「私は……大丈夫です。むしろ……!その隣の国というのがどんなものなのか、見てみたいです」
「そっか、じゃあ決まりだな」
自分の思いを飲み込まず、口に出したヘイゼルを見てティールは満足気に手を叩き、皿の上の料理を平らげた。
「式は二週間後だけど、どうせスレニア王国に行くのであれば俺も行きたい所があるんでね。少し早めに行くとしようか。……ソウカ」
「ええ、お店の事は任せておいて。それにまだ少し時間があるから、その間にヘイゼルはキチンとヴィオラに稽古つけてもらうのよ」
「はい……!分かりました……!」
こうしてティール、そしてヘイゼルのスレニア王国への旅が決定した。
「……ほんじゃ、俺は庭の手入れしてくるわ。あのアホに黒焦げにされたんでな」
「あ!私も!手伝います!」
「ん、じゃあ植物を使った魔法でも教えるかね」
「はーい!」
二人は食器を厨房へ戻し、中でせっせと皿を洗うオースティンを一瞥して庭へと向かった。店自体はある程度直ったが、庭が黒焦げではご近所さんに顔が立たない。少なくとも焼け焦げた植物の灰くらいは片付けなければ。
「……ふ、ヘイゼル。珍しく嬉しそうね」
一人テーブルに残ったソウカは、そんな二人の背中を眺めながらボソリと呟いた。
ティールとソウカは婚姻関係ではあるものの、同性であるため子供は出来ない。別に欲しいと思った事もあまり無いが、いたらどのような日々を過ごしていたのだろうかと考える事はあった。
そんな中、ソウカはティールが連れて来たヘイゼルを己の子供のように見て過ごしている。自分の素性も世界の常識も知らず、言葉を話せるだけの赤子のような彼女の面倒はキチンと最後まで見続けたいと思っていた。
そしてしばらく一緒に生活している中で、ヘイゼルは元より感情が表に出ないタイプであるということが分かってきた。勿論それが悪いという訳では無いのだが、全て周りの言いなりの、自分の意見を通せないような子にはなって欲しくないと考えていた。
そんな彼女が目を輝かせてティールについて行きたい、と自らの意思で主張したことは、ソウカにとっても喜ばしい事であった。
「……それにしても、国の長でもないティールに何で……」
再び手紙を手に取って、おもむろに鼻を近付けてみる。蛇女であるソウカは人間と比べ物にならないくらいに嗅覚が鋭い。そんな彼女は、手紙の表面に薄らと不思議な匂いが着いていることに気が付いた。
「……これは、花の香り?」
無論、王国から直々の手紙なのだから向こうで使われている香水の匂いかもしれない。だが、この匂いは香水のように人為的に作られた匂いでは無い、本物の花の香りに近いような気がした。
「……?」
何となく引っかかるが、手紙に花の香りが着いていた程度で訝しげに思う必要も無いか、とソウカは手紙を折り目に反って半分に折り、元は言っていた封筒の中にそれをしまい込んだ。
――
「……っ、ぐっ、お、ぅぇええぇ――――」
胃の底から込み上げてくる不快感に、思わずペンを取る手を止め、部屋角の鉢の前に座り込む。
「げっ――――――――がっぶ…………。……が……、はあっ………………はあっ…………はあっ……」
口からその物を吐き出していると、呼吸を忘れ意識が飛びそうになる。
吐瀉物のような液体状の物ならまだマシだったであろう。
「ぜひっ――――――――ぜひっ――――――――」
飛びゆく意識を掴まえんと、たどたどしく呼吸を行い、彼はその場に四つん這いになるかのようにして鉢の中を覗き見た。
何度見てもおぞましい、その物は。何年にも渡ってこの体を蝕み続けている。
なまじ、死の宣告が行われるような大病よりもタチが悪い。こうして毎日毎日死にものぐるいでその物を鉢に吐き出さなければならないのだから。
「……早く、楽にしてくれ……」
頼みの綱は既に投げた。後はそれに彼女が気がついてくれるかどうか。
暗く、まるで牢獄のような石造りの部屋の中に、一枚の桃色の花弁が舞った。