日常 〜ライフナレイション〜
蹄鉄が石畳を打ち、軽快なリズムが白昼の街に響く。人々の慣れ親しんだ馬車だ。そのすぐ横をポンコツ、ポンコツ、奇妙な低音を伴って四角の箱、自動車が通り過ぎていく。
撒き散らされた排気に乗客は眉をひそめ、悪魔の乗り物等と小声で罵る。
道中幾度か人の乗り降りを挟み、馬車はオフィス街に隣接する歓楽街へと到着した。すし詰めの馬車から様々な客が次々吐き出されていく。それを見守る馬たちはどこか爽やかな顔をしていた。
馬車の運転をしていた御者は懐から鎖のついた懐中時計を引っ張り出した。
時間を確かめ、よし、と呟いて彼は台から降りる。
駅舎から四人ほど同社の者がやってきて馬のあせを拭いたり、バケツに入れた水を馬たちに飲ませたりしている。
耳のすぐ下まで頭を突っ込む飲みっぷりは清々しい。
御者は人で混まないうちに、と昼の休憩に出かけていった。
昼時はやはり往来が多い。
何を食べるか、そんな事を考えながら歩くので混雑しがちなのだ。
フランスパンを抱えた町娘やステッキを携えた老紳士、機嫌の悪そうな警官、バリエーションに富む人の川を渡りきり、御者はようやく店頭にたどり着いた。
『Ìle Sole~潮騒のカフェテラス~』
いつもの木彫りの看板を確かめると、彼は心が踊った。すぐにドアを押して店に入る。
チリン、チリン。
涼しげな音と共にいらっしゃいませ、と挨拶する給仕の声。
不協和音にお気に入りのシルキーボイスを聞き取ると彼は満足げな顔をした。
芳醇なコーヒー豆の香ばしさ漂う中、程よく人が占める席の打ちに空いたバルコニー席を見つけると彼は小走りに陣取った。
羽織っていたジャケットを椅子の背もたれに掛けていると、軽い足音が近づいてくる。
御者が振り向くと思ったとおりの人物だった。
白いブラウスに黒のパンツ、店の指定の長いエプロンに身を包んだ細身の少女。ふんわりとした亜麻色のボブカットは艷やか。
目が合うと長い上向きのまつげに縁取られた銀の双眸を細め、たおやかな微笑みを返してくれる。
「お疲れ様です。ご注文は如何になさいますか?」
「いつものサンドと、イタリアンエスプレッソを二杯」
こう言うと、彼女はちょっと困ったように眉尻を下げる。
「もう、私の分は要りませんっていつも言ってるじゃないですか」
「イタリア人がエスプレッソを頼むときのマナーだよ」
それに、未来ある若者に投資できるなら一杯なんて安いもんさ、と後押しすると彼女はしょうがない、というふうに肩を竦めた。
「じゃあ、ごちそうになりますね」
「それはよかった」
少々お待ちください、と定型文を残して彼女は店の奥に引っ込んでいった。駆け足の風で髪がぱたぱた動くのがかわいらしい。
このウェイトレスの名前は”モモ”と言う。店の客や、店員は皆彼女をモモと呼ぶのだ。きっと愛称の類いだろう。
『Ìle Sole』はモモがここで働くようになってからかなり繁盛するようになった。昔から御者は常連客であったが未だかつてこんなに盛えた記憶はない。
モモという女性はまだ若く、十代後半程度かと思われる。若々しさに溢れていてその上容姿がきわめてすぐれている。遠くから見ても美人だし、近くなら尚更だ。上品な吊り目は豊かな長いまつげを添えて銀色の珍しい瞳と合わさって神秘的ですらある。華奢な体格故にどこか儚さも感じる。
一番は、モモの明るい振る舞いだ。今の『Ìle Sole』の春の風のような雰囲気はほとんどモモ一人がかもしだしている言ってもいい。とにかく、ここに来て彼女を見ていれば疲れが取れるのだ。本当に、不思議なことに。
別の給仕が水を運んでくる。ここ、アルザスの街ではあまり水が綺麗ではないのでガラス瓶に入ったスプライトが机に置かれる。
それを片手に近くのバスケットから今日の分の新聞を探す。なんとか一部見つかったので注文の品が来るまで読むことにする。
一面の見出しはこうだ。
『祝 ”教会”成立二十周年 人魔大戦の軌跡』
”教会”。
彼らは”神”に代わる世界の守護者を自称しており、主にクロス教と呼ばれる宗教が浸透している文化圏の国家に点在し、各国政府に直属し、細部まで定められた軍隊的規律に則って活動する組織である。
かつてこの世界は”神”が守っていたという。クロス教はその神々を崇拝対象として掲げており、信徒の信心によって”神”は人類に敵対する怪物や悪魔を退け、富と栄華を与えたというのが彼らの教義の芯なるところだ
しかし、その富と栄華により、人類は”科学”という自然法則を可視化した知恵を手に入れた。
初めは神の存在証明を目的としていた”科学”であったが証明を重ねる内についに神を地上から追放し、ただ見守っているだけの存在ヘと書き換えてしまった。
神はいない、ならばこの世界は神のためにあるものではない。我々が有効に使おう。
”科学”はその出自を隠され、副産物である”力”、”技術”だけが注目されるようになった。人類は驕り高ぶり、あたかも自らを取り巻く環境すべてが支配下にあるように振る舞い始めた。
増えすぎた人類はついに人類同士での戦争すら始めてしまうようになる。
大量生産、効率重視、奴隷輸入、生命酷使。
多大な犠牲を払って飽くなき利益を求め続け、戦火は拡大する。
人々は権力に保証された金属と紙幣の価値に踊らされ、よくよく反芻もしない鵜呑みにする知識によって次々信心失っていった。
そのたびにまた一柱、一柱と神は消えていった。同時に、かつての敵対者の記憶も。
やがて百年戦争とすら呼ばれるようになった時、突如として怪物や悪魔共が人類の前に姿を表し、宣戦布告をしたのだ。事態は急速に混迷化していった。
怪物や悪魔、すなわち”魔なる物ども”はある種神と似たような存在である。”神”が信心を糧とするなら彼らは恐怖を糧とする。
故に人間には恐怖を忘れてもらっては困る。力を手に入れさせすぎる訳にはいかない。
何かに頼る力は不安が残るが、自ら切り開く事のできる力は何よりも心強い。だが、”魔なる物ども”は人間にはそうであってもらってはならないのだ。
”魔なる物共”は再び恐怖を世界に広げるべく戦いを仕掛けたのだ。
百年戦争はここに転換期を迎える。
次々に国家が滅ぼされていく中、かろうじて残った7つの大国は対魔聖戦同盟を結び、団結して抵抗。百年戦争は人魔大戦へと変わり、さらなる地獄へと昇華した。
連戦連敗を続ける内に人々は再び神に祈りを捧げたが、もはや大半の神は消え、行き場のない願いは大気に溶けた。
神は死んだ。
誰かが、そう言い捨てる程にこの絶望は深かった。
そこに”教会”が現れた。
彼らは神の死に、こう反駁した。
確かに神は死んだ。しかし、神はは我々の生命に宿っている。
”教会”の構成員は大半が”半神”すなわち神と人の間に生まれた者達で占められている。
古代の記述を見る限り、こうした半神が生まれるケースは多く、中には消えた神の力を発現させた人物もいるという。
彼らはクロス教を中心に団結し、神の力を授かりし者の使命と称し、人類の守護者たるべく前線に立った。
人間の力と神の力を操る彼らの出現は闇を切り裂く太陽であった。
対魔聖戦同盟は失地奪還を発動。人類の反撃が始まる。
そして、ついに三十年前にどうにか人類は神世の時代までの支配領域を取り戻し、対魔聖戦同盟及び”教会”は失地奪還の達成を宣言。”魔なる物共”は戦いの過程で統率者を失い、散り散りになった。
しかし、人魔大戦を通して人々は”魔なる物共の存在を認知し、恐怖を思い出した。彼らの勢力は依然、強いままだ。
”教会”は当初の目的を維持して活動を続け、各国政府からの保護を受けつつ、復興事業や慈善活動にも手を出している。
対魔聖戦同盟は現在も継続し国家間の安定化と人類の安全に貢献し続けている。
概ねこんな内容の記事を読み終える頃にはテーブルに注文のメニューが届いていた。
「お待たせしました。ソーレサンドとコーヒーが二杯……それと私のサラダです」
目を丸くする御者にモモは照れたように笑い、「せっかくですからご一緒に」と言う。
「あ…いいのかい?お店の人が困るんじゃ……」
「今日はもう上がりなんですよ。諸事情で夜中から働いていたので」
「それは大変だったろうね」
いえいえ平気です、と言いながらモモは御者の向かいに座る。
少し周囲の目線が痛いが、まぁ昼時に色を添えられるならやすい対価だと思う事にして彼はソーレサンドに手をつけた。
ソーレサンドはÌle Soleオリジナルメニューで、柔らかめのフランスパンの間にハム、レタス、ゆで卵を崩した物にチーズを加え、さらに特製のコクがあるトマトソース――生のトマトと香辛料、細かくて挽いた肉がとろけるまで煮込んだ贅沢品―――をかけた絶品料理だ。
サイズも大きく、ボリュームたっぷりなのにお手頃な値段で昼時の客はだいたいこれを食べている。欠点としては個数限定といったところか。
モモは中くらいのお椀に様々な種類のサラダをドレッシングと混ぜてからフォークで口に運ぶ。
「モモちゃん、お昼はそれで足りるの?」
ソーレサンドをまるっと人齧り、芳醇な香りごと飲み込んでから尋ねる。
「御者さんこそ、もう少しお食べになられては?」
「いや、あんまり食べすぎてもね。お腹いっぱいだと動きづらいんだ」
「大変ですね」
お互い様さ、と御者は返し、コーヒーを一口すする。
「実は私、お肉が食べられなくって」
「えぇっ、それは大変だろう」
「そんなに驚きます?」
モモは小首をかしげた。玉ねぎを三切れ串刺しにしたのを飲み込む。
「肉を食べれない生活なんて僕には想像できないな。あの塩と胡椒で味付けされたジューシーな肉が舌の上にやってくると、まるで天国みたいなのに」
立て板に水の如く流れてくる表現にモモは口元を抑えてくすくす笑った。
「グルメレポーターに転職なさってはいかがですか?」
「魅力的な提案だね」
御者は冗談めかして笑ってみせた。
「おいしさは理解できますよ。私も昔は食べてましたし」
「どうして食べれなくなっちゃったの?」
「うーん………」
モモは眉尻を下げて俯いた。言いたくない事があると彼女はいつもこの仕草をする。
御者はまぁいっか、とごまかしてソーレサンドを齧った。
「でも、たまにフライパンの上に菜種油をひいて、豆腐を焼いたものに塩を振って食べますよ」
「えーっと、豆腐って……東洋の大豆製品だっけ?」
「そうです。さっき言ったふうにするとお肉みたいな味がするんですよ」
「へぇ…今度機会があったら買ってみようかな」
「はい、是非。南部の露天マーケットで売られていますよ」
言いながらモモはサラダを口に運ぶ。
「しかしまぁ、なんだ。君はまだ育ち盛りだ。悪いこと言わないからもっと食べておきなさい。ほら、まだ口つけてないサンドあげるから」
「えっ、大丈夫ですよ私はっ」
それにあんまり奢って頂いたコーヒーの代金返せていませんし……とモモは続ける。
「……ひょっとして奢られるの嫌だった?」
あまりにもモモが浮かない顔をしているので御者は心配になった。
「いえっ、そういうわけではっ……ただ……」
「ただ…?」
「どうして私なんかに施しをしてくださるのでしょう……って思って……」
「若い子を応援したいからだよ」
まぁコーヒー一杯じゃ安すぎる気がするんだけどね、と御者。
モモはまた困ったような顔をしていたが、御者がお茶目にウィンクするのを見てふふっ、と小さく笑った。
「ありがとうございます。私、もうちょっと頑張って生きてみますね」
「そこは夢かなんかを言うところじゃないのかい」
「夢ですか……」
モモはコーヒーを一口すすった。
「すみません、今は…まだ」
「うん。いきなり聞かれても夢って答え辛いよね」
「はい……」
「なら、僕は君が夢を見つけられるように応援しよう」
そう言って御者はソーレサンドの端っこの方をちぎって皿に置いた。ちゃんと肉も抜いている。
残りの部分をペロリと平らげ、彼は代金をテーブルに置いた。
「ちょっと喋りすぎちゃったな。そろそろ戻らなきゃ」
「はい。ご苦労さまです。えと、このサンドは……」
「食べといて!勝手だけど、自分のためだと思って!」
御者は慌ただしく席を立ち、ジャケットを抱えて店から走り出た。
「お仕事頑張ってくださーいっ」
モモは律儀に御者の姿が見えなくなるまで手を振って見送った。
さて、こういうわけで手元に残ったサンドだがモモは食べるのを迷っていた。あげる、と言われたとはいえ他人が頼んだものだし、今まで奢ってもらったコーヒーの分もある。正直、気が引ける。
ちょうどその時、モモのお腹がキュウッっと鳴った。動物の鳴き声のような音は意外と大きく、聞こえてしまった数名の客はくすくす笑った。
とても恥ずかしく思ったモモは顔が赤くなるのをごまかすようにサンドに齧り付いた。