ひとりの男
彼は、ピアノが欲しい、と願っていた。ある日、金が手に入ったので、ピアノを買った。そして、下手なりに、ピアノを弾いていた。彼はベートーベンが好きであり、孤独を感じた時に、その際の心境と調子が合う曲を演奏していた。
あれは、月のとても大きい夜のことだった。どこかの犬の遠吠えが、何度もしていて、やまない夜、男が杖をついて道を歩いていた。その男は、”ああ、外国の人になれたらなぁ..”と呟きながら、月を見ていた。様々な回想を踏まえながら、閉まっている銀行のそばを通りかかった。辺りは自分ひとりで、誰もいなかった。銀行の中も誰もいない。”面白くないか..”と呟き、また歩き始めた。
人一人いないその通りを黙って歩いていたので、杖の音だけがこだまして、心を明るくしてくれていた。男はのどが渇いていたので、どこかで水を飲もうとあたりを見回した。だが、人が一人もいないので、また”面白くない..”と呟き、歩き出した。丁度、川にさしかかった時、遠くで犬が川に溺れていた。前の晩、大雨が降ったので増水したと見える。男は、あたりを見回し、誰もいないと悟ったので、上着を脱ぎ捨てその濁流に足を入れた。しばらくして犬を我が手の中にした。少しの余裕を心に作って、その犬を助けた。犬はどこかへ走って行き、男はあたりを見回した。さっきと同じように、人は誰もいない、と悟ったので、その感動は冷め、また歩き出した。月はとても大きかったのである。
しかし、やはり下手であった為に、いい加減にしよう、とピアノと自分に愛想が尽き、ピアノを弾く事を辞めた。彼が、ピアノを弾く際に使用していた楽譜はまだ新しく、2ページ目以降に掲載されてある全ての曲を、彼は知らなかった。ピアノを弾く事を辞めて3日後に、彼は想像していた。次に「ピアノを弾こう」と思うのはいつだろう、と。