冬の女王
「ナッシー、そろそろ起きなさーい。朝ご飯の用意、できたわよー。」
ポフ様の声だ。昨日遅くまで本を読んでいたので、まだ眠かった。でも、起きなきゃ。
「はーい、ポフ様。すぐに行きまーす。」
僕はそう答えると、すぐにベッドから飛び起き着替えた。鏡を見ると髪の毛にすごい寝ぐせがあったけど、…まあいいか。僕は部屋を出ると急いで階段を降りて食堂に向かった。いい匂いがここまで漂っている。
「ポフ様、おはようございます。」
スープを注いでいるポフ様に挨拶した。
「おはよう、ナッシー。台所にパンがあるから持ってきてくれる?」
「はーい。」
僕は台所にあった焼きたてのパンを、テーブルに持ってきた。
「ありがとう、ナッシー。じゃあ、食べましょう。」
「はーい、いただきまーす。」
「いただきます。」
僕とポフ様は朝ご飯を一緒に食べ始めた。ポフ様が作ってくれるお料理は、何でも美味しい。
「ナッシー、昨日は遅くまで何をしていたの?」
「おもしろい本があったので読んでいました。」
「そう、それはいい冬の過ごし方ね。外はまだまだ雪がいっぱいあって、とっても静かだから本を読むことに集中できるわ。」
「ポフ様は何をしていたんですか?」
「わたし? わたしも本を読んでいたのよ。…ずっとずっと昔から伝わる本があるのよ。」
「おもしろいんですか?」
「おもしろいわよ。…でも、ナッシーには読めないわよ。」
貸してもらおうと思ったのに、先に止められてしまった。
「どうして読めないんですか?」
「その本は、今は使われていないずっと昔の言葉で書かれているからよ。」
「ポフ様は読めるんですか?」
「わたしは冬の女王よ。それくらい読めないと勤まらないわ。」
ポフ様はわざとらしく威張ったふりをしながら言った。…けど、すぐに笑い出した。
「あはは、ダメね。ナッシーに威張ってみたかったんだけど、あれが限界。威張るのって大変ねぇ。」
ポフ様は女王様なのに、とっても気さくで優しい。…僕を助けてくれた恩人だけど、そのことで何か言ったりしたことも無い。ポフ様と暮らす毎日はとっても幸せだ。
あっという間に全部平らげると、一緒に片づけをしてポフ様といつもの散歩に出掛けた。塔の外はまだ雪が降っていて、昨日よりも積もっていた。塔をぐるりと囲む高い塀に沿って歩いて、最後に東の門に来た。門の内側においてある雪だるまは昨日と全く変わりが無かった。
「ポフ様、春の女王様はどうしたんでしょうね?」
「…そうね、いったいどうしたのかしら? いつもなら、もう来ている時期なのに。」
ポフ様は心配そうに、ずっと東の空を見ていた。
「季節の到来が変わってしまうと、この国のたくさんの人達が困ってしまうわ。蓄えていた食料が、もう残り少ないから心配だってみんな言ってたのよ。」
そう言ってから、ポフ様はしまったっていう顔をして僕の方を見ないようにした。
「…ポフ様、僕を置いてけぼりにして街に行きましたね?」
「え、あ、…うん。春の女王がなかなか来ないから、街の人達が困ってないかなーって思って昨夜見てきたの。…ゴメンね。」
ポフ様に先に謝られてしまったので、何か言いにくいな。
「ポフ様、今度は連れてってくれるって言ってたじゃないですかー。」
「…うん。だからゴメンね。今度こそ一緒に行こうね。」
「約束ですよ。」
「わかったわ、約束ね。」
そう言うとポフ様は、僕と指きりをして約束してくれた。僕は指きりするポフ様を見て、ポフ様と初めて会った日の事を思い出した。
「あれ? ここ、どこ?」
僕のつぶやきは、周りの雪にあっという間にかき消された。周りを見渡すと、元は草原だったことがかろうじてわかるぐらいの雪が積もっていた。
「あれ? 寒くない。」
こんなに雪があるのに、少しも寒くなかった。
「どこから入ってきたの?」
急に声がしてびっくりした。振り返るとキレイな女の人が立っていた。
「あなた、誰? どうしてここにいるの?」
「え、…あの、その。」
何とか答えようとしたけど、それで僕はわかったんだ。…自分の名前も、過去の記憶も全て忘れてしまっていることを。
「どうしたの? 答えなさいよ。」
僕は何が何だかわからなくなって、泣きそうになりながら答えた。
「…ゴメンなさい。僕は自分が誰なのか、ここがどこなのかわからないんです。どうしてここにいるのかも、自分の名前もわからないんです。」
ようやくそれだけ言うと、僕はなんだか立っていられずに座り込んでしまった。女の人は僕を不思議そうな顔で見ていた。黙ったまま僕の周りをぐるっと回り、もう一度僕の顔を見てこう言った。
「あなた、影が無いわ。」
「…えっ?」
「自分の周りを見てごらんなさい。…あなたの影はどこにも無いわ。こんなにいいお天気なのにね。」
そう言われて自分の周りを見てみた。…僕の影はどこにも無かった。どうして影がないのか僕にわからなかった。
「あなた、人間なの?」
女の人が、うろたえている僕を見てそう言った。
「昔からの本に書いてあったの。すごーくたまにだけど、人間がこの世界に迷い込むって。彼らはこの世界の住民じゃないから、影が無いって。…ホントにいたんだ。」
何だか感心したように僕を見て嬉しそうだった。
「確かに僕は人間です。…自分の名前も思い出せないけど。」
僕がそう言うと、女の人は優しく微笑んだ。
「ようこそ、この世界へ。わたしの名前はポフ、北の女王よ。冬の女王とも呼ばれているわ。よろしくね。」
僕は何が何だかわからないまま、ポフ様に答えていた。
「こちらこそ、よろしくお願いします。…ポフ様。」
「ねぇ、あなたのこと何て呼べばいいのかしら? 勝手に名前はつけられないし。」
ポフ様は少しだけ考えていたけど、すぐにこう言った。
「よし、これからは君の事をナッシーって呼ぶことにするわ。影も無いし、名無しだからナッシーね。本当の名前がわからないから、君のことを呼べないから仮につける名前よ。…イヤだった?」
ポフ様が僕のことを気遣ってくれていることがわかった。…初めて会った僕のことを。
「イヤじゃないですよ。今日から僕はナッシーですか、…何だか不思議と違和感は感じませんね。」
そう言った僕に、ポフ様は指きりをした。
「これはずっとずっと昔から伝わる約束の儀式よ。ナッシーがこの世界で暮らしていけるように約束するわ。もしわたしがいなくなっても、他の女王もわたしが交わした約束は守るわ。」
ポフ様はそう言って、もう一度微笑んだ。
「ようこそ、この世界へ。歓迎するわ。」
あの日から僕はポフ様とこの塔で暮らしている。この塔は『季節の塔』という名で知られていて、季節の女王がその季節の間に暮らす場所なんだそうだ。本当は季節の女王だけしか入れない敷地と塔で、僕がそこにいたこと自体が本来はおかしいらしい。でも僕は『影無し』で、つまりこの世界のものではないからしょうがないってことになったって聞いた。この世界の人がこの敷地内に入ることは、とっても重い罪になるとも聞いた。四季の移り変わりを阻害することがとっても重い罪だから、同じ刑罰になったって本に書いてあった。
「ナッシー。」
「何ですか、ポフ様?」
「…春の女王が来ないの。この国の王様も困って、お触れを出したらしいわ。無理なお願いだとは思うけど、春の女王の城まで行ってきて欲しいの。」
「僕がですか?」
「ナッシーにしか頼めないのよ。わたしはここから遠くに離れられないし、他の者では春の女王の城まで時間がかかりすぎるの。一番速く動けられそうなのは、ナッシーなのよ。」
「わかりました、ポフ様の頼みならお任せください。さっそく向かいます。」
「ありがとう。…うれしいけど、ケガとかしないでね。」
「子ども扱いしないでください、ちゃんとできます!」
こうして僕は、まだ来ない春の女王の元へと向かうことになったのだった。