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ヴェンジー達姉妹の両親は、物作りが大好きで、さらにとことん拘る人達だった。全てが行き届いた都心の一等地での生活を捨て、昔ながらの風習、伝統に則ったパラオでの隠居暮らしを選ぶほどに。
そんな両親の気質は、ヴェンジーにもしっかりと受け継がれている。
彼女は農業高校卒業後に農協勤めを経て、地域おこし協力隊に所属し、過疎村に移住した。農業を生業とした自給自足生活は、まさに思い描いてきた理想の生活だったが、長閑な農村内で起こった過去に類を見ないある刑事事件勃発により、悲惨な結末を迎えてしまったけれど……それでも、農業への憧れはヴェンジーの中では潰えなかった。
それゆえに最初こそ戸惑ったものの、中世ヨーロッパ然としたビランディアでの生活に彼女が溶け込むのは、比較的早かったのだろう。
夜半を過ぎて雨足が遠退き、今にも零れ落ちそうな星々が瞬く夜空を眺めながら、ヴェンジーは胸を撫で下ろした。
自室のバルコニーは、彼女のお気に入りの場所だ。久々にそこに出ることが出来て、暗雲立ち込めていた胸中にも光が差し込む思いだった。絶景を前に漏れそうになった嘆息を、彼女は慌てて飲み込む。
ヴェンジーには、何があっても溜め息を吐かないという信条がある。それは年端も行かない頃、母から聞かされた寝物語に由来する……溜め息を吐く度に、幸福を運んでくる青い鳥が飛び去っていくから。
噛み殺した溜め息の数だけ五指に込め、両手で持った革袋にぶつける。
『……ナーゴ』
グチグチと革袋を揉み込む音以外は至って静かなその場所に、か細い鳴き声が混ざり込む。声のした方を彼女が見下ろすと、部屋からバルコニーへ持ち出したカウチに腰掛ける自身のくるぶしに、スリリと漆黒の毛玉が身を寄せていた。
緑色の双眸でヴェンジーを見上げ、再度小さく発した鳴き声には労いの響きがあり、ここ数日固定されていた眉間の皺は一瞬にして解けた。
「トムーっ!」
革袋を脇に置いた彼女は、自ら名付けた名を呼びながら、愛猫を膝の上に抱き上げ、眼鏡がずれるのも気にせずグリグリと頬を寄せる。嫌がることなく身を預けてくれるトムに、ヴェンジーはこの上ない癒しを覚えた。生活振りには慣れたとはいえ、唯一の肉親である姉には滅多と会えない中で、トムの存在は最大の慰めだ。
日本にいた頃から猫好きだったが、住まいの関係で飼うことが出来なかったために、感動も一塩。ブラントの研究室に呼ばれ、初めて出会ったその時に一目惚れだった。初めての猫がいる生活は、その他の不自由を差し引いて余りある幸せなものだ。
艶やかな毛並みは、幾ら撫でても飽きがこない。掌と頬に当たる滑らかな感触にうっとりしながら、ヴェンジーはトムのピンと立った耳元で囁く。
「聞いて、やっとお姉ちゃん達が帰ってくるの」
久々の姉妹の再会を前にして、ヴェンジーの笑顔は背後に背負った星空に負けないくらい輝いている。
旅先で突然の豪雨に見舞われ、諸々のスケジュールが狂った姉夫婦が、ようやく明日帰城すると連絡が入ったのは数時間前のことだ。
「今度はゆっくり出来るといいな、この前なんて半日もお城にいなかったのよ。二人の身体が心配……疲れてるだろうから、帰ってもすぐには会いに行きづらいでしょ?」
問い掛けるような呟きに、返事も相槌も期待していない。こうやって誰にも言えない愚痴めいた呟きを漏らせるだけで、彼女の心は救われていた。言葉など分からないだろうが、主の気持ちを余さず汲むようにまっすぐ注がれるグリーンの瞳ほど、心癒やされるものはない。
嗚呼、何て可愛いのだろう。
目に入れても痛くない。
いっそ、食べてしまいたい。
殊勝な愛猫への度を超した愛情が迸るとともに、一抹の罪悪感がヴェンジーの胸を苛む。
姉夫婦は今も分刻みのスケジュールの下、国中を飛び回っているのだ。元の世界にいた時からフライト・アテンダントとして世界中を飛び回っていたエグジーではあるが、今は当時以上に生き急いでいるように見えた。
彼女に勧められるまま、ヴェンジーがビランディアにやって来たのは、何も失業中の寄る辺のない身の上だったからではない。たおやかな見目に反した逞しいエグジーでも、未知なる異世界にたった一人で旅立たせるのは心細いだろうと思ったからだ。
今までずっと頼ってきた姉を、今度はヴェンジーが支えたい。不慣れな土地に輿入れする不安を和らげてやりたい。胸に決意を秘めてやって来たというのに、互いの顔も満足に見られないのでは本末転倒だ。
エグジーが忙殺されそうになっている間、ヴェンジーはというと、ブラントという絶対的な庇護の下に晴耕雨読、夢だった猫まで飼っていた。
傍から見れば、未来の王妃の妹にしては慎まし過ぎる生活ぶりだろうが……人間関係(そこはマード関係というべきか)はさておき、過疎村で送っていた生活と何ら変わりなく、いっそ理想的といえる暮らし向きだ。
あくまで姉のおまけであると自覚するヴェンジーにしてみれば、自分ばかり好き勝手しているように感じ、後ろめたいのだ。
「……お姉ちゃん、これ食べたらちょっとは元気になってくれるかな?」
『ウニ?』
今し方まで揉み拉いていた革袋に彼女が視線を落とすと、つられるようにトムも首を巡らせ、不思議そうな鳴き声を上げる。
「浅漬けって言うのよ」
きつく結んでいた紐を解いて袋の口を寛げ、中に入っているものを見せてやる。行儀の良いトムは、ヴェンジーの許可なく愛らしい肉球で飾られた前足を伸ばしてきたり、頭を突っ込んだりしない。
トムが鼻先を寄せて、スンスンと匂いを嗅ぐ革袋の中には、輪切りのズッキーニが薄茶色の液体に漬かっている。二種類の香辛料を混ぜた汁が零れないように革袋に入れ、ただひたすらに両手で揉み込むだけで、即席の浅漬けの出来上がりだ。
実に手軽な調理法だが、彼の村で隣家に住んでいた農業の師と仰ぐ老婦人が編み出したその味は馬鹿に出来ない。食文化の違うビランディアでは、醤油と出汁……そのたった二種類の調味料調達にかなりてこずったのだが。
醤油はブラントがよく似た代替品を見つけてくれたが、問題は出汁だ。かつての職場で聞きかじった薄ぼんやりとした知識を頼りに、出汁の素であるかつお節(こちらではシーラと呼ばれる魚を代用したので、正確にはシーラ節だが)を一から作るのは大層難しかった。大陸中央に位置するラグライン王国は海がなく、手に入れられる魚も限られていたのだ。
中世ヨーロッパを題材にした映画で見たような城の中、居住者ごと個別の厨房施設は望めない。毎夜、一日の労働を終えて地下にある宮殿厨房に通い、その片隅で一人試行錯誤を繰り返すこと三ヶ月……シーラ節が完成した日の興奮は、今も鮮やかに思い起こせる。
便利な調理器具の発達した現代日本では、到底味わえない達成感と感動を覚えた。興奮のままに夜なべして浅漬けを大量作成、シットウィル達庭師仲間に振る舞ったのだが、彼らの反応は微妙だった。
異世界人にいきなり漬物はハードルが高かったようだ。ビランディアのこってり食文化に、あっさり薄味な日本食は不評だったのである。どうにか褒め言葉を探す皆の様子は、実に居た堪れなかった。
「一日の終わりに食べると、畑仕事の疲れなんて吹き飛んでたんだけどねぇ」
あの日の失敗を思い出して、再び出そうになった溜め息の代わりに口角を上げる。その笑顔が少々ぎこちなかったのは致し方ない。
「でも、お姉ちゃんの口には絶対に合うはずよ」
しかし、自分自身に言い聞かせるような口調で、ヴェンジーはさらに続ける。
「前に出されるご馳走がすご過ぎて、美味しいけど毎日は正直しんどいって言ってたから」
次期王妃となれば、口に入る料理の質はもちろんのこと、その量も日本にいた頃とは桁違いだった。
異世界迷子の王太子ジャーヴィスを自宅とは別のマンションを借りて養っていたエグジーは、なかなかに高給取りで生活は豊かだった。だがしかし、見た目も大切なフライト・アテンダントという職業柄、美容に良い食事を心掛けており、大食漢からは程遠い。
ヴェンジー自身も、質素堅実な自給自足の野菜を中心とした食生活に慣れ親しんでいた。料理はよく作っていたが、振る舞うのが好きでそこまで食べない。高齢者の多い農村であったために、日々隣近所へのお裾分けも考えて料理の味付けも薄味で、舌もそれに慣れてしまっていたのだ。
所謂お誕生日席に座らされれば、きっと向こう側が霞むのだろうなと思えるほど長い食卓に並べられた料理の数々は、富を誇ることが最大の使命であり、別段残しても失礼には当たらない。けれどヴェンジーには、両親から受け継いだ勿体ない精神と生産者側だった経験から、当初出された料理を残すことは出来かねた。
材料もそれを扱う料理人の腕も超一級で、決して美味しくない訳ではないのだが、しっかりたっぷり味付けされた憎々しい……否、肉々しい料理の数々に、無理を強いた胃腸はものの一週間で音を上げたのだ。
郷に入っては郷に従え。
他所は他所、うちはうちだ。
ビランディアのこってり食文化を否定する気持ちは毛頭なく、何が何でも故郷のあっさり薄味を広めたい訳でもない。ごくひっそりとソウルフード再現が出来ればいいのだ、それで……そう自分を慰めてみるが。
「お姉ちゃん、早く帰ってこないかなー。一緒にお茶漬け食べたいよ。お漬物ってね、ご飯にのっけてお茶掛けるだけでも十分美味しいんだよ……次はお茶っ葉作りかなぁ。香草茶とかあるから、そっちは比較的作り易そうよね。うん」
食の好みを共有できないのはやはり寂しく、ビランディアではただ一人の理解者だろうエグジーの帰りを心待ちにするヴェンジーだった。
そんな彼女の横顔を静かに見つめていた黒猫トムが、一度ゆっくり瞬きをした後に動く。抱き留められた腕の中からスルリと抜け出し、件の革袋の中に頭を突っ込んだのだ。
「トム、……ちょっ!」
その流れるような躊躇のない行動に呆気にとられ、寸の間固まったヴェンジーだったが、大慌てでその首根っこを掴む。少々乱雑な手つきで袋から摘まみ出された愛猫の円やかな口元は、確かに何か固形物を咀嚼していた。
「ダメよっ、トム! ぺって、吐き出してっ……」
小さな猫の身に塩分の取り過ぎは確かに毒だが、彼女がここまで血相を変えて焦っているのには、それとはまた別の理由がある。
トムはいとけない猫の姿をしているものの、ブラントの血から造られた魔導生物であり、彼同様に食べ物を経口摂取する必要がない。後見人の彼から譲り受けた際に、ヴェンジーはそのような説明を受けていたのだ。
日中働いている身には便利だが、餌遣りという至福のひと時を味わえないのが、ほんの少し寂しい。そう思ったからよく覚えているし、誤飲誤食の注意もしていた。
「出してって……!」
その舌で指や頬を舐められたことはあっても、何かを捕食するなんて初めてのことだ。ヴェンジーの自己満足で作った浅漬けのせいで、可愛いトムが体調を崩しては堪ったものではない。必死になって小さなその口に、指を突っ込んだところ……。
『やめなさい、ヴェンジー! その手を放しなさい』
「えっ……?」
突如その同じ口から発された明らかなる人語……そして、よく耳に馴染んだ低音に、再び彼女の動きが止まる。
『……ああっ、もう駄目だ。間に合わない!』
次いで常になく焦った口調で吐き捨てられると同時に、小さな小さな猫の口の中、その指先から猛烈な勢いで吸い込まれるような感覚を最後に、ヴェンジーの意識はブラックアウトした。