2
あの頃の自分は本当の恋も知らないひよっこの箱入り坊ちゃんだった、と思い返す出来事がある。
二年前、度重なる失恋でヤケ酒を煽って前後不覚に陥ったジャーヴィスは、駄目押しのように美人局に騙されるという辛苦を舐めた。ごろつき達の巣窟に連れ込まれ、椅子に縛りつけられた彼は、従者が身代金を持ってくるのを待ちながら、酷い弱気にとりつかれる。
この先ずっと故郷の土を踏めず、辛い目に遭い続けなければならないなら、いっそ死んだ方がマシじゃないのかと……酩酊状態の不安定さも相俟って、ジャーヴィスはまるで操られるように強く舌を噛んだのだ。
口の中に広がる鉄かび臭い血の味に噎せ、朦朧とする意識の向こう側で、周囲がひたすら騒がしかったのをぼんやりと覚えている。金蔓が目を離した隙に自殺したのだから、ごろつき達は堪ったものではなかったのだろう。そこまでは酔った頭でも想定の範囲内で、本当に驚いたのはその後だった。
ふと気が付けば、ジャーヴィスはかび臭い地下室から一変、狭い通路に仁王立ちしていた。周囲には見たこともない衣服に身を包んだ人々が碁盤の目のように整然と並んだ座席に座っており、呆気にとられた様子で自分を見つめている。
驚きのあまり咄嗟に後退ろうとした彼だったが、ブーツの踵は床に敷かれた絨毯にとられ、無様に尻餅をつく。逸る鼓動を押さえて周囲を忙しなく見回す内に小さな窓が目に入り、雲と空しか見えない状況に、口からは堪え切れない頓狂な悲鳴が上がった。後に分かることだが、そこは地球と呼ばれる異世界で、飛行機という名の空飛ぶ鉄の箱の中だった。
肝を潰して座り込んだ自分に向かい、純白のスカーフを緩くなびかせ、狭い通路を颯爽と歩いてくる女性……立ち襟の青い衣装は下肢を浮き彫りにするタイトな膝丈のペティコートで、長い黒髪を夜会巻きにした彼女にとても良く似合っている。ジャーヴィスの頭からは未知への恐怖も失恋の事実も一瞬にして消え去り、出会ったばかりの異界の美女に心奪われたのだ。
それが皇太子ジャーヴィスと、彼の命の恩人でもある最愛の妃エグジーとの摩訶不思議な運命の出会いだった。
「この半年の間に、三回しかヴェンジーの顔を見れてない」
ふと不満げに呟いた妻に、出会った当時を思い返していたジャーヴィスは視線を送る。慈善活動の一環で赴いたフェイジョアのニキタ修道院の一室で、差し向かいの一人掛けソファーに腰を下ろすエグジーは、真紅のルージュが塗られた唇をへの字に歪めていた。公務が終わってようやく訪れた二人きりの時間に、一息ついたところだ。
すこぶる機嫌が悪くても、妻の異国情緒が溢れる麗しさは健在である。ラグライン御用達の意匠師が手掛けたドレスも実に良く似合っていた。もちろん、彼女が地球で着ていた民族衣装……「ふらいと・あてんだんと」なる者の制服が一番の気に入りではあるけれど。
「こんなことになるって分かっていたら、あの子を連れてくるんじゃなかった。別にパラオの両親のところに行かせても良かったんだし……それに貴方も貴方よ。何不自由ない生活を約束するって素敵なこと言ってくれたけど、今のところ不自由しか感じられてないわよ」
「全くもって君の言う通りだ。君があまりに完璧で、期待以上の働きをしてくれるものだから、甘え切っていた。本当に面目ない」
(自分にとっては可愛らしい上目遣いに他ならないが)じっとりとこちらを睨めつける漆黒の双眸にまっすぐ向き合い、彼はこくりと頷いて謝罪する。女性という生き物は、言い訳や実りのない解決策を口にしても余計に怒らせるだけ。真に欲しているのは、肯定と協調であると、ジャーヴィスは最近ようやく分かってきた。
「貴方を支える道を選んだのは私なんだから、文句を言うのはお門違いだったわね。ごめんなさい。貴方に対する謂われのない悪評を覆すために、もっと頑張らないと……分刻みのスケジュールにも、慇懃無礼なヒヒジジイ達に愛想笑いを振りまくのだって、どんと来いだわ!」
整った面立ちに憂いの色を載せるジャーヴィスに、彼女は我に返った様子で怒りを飲み下し、ニッコリと綺麗な笑顔を浮かべた。
初見の相手には庶民の出と軽んじられ易いエグジーだが、一度会えばその認識を根底から覆されてしまう。接客業を生業としていた彼女は、完璧な外面という王妃に必要不可欠な資質を完璧に備えていた。今朝も修道院の礼拝に出席し、修道院長のお世辞にも面白いとは言えない訓話を三時間余りも笑顔で耐え抜き、鋭い解釈まで披露して彼らを感嘆させていた。
それでも、本来愚痴など簡単に口にしない切り替えの早いエグジーが、不満を漏らしたということは……慣れない地での忙しない生活に、相当に疲れが蓄積していたのだろう。そのことを、本当に申し訳ないと思っている。
彼女をラグライン王国に連れ帰ってから半年、久々に戻った祖国だのに腰を落ち着ける間もなく、二人は公務で国中を飛び回っていた。それは十年間、一切故郷に寄りつかなかった皇太子の顔を国民にしっかり覚えさせ、各地方の領主達に新しい主と認識させるためだ。
ラグライン王国は、およそ千五百年前から女王による統治が続いていた。先頃成婚し、現女王の退位を待って即位する予定の皇太子、ジャーヴィス・シルヴァーウッドは、実に十六代振りのラグライン国王になる予定である。
ジャーヴィスは十六歳の頃から、表向きは良き統治者となるべく諸国を漫遊し、帝王学を学んでいることになっていた。ただし、十年間一切祖国に戻らず、出戻り王子への国民の反応はあまり芳しくない。放浪癖があるとか、あまりの素行不良で女王に所払いをされた等々、根も葉もない噂が蔓延していたのだ。
このまま王位に就いても、本当の理由を知らない外様貴族達や国民からの反感は必須。まだまだ元気な女王ではあるが、母が引退するまでに名誉挽回するようにと命じられた。
それが、放浪王子を立派に更生させた未来の王妃(と、思われている)エグジーとともに、皇太子ジャーヴィスが寸暇を惜しんで公務に勤しんでいる訳なのだ。
本人からしてみれば実に嘆かわしい現実であり、限りなく不本意だ。確かに当て所もなく彷徨い、最終的には世界の垣根さえも超えたジャーヴィスだったが、何も好きで放浪していた訳ではない。むしろ、一所にゆっくり落ち着きたい気持ちは人一倍強かった。
「来週のリードランデ伯爵邸での慈善パーティーを終えれば、城に帰って暫く休めるはずだよ。その間は、君達姉妹の邪魔はさせない……エグジー、運命の人」
ジャーヴィスは彼女の名を呼ぶ声音に、うっとりとした響きを乗せて送り出す。
多少芝居がかっていることは認めるが、投げた言葉には一片の偽りもない。彼女エグジーは、ラグライン王国王子に掛けられた呪いを初めて完全に解いた人物……ジャーヴィスにとって、まさに運命の人なのだ。
王族の者と一部の臣下以外に秘された真実……それは、十六歳までに国を出なければ命がないという、ラグライン王国王子に脈々と受け継がれてきた呪いだ。陳腐な与太話と鼻で笑っていた時期もあったが、ここ二千年余りのラグライン王家の系譜を見せられてジャーヴィスは血の気が引いた。全ての王子の名の下に、十六歳と享年が記されていたのだ。
二千年前、ラグライン王国にどうしようもない放蕩王子がいた。色に狂った彼は権力を笠に着て、貴族令嬢から使用人に町娘、挙句の果てには神に身を捧げた姫巫女にまで手を出すやりたい放題。無理矢理に純潔を散らされ、神通力を失ったある姫巫女は、絶望して自刃した。
王子への強い憎しみを抱いたまま果てた彼女は、その腹に宿した子を媒介として永代続く死の呪いを掛けたのだ。件の王子はもちろん、それ以降生まれた王子もことごとく夭折した。放蕩王子が凶行に及んだ同じ年……つまりは享年十六歳。
三代前に契約マードとなったブラントが解呪を試みたが、姫巫女の霊験あらたかな力に成就した呪いは神罰に程近く、完全には解けなかった。それでも呪いの及ぶ範囲をラグライン王国内に留めることに成功し、次に生まれる王子は国外に出ることで十六歳となっても生き長らえられるようになった。
彼が契約マードになり、久々に生まれた王子こそジャーヴィスだ。十六歳の誕生日の前に故郷を送り出され、国外生活が二年目に差し掛かった頃、ブラントから彼に待ちに待った吉報が届く。
伴侶と互いの聖名を交わす何よりも神聖な儀式、つまりは婚姻をもって姫巫女の呪縛から逃れられるというのだ。ただし、それは決して政略や契約によるものではなく、互いに心を通わし合い、生じたものでなくてはならない。真実の愛こそ、呪いを打ち砕く最大の力だという。
あまりにも陳腐で噓臭い話だったが、藁にも縋りたいジャーヴィスはその事実を知ってからというもの、ひたすら愛に生きた。そして、好意を持てた令嬢方を懸命に口説きに掛かったが、何故か空恐ろしいほどにモテなかったのだ。
見つめていると溺れそうになるような深く青い瞳に艶やかなハニーブロンド、微笑む顔は修道女さえ蕩かすと言われてきたジャーヴィス。それなのに、自らが心惹かれる女性に限り、恵まれた容姿も優雅な物腰も通用しなかった。姫巫女の呪いは、そんなところでも絶大な威力を発揮する。
そうして失恋を重ね、自棄になって自殺未遂を起こすが、呪いが完全に解けていないジャーヴィスは、呪い以外の理由で死ぬことが出来なかったらしい。ブラント曰く、無理に自刃したせいで彼の運命にひずみが生じ、本来なら天に召されるところを異世界に飛ばされたとのことだった。
突如ビランディアから忽然と姿を消した自分を探し出し、無事に戻ってくることが出来たのは偏にブラントのお陰だ。そちらの方法は特秘事項だと教えてくれなかった。ただし、マードではないジャーヴィスは、きっと説明されても理解出来ないだろう。
「ありがとう、ジャーヴィス。貴方を信用しない訳じゃないけれど、問題はヴェンジーにベッタリな紳士面した変態よ。この前みたいに、あの子に会いに行くのを邪魔されないかしら?」
「エグジー……せめて、王都に入ってからは謹んでおくれよ。ブラントは千里眼なだけじゃなく、地獄耳でもあるから」
奇しくも頭に思い描いていた相手に対するとんでもない評価を口にしたエグジーに、ジャーヴィスは慌てて忠告する。
エグジーがジャーヴィスの求婚を受ける必須条件であった妹ヴェンジー……姉である彼女とラグラインが誇る契約マードは、その所有権を巡って静かに火花を散らしていた。
ヴェンジーは人目を引く容姿の姉と違い、どこまでも素朴な眼鏡娘だ。彼女のどこにそんな求心力があるのか、ジャーヴィスは常々不思議に思っている。エグジーは肉親の欲目ということもあるだろうが、マードが一個人に執着したという話は聞いたことがない。
「ド変態が権力を持つと手が付けられないっていう良い見本ね。あの子……ヴェンジーったら、どうしてそんなのばかり引き寄せるのかしら! 日本にいた時から何度も変質者につき纏われていたけど、ここまで手に負えない相手は初めてだわ」
「変質者って、さすがにそれはブラントが気の毒だ。以前軽く聞いた話でも、日本の方が強烈だっただろう。特に、ヴェンジーを失職に追い込んだという男なんて、最終的に収監されたそうじゃないか」
「ああ……あの子の畑から大根を盗んで、引っこ抜いた後ご丁寧にも大人のオモチャを突き刺してったイカレ野郎」
とてつもなく酸っぱい物でも口に入れたように、眉間と鼻の頭に微細な皺を刻んだ麗しの王妃は、酷くどす黒い声音で吐き捨てた。
「……いや失礼、それは初耳だった」
暫し絶句してしまったジャーヴィスは、遠退く意識を必死に繋ぎとめようと、左右にフルフルと頭を振る。
「ええ? じゃあ、盗んだ鉢植えの代わりに、中身を抜いたアダルトDVDのパッケージを置いていった方? そう言えば、わざとあの子と同じ名前の出演女優だったわねっ、おぞましい! 何でそう言う輩は変な痕跡を残さないと気が済まないのかしら。中身を抜くっていうのもセコいったら……まあ、置き土産から足がついたから不幸中の幸いだったけれど」
「待って待って待って、エグジー! 仮にも我が国誇る契約マードをそんな破廉恥な輩と一緒にしないでくれっ! いくら彼でも犯罪行為に手は染めないはずだ」
……多分。
「多分じゃないでしょう、断言しなさいよ」
心の中で呟いたはずの迷いをさっくり見抜かれ、苛立たしげな口調で指摘されたジャーヴィスは、ビクリと肩を揺らした。エグジーの鋭い洞察力には、いつも驚かされる。
「私が心配してるのは、日本の変態は逮捕できるけど、ラグラインのマードに人が作った法律なんて最終的には通用しないんじゃないかってことよ。抱え込んで、自分の良いように誘導して……あの尋常じゃない執着心に、ボロボロにされないかって怖いのよ。そうじゃないって、本当に言えるの?」
ふと真顔に戻ったエグジーは、厳しい口調で問うてくる。眇められたその目の奥に、妹に対する深い愛情と不安が垣間見えた。
「もちろんだとも。彼は、絶対にヴェンジーを肉体的にも身体的にも損なうようなことはしないさ……聖名に懸けて、本当だ」
膝の上で強く握り締められた彼女の手を握ったジャーヴィスは、居住まいを正してそう誓った。それでもエグジーは納得がいっていないのか、自らを見返す黒曜石のような瞳はまだ微かに眇められている。
異界出身の彼女にとって、聖名に懸ける誓いの重さが今一つ伝わらないのか、単に自らに説得力が足りないのかは不明だ。
「……分かったわ。早くお城に帰ってゆっくりしたいわね」
それでも暫くすると、軽く息を吐いたエグジーは首肯する。不承不承という表情が完全には拭い去れないが、それでも納得してくれたことにジャーヴィスはホッと胸を撫で下ろした。
「そうだね、あと一息頑張ろう」
彼も妻が気に入ってくれている輝くような微笑みを送り、力強く頷く。
しかし、二人はまだ知らない。明日の朝、フェイジョアを何の前触れもなく台風のような大型の嵐が襲い、何もない田舎町に一週間の足止めを食らうことを。予定が大幅に狂ったせいで待望の休暇は立ち消え、王都に戻るのは一ヶ月先のこととなる。
果たして、それが天候さえ自在に操り、地獄耳を持つ彼の契約マードの意趣返しかどうか……数多の公務に追い立てられる次期国王夫妻に確かめる術はなかった。