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この扉の前に立つと、いつも緊張する。
重厚なオーク材の扉の前に立つヴェンジーは、心細げに眉毛をハの字にしていた。
ここはブラントの研究室だ。イーサント城に身を寄せてからここ半年、随分と世話になっている。姉は皇太子妃となったが、ヴェンジー自身は王家系譜の隅っこに名を加えられただけ。爵位を得た訳でも、領地財産をもらった訳でもない……実際くれると言われても、それに伴う義務制約の方が厄介らしいので、欲しいとも思わないのだが。
そんなただのヴェンジーを気に掛け、周囲の要らぬ憶測や誹謗中傷から庇ってくれるのが後見役たるブラントだ。実に有り難い存在であるが、ただ有り難いだけで済まないのが悩ましいところ……シットウィル達に感謝していると告げた言葉に偽りはない。ただし、対峙する前はどうにも緊張が伴う。
彼はラグライン王国の契約マードで、分かり易く言うと魔術師だった。悠久に近い時を生きるマードと契約を結ぶことに、ビランディアの国々は躍起になっている。何故ならマードは容姿こそ人間に似ているが、自然に満ちる魔力が固まって意志を持ち、姿を得た存在だ。彼らが居つくだけでその土地の魔力が満ち満ちて土壌が肥え、国が栄えるらしい。
厳密には生き物ですらないマードは長命な上に、容姿も衰えない。実際に、ブラントは三代前の女王の時代から、髪の長さも含めて一切姿形が変わっていないそうだ。
茶色が混ざるヴェンジーと違って、彼の黒髪は星一つ出ていない闇夜のように濃い。肩までのストレートを一筋の乱れなく綺麗に後ろに撫でつけているから、若干額が広く見え、それがまた聡明な顔立ちに拍車を掛けていた。エメラルドグリーンの双眸も、虹彩は金色に近い茶色で、光を受けて様々な色合いに変化する……見つめられると、クラクラしてしまう。
長身にもかかわらず顔は小さく、革ベルトで締めつけた腰もびっくりするくらい細い。その下にちゃんと内臓はあるのかと疑いたくなる。少し食べ過ぎてしまうとスカートのウエストがきつくなるヴェンジーを始め、世の女子に喧嘩を売っているかのごときモデル体型だった。
二十一年間の人生、冗談でなく肝を潰しそうになったほどの美形はブラントが初めてだ。遠くから眺める分にはいいが、心臓に悪いし、自己嫌悪にも陥るので、失礼ながら深いお付き合いはしたくない相手……それがヴェンジーのブラントに対する正直な気持ちだ。
「失礼します、ヴェンジーです」
意を決してノックした後、彼女はいつものように返事を待たずに扉を押し開いた。
部屋の主の耳にはノックも自分の声も届いているだろうに、こちらに背を向けたまま奥の机に向かっている。黒と緑を基調とした長衣を身に纏ったその人物は、試験管や見たことのない実験道具を手に、研究に耽っていた。
ヴェンジーは作業の邪魔にならないよう、極力足音を抑えて近づいていく。
「何かお手伝いすることはありますか、ブラントさん?」
すぐ傍らまで来て足を留めると、自分よりも頭一つ半大きな長身の彼を見上げたヴェンジーは、密やかな声でそう呼び掛けた。
「いや、今は特にないよ。ヴェンジー」
そこに至って、ようやく深緑色の双眸が自らに投げられ、艶やかに濡れた声で名前を呼ばれる。たったそれだけのことだったが、彼女の鼓動は瞬く間に騒がしくなった。
呼ばれたのは他人の干渉を受けない仮名であるはずなのに、マードであるブラント相手ではどうにも勝手が違う。彼の声には魔力が宿り、心臓を直接撫でられるようと言うか、魂を吸われるようと言うか……とにかく、ゾワゾワと心が波立つのだ。
「……相変わらず、素敵な声ですね」
歪みそうになった笑顔を隠すように、ヴェンジーは慌てて言葉を紡ぐ。
「子宮に響く声」
「はっ?」
再び薄い唇を割って出た、その甘やかな低音に似つかわしくない生々しい台詞に、彼女はギョッとして声を上げた。
「とある魔術商だが、私の声に対してなかなか刺激的な感想を抱いていてね。先日君に珍しい調味料をやったろう、それを仕入れてきた女性だ……同性の君もそう感じるか?」
両手に掲げるように持っていた試験管を机の台に戻しながら、ブラントがヴェンジーに向き直る。整った顔立ちには、底意地の悪い笑みが浮かんでいた。ヴェンジーが恩人であるブラントに苦手意識を感じる理由の半分は、整い過ぎた容姿と反比例する慇懃な意地悪さだった。
「えっと、私はちょっと違って……心臓を雑巾絞りにされるような感じ、ですかね?」
居た堪れない気持ちになった彼女は、意味ありげに弧を描く唇からそっと目を逸らす。
「それは残念だな。君の方は、訛りも抜けて随分聞き取り易くなったよ」
「あっ……アリガト、ゴザマス」
「どうして褒めた途端に片言になるのだね、君は」
「ソレハ……貴方ガ耳ニ息ヲ吹キカケルヨウニシテ、ノシカカッテクルカラデハナイデショーカ」
わざわざ腰を折り曲げて、自らの左耳側からあざとく上目遣いでエメラルドグリーンの視線を寄越すブラントに、ヴェンジーは赤くなったり蒼くなったり、忙しなく顔色を変える。
「ふふっ……君の心字は読めないが、実に分かり易くてよろしい」
再びピンと背筋を伸ばしたブラントは、そんな彼女の反応に気を良くしたらしく、猫のように瞳を細めて一頻り嗤う。
マードは千里眼と言われ、対面する人間の声に出さない思いまで見通せるらしい。丁度漫画の吹き出しのように、考えたことが頭の上に文字となって見えるのだと言う。それは文字通り「心字」と呼ばれている。ブラント曰く手を加えれば隠すことも出来るし、中には心字の見えない人間もいて、自分もその中に含まれるらしい。
けれど、何もかも見透かしたような言動をしてくる彼を、どこまで信用していいものか分からなかった。ここ半年で分かっているのは、ブラントが紳士的な人物に違いないものの、時折どうしようもなく意地悪を仕掛けてくることだけ……マードの性質らしいが、相手の苦手分野を容赦なく揶揄してくるのだ。ヴェンジーの場合、それは色恋沙汰で毎度反応に困る。
「……あまり、苛めないでくださいよ」
「失敬だな、私は最大限の親愛の情を向けているつもりだが? 君もいい加減、慣れたらどうかね。逐一緊張していては疲れるだろう」
心外だと言うように彼が左眉を跳ね上げると、台の上の試験管の中でチリリと緑色の火花が散る。目の端に映り込んだそれを、ヴェンジーはまるで線香花火のようだと思った。
正直言って、自分に付き合って疲れるのは彼の方だろう。マードの最大の特徴は、人間嫌いだと聞いている。彼らと対峙した時、人はその完璧過ぎる容姿や心を読まれることに慄いて、滑稽な失態を繰り返すはずだ。そのせいで、相手をすることにうんざりしたのかもしれない。時には嫌味を言いたいくらいに……つまるところ、今のヴェンジー自身だ。
「ヴェンジー、君はまた馬鹿なことを考えているだろう」
自己嫌悪に駆られていると、見透かしたようにブラントが口を開く。
「人間の中には救いようのない浅ましい者達もいるが、君と君の姉君はそんな輩達とは全く違う。自我を得て長いが、私が名を与えたのは君が初めてだからね……最初は心字が読めないのが悔しかったよ。君を知るにつれて、実に単純な……いや、人一倍分かり易い性質だと分かって安心したがね」
作り物のような綺麗な笑みを浮かべるブラントは、褒めているのか貶しているのか判断に困る言葉を続けた。
この世界ビランディアでは、生まれた時に付けられた名前が聖名と呼ばれ、特別な力を秘めている。だから滅多なことでは他人に伝えないし、呼ばせもしない。自らが心から忠誠を誓う主や、愛する者にしか聖名を伝えてはならないのだ。それを破ると、名前とともに人生全てを奪われるらしい……詳しい仕組みは、まだ正確に理解していない。
何故なら、ヴェンジーは本名を園田睦月と言い、れっきとした日本人だから。生まれも育ちも地球、両親ともに日本人であり、半年前までは異世界どころか海外で暮らしたこともなかった。ヴェンジーという名は、ブラントの言った通り、この世界にやって来てから彼に付けられた仮名だ。一緒に来た姉の皐月は、エグジーという仮名を夫であるジャーヴィス皇太子から贈られている。
平凡な一日本人だった睦月がヴェンジーとして、異世界に来ることになった理由は姉だった。皐月はひょんなことから青い目のイケメン外国人と出会い、熱烈な恋に落ちた。後に彼がお忍びでやって来ていた異世界ビランディアにあるラグライン王国の皇太子であるジャーヴィス・シルヴァーウッドと分かったが、その頃にはお互い別れるなんて考えられず……彼にある条件を呑んでもらうことで、皐月は一緒に異世界へ行くことを了承したと言う。
その交換条件と言うのが、睦月の存在だ。当時、姉のマンションに居候中だった彼女は勤め先をリストラされ、無職だった。なかなか再就職が決まらず、貯金を切り崩す生活を送る自分を、姉はどうしても一人残しては行けなかったのだ。
両親は二人とも退職後の夢だった南の島パラオに移住済みで、親戚とも疎遠だった。頼れる人は姉しかいなかったのだ。おまけに、ジャーヴィスがやたら流暢な日本語を操り、口も恐ろしく巧いせいで心細さにつけ込まれ……コロッと丸め込まれてついて行けば、そこは異世界という具合だった。
純粋に心配してくれた姉には悪いが、ヴェンジーは人生の重大な決断を誤った気がしてならない。今でも、寝て起きたら全ては夢でしたなんて事態にならないかと思うことがあった。
「ヴェンジー、覚えておいで。現女王が退位するまで後数十年ばかり、君の姉君は一年の大半をずっと皇太子について公務で城を開けるだろう……と言うことは、陰謀渦巻く城内で君を守れるのは後見役の私だけになる。もっと頼りにしてくれていいのだからね」
「……そう言って頂けると、心強いです」
絶対に丸め込まれていると分かっていながらも、ブラントの言葉は事実なので、ヴェンジーは頷くより他ない。
実際に、ラグラインに来てから姉と顔を合わせる機会は、半年の間に片手で余るほどしかなかった。放浪癖で有名だった皇太子の独身時代のつけが回ってきたのか、いつ休んでいるのかと思うほどに二人は公務に駆り出されている。
「本当に君は、単純でよろしい」
彼女の疑念を見透かすように、ブラントがニイッと音がしそうな人の悪い笑みをくれた。
彼は意地悪でも、とても親切だ。
それは間違いない。
ただ、このまま言う通りにしていたら何もできない人間に成り下がってしまう。
危機感を覚えたヴェンジーがここ半年、どうにか自活しようと試みたが、それをことごとく邪魔してくるのもブラントだった。シットウィル達庭師とともに農作業をするのも、大いに反対してくれた。その時は口論の末にヴェンジーが泣き出してしまい、渋々彼が折れてくれたのだが……涙を武器にしたようで後味が悪かったものの、今では結果オーライだと思っている。
ブラントは自分に余計な知恵を付けさせたくないらしい。ビランディアの共通言語や、城の中で生きるために必要不可欠な宮廷マナーは快く教えてくれるものの、色んな隠し事をされているのに薄々は気付いている。ヴェンジーは名目上彼の研究助手になっているが、やっていることは室内の掃除だとか、ヴェンジーでなくともいいような仕事だ。
決して、理不尽な扱いを受けている訳ではない。けれど、マードである彼にとっても、ヴェンジーは珍しい異界人なのだ。実験動物のように思われている気がしてならない。
「この世界でまだ何の印もついていない君を守るのは私の役目だ。私を信じて、君を幸せにしてあげる」
無意識に伏せた顔を覗き込んできたブラントは、いつになく真剣な顔つきで言葉を紡ぐ。まるでプロポーズのような台詞は、初めて会った時に告げられた言葉と同じだ。
姉と一緒に連れて来られた謁見の間で、女王陛下に自己紹介をするより先に、ヴェンジーの前に歩み出てきて跪いたブラントの姿に、周囲が騒然としたのを覚えている。御年六十歳とは思えないほど矍鑠として威厳に満ちていた女王陛下が、悲鳴を上げて卒倒し、そのまま場はお開きになった。あれには心底びっくりした。
それ以降、会えば欠かさず言ってくれる魔法の言葉……聞けばヴェンジーの胸に渦巻いていた疑いは霧散し、まるで刷り込みのようにブラントを信じなければと思えてくる。それが事実だという保証はどこにもなく、彼の本当の目的も分からないのに。
当時のことを思い返しながらエメラルドグリーンの双眸を見つめ返していると、ブラントの手が自らに伸ばされ、耳元に触れた。次の瞬間に視界がぼやけ、目の前の整った顔から目鼻口と輪郭が消える。
「さて、新しい眼鏡を試してごらん。ヴェンジー」
その言葉に、彼女はようやくこの研究室を訪れた目的を思い出す。
正体を失ったブラントが今どんな表情を浮かべているのか、視力矯正器具を奪われたヴェンジーに知る術はなかった。