新入りの眼鏡娘
沈みゆく夕陽を受け、尖塔のてっぺんに吊り下げられた鐘が、緩く左右に揺れ始める。イーサント城中二階にある空中庭園の一角に設えられた畑で、それまで黙々と作業していた庭師達は、遠く響いてきた鐘の音にチラホラと背後を振り返った。
「今日の作業は終わりだ。皆、お疲れさん」
まとめ役であるシットウィルは、伸びをするように中腰の身体をゆっくりと起こし、本日の作業終了を告げる。
「お疲れ様です、シットウィルさん」
「お疲れ、ヴェンジー……ああ、そうだ。これ、持ってくといい」
真っ先に声を掛けてきた彼女に、シットウィルは己の足元を指差す。
無造作に置かれた籐細工の籠の中には、ズッキーニのようなウリ科の野菜がぎっしり入っていた。形が歪なものに、間引かれたらしい極端に小さいもの、逆に大き過ぎるもの、一部が黄色く変色しているもの等々……つまり、商品価値がない規格外品だ。
「……やったっ、ありがとうございます!」
ヴェンジーは黒縁眼鏡の奥の瞳を輝かせ、謝意を告げてくる。
彼女は、仲間の中で一番年若い娘だ。ブルネットの髪と瞳はこの国でも見掛けるが、一目で異国出身者と分かる肌の色や顔立ち、やや大きめな黒縁眼鏡が人目を引く。ラグライン基準の美人ではないものの、彼女が浮かべる笑顔は人好きのする愛らしいものだった。
「わざわざ傷物でなくたって、分けてやれるのに……ホントにいいのかい?」
「悪いのは形だけで味は最高なんですから、十分ですよ」
屈託なく続けられた言葉に相好を崩したのは、恐らくシットウィルだけではあるまい。本当に親父心を擽る娘である。
「あー……っと、アサヅケだっけか?」
「はい! 私の故郷の味です」
シットウィルがそう尋ねると、彼女は嬉しそうに頷いた。
ヴェンジーは、遠い島国からの移民だ。姉エグジーはここラグライン王国のジャーヴィス皇太子の妃で、半年前一緒に移住してきたのだ。たった二人きりの家族で他に寄る辺がなかったため、エグジー妃は妹も連れていくことを条件に、ジャーヴィスの求婚を受けたらしい。
そんなヴェンジーがシットウィルの元で働きたいと言ってきた時には、酷く驚いたものだ。今は王族として迎え入れられているのだから、わざわざ働く必要などないだろうに。
非常に扱いに困る。故郷では自分達と同じように農業を営んでいたそうだが、どうせお遊びで、すぐに音を上げるだろう。それまで我慢するしかない……シットウィル達の抱いた予想は大きく外れ、今では皆がヴェンジーを娘のように可愛がっていた。
皇太子妃の妹という立場にもかかわらず、特別扱いを厭う彼女は礼儀正しく、働き者だった。重労働も泥だらけになることにも、不平一つ漏らさない。楽しそうに働く年頃の娘の姿は、周りの者達にとっても励みになっていた。
「ブラントさんが、昨日南方の商人から仕入れたって珍しい調味料をくれたんですよ。それが故郷にあったショウユっていう調味料にそっくりで、きっと今度こそ美味しく作れると思います」
「そっか、うまくいくといいな……そういや、学者先生の研究室には今日も寄るのかい?」
「はい、ありがとうございます。今日はお仕事じゃないんですけど、新しい眼鏡が出来上がったって連絡をもらって」
いそいそと籠を持ち上げながら、ヴェンジーはあの人好きのする笑顔で頷く。
「あー、よく掛け直してるもんな」
なるほど、と彼も頷いた。
ヴェンジーが今掛けている眼鏡は、彼女の顔に対して大き過ぎると常々思っていた。小休憩ごとに外して、負担の掛かる目頭や耳を揉む姿もよく見掛けていた。
「あの学者先生も、君には甘いんだな」
自分がほんの子供の頃……およそ四十年は容姿の変わらない学者先生こと、この国ラグラインの契約マードであるブラントの姿を思い描きながら、シットウィルはつくづく大したものだと呟く。
「お城に来てからずっと気に掛けてもらって、ブラントさんには本当に感謝してます」
そんな彼の心中を知ってか知らずか、ヴェンジーはこの国では女王に次ぐ権力者を気安く名前で呼んだ。彼女は自分達の農作業を手伝う傍ら、ブラントの助手として細々とした手伝いもしていた。
見た目は人と変わりないが、気の遠くなる年月を生きるマード。強大な魔使いである彼らは個人差があるものの、気紛れかつ人間嫌いが大半だ。また、マード達は聖名でなくともその名を易々と他人に呼ばせなかった。それなのに、ブラントはヴェンジーにそれを許し、大事な研究室にさえ招き入れることさえ躊躇わないのだ。
その上、姉と一緒に王族に迎え入れられたとはいっても、立場が不安定な彼女の後見役まで務めているのだから、驚きだった。
「今日頂いたズッキーニを漬けたら、きっとすごく美味しくなりそうです。上手くできたら、明日のお弁当に皆さんの分も持ってきますね!」
それでは、と頭を下げて駆けていく後ろ姿をシットウィル達は微笑ましく見送った。
「ヴェンジーが生まれた島国って、どこらへんだろうね? 皇太子妃殿下もあの子も、大陸ではあまり見掛けない顔立ちだけども。もしかして、あの子も学者先生みたいにマードってことは……」
「あんな人懐っこくて、ド近眼なマードなんているかね。マードの千里眼は、心字まで読めるっていうじゃないか」
「我が国唯一のマードのお気に入りなのは確かだけどなぁ。ご結婚されるまでジャーヴィス殿下の放浪癖といったら凄まじかったから、きっと世界の裏側でお妃様やあの子に出会ったんじゃないか?」
「そりゃあり得る。最初は何喋ってるかチンプンカンプンだったもんな……ええと、ニッポーって言ってたか」
「いいや、ニッポンだ。ヴェンジーみたいな子が育つんだ、きっと恐ろしく平和で腰の低い民族の国だろうよ」
渡り廊下の向こうにその姿が消えるまで、庭師達はそう口々に話していた。