キノコと男
日が昇るまでに数時間は必要と理解できる程、暗闇。男が1人、山の中を歩いている。
年の頃は30前後といった所で、日頃の運動不足のせいか顔や腹がふっくらとしている。
男は遭難者であった。2人の友人と紅葉狩りに出かけたところまでは良かったのだが、帰り道の途中で物珍しいキノコに、少しばかり気を取られてしまった。気がついた頃には仲間の姿はどこにも見えなくなっていたのだ。
今は、生い茂る木々の隙間から微かに零れ落ちる月明かりのみを頼りにして、道無き道を歩いている。
「あー、寒い……」
うっすらと白い息を吐きながら男は呟いた。
元々、日帰りの予定だった登山である。Tシャツにパーカーという男の服装は、追加で羽織った雨合羽を考慮しても夜の山中を快適に過ごせる作りではなかった。また、長時間の運動によりかいた大量の汗が、着実に男の体温を奪っていく。
もちろん、遭難した時はその場を動かない方が良い事は知っていた。しかし、知識と感情は往々にして相容れない物である。故に「ちょっと歩けば仲間に追いつけるだろう」、「もう少し進めば誰かに会えるさ」と、自らが遭難したという事実を認められぬままに歩きまわり、結果、あたりには人の気配など全く感じられなくなっていたのだ。
男は、右手に木の棒を持っていた。足に疲れが溜まってきた頃に偶然見つけた、杖として使うのに丁度いい長さの棒だ。その棒に体の大半を預け、紅葉を踏みしめながら一歩、一歩と山を登っていく……いや、降りているのか……。
(わからない……)
山を登っているのか降りているのか理解できなかった。なぜなら、先程から歩いている道が、全て平面になっていたからである。どこにも斜面は見えない。その事に気づいた男は、惰性で動かし続けていた歩みを思わず止めてしまった。
「ははっ……しまった……」
立ち止まった事ではっきりと感じてしまった足の疲れと痛みが、再び動き出すのは困難だと如実に語っていた。一瞬感じた絶望を打ち消すように、半笑いで言葉を発してはみたものの、どんどん押し寄せてくる負の感情に押し流されてしまう。
強張った体をなんとか動かし、ズボンの左ポケットに入っている"それ"に手を触れた。
「こいつさえ無ければなぁ……」
本心からそう考えたわけではない。事実、男がそれを持ってきた事にも特に理由はなかった。ただ、とても、とても興味が惹かれたのだ。遠ざかる仲間の姿にさえ気づかなくなる程に。目的も無いのに摘み取ってきてしまった程に。
わずかに冷静さを取り戻した男は、「このまま立っていても仕方ない」と思い、周囲を見渡した。すると、すぐそばに椅子になりそうな切り株があることに気がついた。
男は背負っていたリュックを地面に置き、切り株に腰をおろす。木の棒も地面に置いておく。そして、ポケットから"それ"――例のキノコ――を取り出し眺め始めた。
月明かりを反射しているのだろうか、大人の握りこぶし程の大きさの真っ白なその体は、薄青く発光しているように見えた。
10分、20分と、何かに魅入られたかのようにキノコを見つめ続けていた男だが、時折吹く風が運んでくる寒さにいよいよ耐え切れなくなり、少しでもマシになればと、そばに置いてあったリュックを抱き寄せた。
しばらくの間、押し寄せる寒さにブルブルと震えていたが、ふと思い出したかのように抱きかかえていたリュックの中を漁り始めた。そして、底の方に転がっていた蛍光色の物体を見つけ出すことに成功した。
男がリュックの中から取り出した物、それは1本のライターであった。朝、コーヒーを買いにコンビニへ寄った時、レジの横に並べてあるのが目に入り、「山に登るならどこかで使えるだろう」と思いなんとなく購入したものだった。
名も知らぬコンビニ店員に心の中で礼をしつつ、すっかりかじかんでしまった両手をなんとか動かして火をつけてみた。目が暗闇に慣れてしまった事もあるかもしれないが、人工の明かりが一切無い闇の中に灯った炎は、太陽のように眩しく、暖かく、男に希望を与えるのに充分であった。
男は、ライターを使って焚き火を行おうと考えた。しかし、ここは秋の山中。燃やす木には事欠かないが、落ちている枯れ葉は絨毯のように広がっており、誤って引火でもしては、たちまち山火事になってしまう。
どうしたものかと、男が考えを巡らせていると、突然、目も開けられないような強風が吹き荒れ始めた。木々はザワザワと枝葉を打ち鳴らし、無数の紅葉が風の流れに乗って宙空を舞い踊った。
「ひぃぃっ!」
情けない声をあげ、男は頭を両手でかばうように体を丸めた。
頭上では何かが弾けるような音が絶え間なく鳴っており、男の恐怖をさらに煽ってくる。
しばらくすると風は落ち着き、周囲は元の静けさを取り戻した。
風と葉と枝の猛襲に耐える為に身を丸めていた男が、ゆっくりと体を起こした。体にまとわりついた葉っぱを払いつつ、固く閉じていた目を、ゆっくりと開く。
「……えっ?」
男の目に飛び込んできた光景は信じがたいものであった。円をかくように積まれた程よいサイズの石の中心に、これまた程よいサイズの枯れ木が積まれている。その周囲には土しか見えず、枯れ葉はすっかり無くなっていた。
そう、焚き火の行える環境が作り上げられていたのである。
こんなものは、さっきまでは存在しなかった。だとすると、あの突風によって作り上げられたとでもいうのか。男は狼狽えた。
「あ、ありえないだろ……」
ありえない事だとわかっている。しかし、男は寒さによって限界に近づいていた。
おあつらえ向きに近くには紙切れまで落ちている。男は、紙切れに火をつけ、枯れ枝の中へ放り込んだ。
何もせずとも瞬く間に火が燃え上がる。もう驚かない。男は火の近くに腰をおろし、凍えてしまった体を暖める。
至福。至福の一言である。
しばらくの間、溶けゆく氷の気持ちを堪能していた男だが、体が温まるにつれて今度は腹が悲鳴を上げている事に気がついた。
しかし、弁当は昼に全て食べてしまっている。他に何か無いかと探して見たが、
「これだけか……」
結局、見つかったのは例のキノコのみであった。
男には、キノコの種類を見分ける知識はない。このキノコが毒を持つのか、食用なのか判断する術は無かった。
そもそも、キノコ自体があまり好きではない。小学生の頃、給食に出てきた細切りのシイタケがナメクジに見えて仕方がなかったものだ。
月は、相変わらず空で輝いている。キノコも、それに呼応するように薄青く発光している。
『ぐぎゅるるるる』
腹が、鳴いている。
男は、たまたま近くに落ちていた鉄串にキノコを突き刺し、少しだけ火で炙ってみた。すると、たちまち香ばしい匂いが漂ってきて、思わず口の中で涎が溢れだした。
(そう、まだ中まで、火が通ってないはずだ)
生では腹を壊してしまうかもしれない。ペットボトルの水を飲んで気を紛らわせ、キノコが焼けるのを待ち続ける。
キノコは、蓄えていた水分が沸騰してジュウジュウと音を鳴らし始めた。
あたりにはすでに美味しそうな匂いが充満しており、腹を刺激し続ける。
目がチカチカしてきた。
涎が口から溢れ出てくる。
「……もう我慢できない!」
男はキノコに齧りついた。
驚くほど柔らかい、それなのにしっかりとした歯ごたえが心地良い。肉厚な身を噛み砕く度に、秋風のように風味豊かな味わいが鼻から広がり、体全体へ染み渡る。
「美味いっ! なんて美味いんだ!」
今まで食べたことのない味に、男は夢中になった。1口、また1口と次々に口へ運び、齧り、飲み込んだ。
そして、ついにキノコを1本食べきってしまった。
男は満ち足りていた。人類の進化の礎となった火。その傍に座り、暖かな環境で食べた極上の料理。これ以上の幸せがあるだろうか。
「……あ、まだあった」
男が見つめる先には、1組の布団が敷かれていた。歩いて近づいてみると、太陽の柔らかな匂いが鼻をくすぐった。
ぼふり、とそのまま倒れこんだ男を、布団は優しく迎えてくれた。
「……おやすみなさい」
ふかふかの布団に潜り込み、誰に言うでもなく男はつぶやいた。
とても、安らかな表情をしていた。
男が目覚めることは、二度となかった。
***
ここは山の中。2人の男達が大声で誰かを呼びながら探し歩いている。10分程前、突然仲間の1人が居なくなってしまったのだ。
すぐ傍に生えている2本の白いキノコには気づかず、男達は通り過ぎていった。




