02
歩きながら、セイルは多くを覚えた。
土、砂、草、木、山、川、水、空、雲、他にも多くの言葉とその意味。
次から次へと自分の疑問に答えてくれるノエルという名の少女が、とてつもなく偉い存在に思えてきた。
思いをそのまま伝えて賞賛したが、全て知っていて当然のことばかりだと、彼女は呆れていた。が、その表情は少し緩んでいた。
それからほどなくすると、道の先に多くの建物が見えてきた。
「おいノエル、何だあれ?」
「今日の目的地よ。意外と早く着いたわね」
「お、人がいる。いっぱいいるぞ」
遠目に見える大勢の人影や建物にセイルは興奮を覚えた。
「まあ、町だからね。人だっているわよ」
たわいない会話を交わしながら、二人は町の中へと入っていった。
「この町にも名前はあるのか?」
「ここはアニレフの町。ロストフルールエリアで唯一の町だから人もこれだけ多いのね」
「ロストフルール?」
さあ説明しろと、好奇心のみなぎった瞳で疑問符をぶつける。
「あとで教えてあげる。とりあえず宿を探しましょうよ。いい加減、疲れたわ」
人込みを掻き分け、似たような木造の家屋や店が並ぶ町の中で宿を求めて彷徨い歩く。
宿屋のシンボルである三日月模様の看板を見つけようと辺りに目を配っていたノエルの視界が、水面に石を落としたように歪んだのはそのときだった。
思わず立ち止まり、瞳を閉じてこめかみを押さえた。どうやら眩暈を起こしたらしい。
自分でも驚くほど呼吸が乱れていることに気がつく。昨日から一睡もしておらず、セイルが目を覚ましてからも休まる暇はなかった。久々に町らしい町にきたことで緊張がとけて、抑えていた疲労がふき出したのかもしれないとノエルは思った。
何度か深呼吸を繰り返し、息を整えてからゆっくりとまぶたを開けると、良好に視界は開けていた。
「ごめんなさいセイル、ちょっと疲れてたみたいで……セイル?」
振り返れば当然そこにいると思っていた相方の姿が、さらりと消えていた。
「セイル?」
額からたらりと汗が落ちた理由は熱さのせいだけではない。先ほどノエルたちの前に現れたストーラという名の『ウォーカー』の姿がノエルの脳裏に蘇る。
まさかあいつが?
動悸が激しさを増し、絶望的な気持ちで周囲に目を配ると、意外にあっさりと迷子の姿を見つけることができた。果物屋の影で行商人に捉まっている。
「……どうです、正真正銘の極上ものですぜ?」
「なるほど、それはそんなにいいものなのか──」
深い茶色のローブで全身を包み隠す奇妙な男の言葉をセイルは疑いも持たず、ただただ感服していた。
「こいつを欲しがるお客さんは大勢いるんですが、どうもこいつは兄さんのところにもらいたがってるみたいなんですわ。どうですかね? いつもなら銀貨三枚のところを、兄さんだけ特別に銀貨一枚で譲らせていただきますわ」
枯れ葉に数本の枯れ枝が突き刺さったようなくたびれた手のひらには小さな布の袋がのせられている。中身はわからない。
「銀貨一枚でそれを俺にくれるのか?」
袋の表面には三角形を三つ縦につなげたような模様が刺繍されていた。
「あい。商人に二言はございません」
言葉巧みに、商人はじわじわと獲物をおびき寄せる。
「それはぜひ欲しいな」
「あい。買ってやって下さいまし」
獲物が罠にかかるまで、あと一歩。
「ところで、そもそも銀貨って何だ?」
「……あい?」
獲物から投げかけられた予想外の言葉に商人は困惑した。
そして次の瞬間、凄まじい気迫を纏って接近してきた別の狩人の手によって獲物はあっさりと狩られてしまった。
ぽつりと取り残された商人のローブを、ひゅるりと風がもてあそんだ。
「まったくもう、あんたは次から次へと私に迷惑ばっかりかけて」
「痛い痛い痛い痛い! おいノエル、やめろ、痛い!」
ノエルに頬を抓られながら引っ張られていくセイルは、必死に哀願した。
「私を無視して、あんな胡散臭い商人についていくなんて信じらんない」
声の勢いに比例して、ノエルはセイルの頬をぐいぐいと引っ張っていく。
「違うんだ痛い、お前に喜んでもらおうと思って痛い、話を聞いて痛いんだ」
「私を喜ばせる?」
ノエルは立ち止まってセイルと向き合った。手はまだ頬から離れてはいない。
「あいつに言われたんだ。この薬を使えば、夜、ベッドの上でもの凄くお前を喜ばせることができるって。お前の顔がイライラしてたから、最近ゴブサタなんだろとか何とか言ってたぞ。よくわからなかったけど、そうなのか? お前はゴブサタなのか?」
言い終わってからセイルはノエルの異変に気づいた。
よくわからないが、少女は小刻みにプルプルと震えている。これがゴブサタとかいうやつなのだろうかとセイルは思った。
「御無沙汰も何も、そもそも私にはそんな経験まだだし、イライラしてんのはあんたみたいなロクデナシの世話を毎日毎日やらされてるからよ!」
怒りに身をまかせ、えぐるように深くセイルの頬を抓る。
「イタタタタ! やめれれれ、ちぎれる! ちぎれる!」
未曾有の痛みに顔を歪めるセイルを見て、こんな形で怒りをぶつけている自分がなんだか酷く惨めなものに思えてきたので、ノエルはセイルの頬から手を離した。
セイルは赤紫に腫れ上がった自分の頬を丁寧にさすりながら「ところでゴブサタって何?」と、のんきに訊ねた。
「……もういや、こんな生活」
甲斐性なしの夫に辟易した人妻のように、ノエルは頭を抱えてうなだれた。
そんな少女に、世界は静かに救いの手をさしのべた。
顔を上げた少女の瞳に映る三日月型の看板。宿屋のシンボルである。
「……やっと、見つけた」
安堵の息を漏らし、背後で頬をさすりつづける少年を無視してノエルは扉を開けた。
宿に入るなり鼻先をかすめた木の香りがノエルに纏わりついていた苛立ちをさらっていく。
出入り口のすぐそばにあるカウンターには誰もいない。少し先に二階へとつづく大きな階段があり、二階にはいくつかの扉が見えた。どうやらそこが宿泊部屋になっているらしい。
「ごめんくださーい」とノエルは声を上げる。
すぐに返事がくることを期待したが、宿の中には静けさだけが漂っていた。
「ごめんくださーい」さらに大きな声を出した。
これでダメなら一度出直そうと思った矢先、二階からゴロゴロと物騒な音が響いてきた。
何事かと音の方向に目を向けると、丸い何かが姿を見せた。
丸く、大きく、茶色い。それはさながら岩のように見えた。
それは凄まじい速度で二階の廊下を渡り、階段を転がってこっちに近づいてくる。
あまりに現実離れした事態に、少女は逃げることすら忘れていた。
岩は容赦なく迫ってくる。
あ、これは死んだかも。
ノエルの思考は抗うことをあきらめ、終わりを迎え入れる準備をした。
ところが岩はノエルに衝突する寸前のところでキュキュっと音をたてピタリと止まった。
そして岩から手が生え足が生え、立ち上がり、最後は顔が出てきた。
まばたきする間もなく、岩は大男へと変化していた。その男がニカリと笑って口を開く。
「誰だ?」見た目どおりの厳つい声だった。
ノエルは自分のセリフを奪われた気がした。
「客か?」男の言葉は短くて太い。
喋る筋肉の塊はアブリルと名乗った。この宿の主人だという。
宿屋の主といえば、生きているのか死んでいるのかわからないほどもの静かな老人か、ふくよかな女性であることが大半である。少なくとも今までノエルが出会ってきた宿屋の主たちはそうだった。しかし、この男は何もかもが違う。まず豪快に肌が焼けている。実に健康そうだ。
そしてこの岩のようにゴツゴツした筋肉質はどうしたことか。どうやればここまで肉体を鍛え上げることが可能なのか。部屋の掃除と帳簿つけくらしか仕事のない宿屋の主人がなぜこんなに強靭な筋肉を持つ必要があるのか、そもそもどうして二階からここまで転がりながらやってきたのか。
そんなことよりどうしてあなたは裸に白いエプロン一着という格好なのですかと、ノエルは問いただしたくてしょうがない衝動にかられていた。
若い娘が好んで身につけるようなフリルのついた愛らしいエプロンを身につけた筋肉男。身につけているというよりは、巻きつけているというほうが正しい気がする。
しかし目を凝らしてみると、どうやらこの男は真っ裸というわけではないらしい。自分の肌の色と同じ色の薄い肌着を身に着けているようだ。ノエルがはいているスパッツと同じ、肌に密着する類いの素材でできているらしい。なぜこんなまぎらわしい格好をしているのだろうか。他人を驚かせたい露出狂なのだろうか、それとも筋肉を見せびらかせたい自己陶酔人間なのだろうか。どちらにしろ変態であることに変わりはないとノエルは結論づけた。
ノエルは速やかに回れ右をして店から出ようとした。
少女の小さな肩を上腕二頭筋が異常に発達した大男の腕が捕まえる。
「おい、どこへいく?」
声も行動も外見も悪党そのものだった。
「お店を間違えたみたいなんで帰ります。っていうか肩から手を離して下さい」
自分の肩をつかむアブリルの腕から切ないほど甘酸っぱい香りが漂ってくる。これが男性特有の匂いなのか、この男オリジナルの体臭なのかノエルにはわからなかったし、わかりたくもなかった。
「外に三日月のシンボルを堂々と掲げているうちを何屋と間違えたのかは知らんが、この町で宿屋はここだけだぞ?」
「え?」驚いてノエルは振り返った。「こんなに大きな町なのに?」
「ああ」小頬骨筋を動かしてニヤリと笑う。「ここは旅人に優しくない町だからな」
アブリルの見事な大胸筋が白いエプロンの奥でピクピクと痙攣している。なんだか挑発されているようで、ノエルは不快だった。
彼の言っていることは理解できる。ここはロストフルール。万が一のことを考えれば、長居はしたくない。だからといって、こんな変態がいる宿屋に泊まるのもごめんだ。
「心配するな。当店はサービス満点、加えて俺は子供が大好きだ」
角刈りの筋肉お化けはサラリとそんなことを言った。両手を広げ歓迎のポーズをとっている。あるいは捕まえて食べる気なのかもしれない。
やはりここに泊まるのはよそう。野宿して野獣の餌になるかもしれないが、そっちのほうがまだマシに思えた。
再び振り返って宿から出ようとしたそのとき、扉が開いてセイルが入ってきた。奴隷のように巨大な袋を引きずりながら、顔を歪めて頬を丁寧にさすっている。どうやらよほど痛かったらしい。
「お、本日二人目の客だ」
アブリルは上機嫌に上腕三頭筋をピクピクさせた。
「だからお客じゃありません、行きましょうセイル」
ノエルはセイルの腕を掴んで外に連れ出そうとしたが、またしてもアブリルの豪腕がノエルを止めた。
「はなしてよ」自分の肩を掴む腕を睨みながら冷たくつぶやいた。
「まあ、おちつけよ。何があったのかは知らんが、相棒はずいぶんお疲れみたいじゃないか。こんなにほっぺた真っ赤にしてさ。これお前がやったんだろ?」
「言うこと聞かないからおしおきしたのよ」
「恐い女と付き合ってんだな、お前」
アブリルは同情の言葉をセイルにおくった。そんな彼を見てセイルは、このゴツゴツした生き物は何だろうと思った。
「そ、そういう関係じゃないわよ。べつに付き合ってなんか──」
「鼻も真っ赤じゃないか。これもこの女にやられたのか、セイル」
アブリルの言うとおり、セイルの鼻は紅く色づいた。
「いや、それは……」
ノエルは言葉に詰まった。
「まあいい」からかうような口調をやめて、アブリルはおもむろに訊ねた。「どこの誰だろうとかまわないが、子供二人だけでこんな辺境の地にまでやってきたってことは、やっぱりお前らは『ウォーカー』なんだろ?」
「え?」唐突な問いに、ノエルの声が裏返る。そしてゆっくり視線を下げてアブリルの足元を確認した。何も履いていない素足の状態。ゴムみたいにギラギラとしたその足を確認してから、ノエルはゆっくり「はい」とうなずいた。
「そうか」少女の視線の意味を理解しているアブリルは小さく笑った。「心配しなくていい。俺は『ガチラ』じゃないし、この町にはそういう下らない思想を持った人間もいない」
その言葉を聞いて、ノエルの表情に明るさが宿る。
「何だよ、ガチラとかウォーカーって」
ただ一人、疑問をぶつけることしかできないセイル。
「お前、変わってるな」とアブリルは言った。
「俺が? 変わってる?」
「だけど、なかなかいい男だな」アブリルは過剰に鍛えられた自分の腕をセイルの肩に置いて、うんうんとうなずいた。「いい男はちょっとくらい変わってるほうがいい」
裸エプロン風味の男は独自の哲学を提唱した。
「……はあ」
わけがわからないセイルは、とりあえず言葉を濁した。
結局、二人はアブリルの経営する小さな宿屋『樹の寝息』に一泊することに決めた。
二階にある五部屋のうち、どこでも好きなところを好きなように使ってくれてかまわない。一人一部屋でも、二人で一部屋でも。
というアブリルのご好意に甘えて、とりあえず二人は、二階の一番西側にある『樹の一号』というプレートのついた部屋に入った。
白いベッドが一つに、テーブルと椅子だけしかないシンプルな造りの部屋だったが、柔らかな樹の香りが漂っていた。
「やったー! ベッドだ!」
ノエルは走りながら器用に靴を脱ぎ捨て、そこへ飛び込んだ。
「ああ……すごい、ふかふか……会いたかったわ、もう離さない」
最愛の人との再会を果たしたように、純白の掛け布団を強く抱きしめた。
「本当だ、ふかふかしてる」
この世にこんなものがあったのかと、布団のすそに触れたセイルは小さな感動を覚えた。
「ちょっと、なんであんたがここにいるのよ?」
邪魔者は去れといわんばかりの眼光がセイルを貫く。
「だって、お前がこの部屋に入るから」
「ここはね、プライベートな空間なの。まだ四部屋も空いてるんだから、あんたも好きな部屋に行きなさいよ」
「いやだよ」
「どうして?」
「まだ眠くない」
「…………」
目の前にいる大きな子供のわがままに、ノエルは顔を枕に埋めた。
「私は眠いのよ、あんたみたいにグースカ寝てないから眠いの。それに──ああもう!」
怒りを破裂させ、ノエルはベッドから上半身を起こした。
「どうした?」
「あんたがイライラさせるから、眠気が飛んでっちゃったわ」ノエルは顔を歪めた。
「よかったじゃないか」セイルは顔をほころばせた。
「よくないわよ、疲れてるのに」
「話でもしようぜ。結局、ウォーカーって何だ? あとロストフルールとか、それからさっき言ってた、ガ、ガチ……」
「ガチラ」
「そう、そいつ。詳しく教えてくれよ」
セイルは笑顔と好奇心を丸出しで訊ねてくる。
この笑顔は何も知らない者だけに許された特権なのかもしれないなと、ノエルはセイルに対してある種の羨望すら感じはじめていた。
「わかったわ、教えてあげる」
「本当か」
「ええ、でも一つ一つの言葉を説明するより、この世界そのものがどうなっているかを伝えたほうがいいと思うの、だからよく聞いてね。それから先に言っておくけど、話の途中で質問しても受け付けないからね」
「わかった」
セイルは部屋に備えられていた背もたれのない木製の椅子に腰を下ろした。