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01

 夜中から降りはじめた雨が、ようやく()んだ。

 少年は少女の膝の上で、全ての罪から開放されたように安らかな顔で眠っている。

 少女の瞳からは小雨のような涙が(こぼ)れ、それは少年の頬ではじけた。

 朝日が雲の奥から顔を出し、雨に濡らされた大地をゆっくりと乾かしはじめる。

 暑い一日がはじまろうとしていた。だが少女は一人、凍えるように震えていた。

 乱れた呼吸、止まらない(しずく)

 少年の表情と相反するように少女は一人、許しを()うように嗚咽(おえつ)を漏らしていた。

 陽射しがまぶしかったのか、あるいは少女の涙に反応したのか、少年はゆっくりと目を覚ました。

 それに気づいた少女は慌てて涙を(ぬぐ)った。

「おはよう」即席の笑顔で少年に微笑みかけた。

「……あんた誰だ?」

 目覚めたばかりのうつろな瞳のまま、少年はむき出しの不信感を少女にぶつけた。

「私? 私はノエルよ」

 少女は少年の不遜な態度を気にした様子はなく、さらりと自分の名を告げた。

「ノエル? それがあんたの名前なのか?」

 少年の問いに少女はうなずいて(こた)えた。

「……わからない」眉をひそめて少年は言葉をこぼす。

「何が?」

「俺もあんたみたいに名乗るのべきなんだろうけど、自分の名前が出てこない」

 戸惑う少年を見てノエルは小さく微笑んで「セイル」と言った。

「セイル?」

「そう。それがあなたの名前よ、セイル」

「セイル……俺の名前はセイル……セイル」

 胸に深く刻むように、少年は教えられた名を何度もつぶやく。

 セイルはノエルの膝から頭を起こして立ち上がろうとするが、バランスをくずし、再び頭をノエルの膝に預けた。

「……すまない」と気の抜けた声で謝罪を口にする。

「いいのよ」慣れた様子でノエルは笑った。

 セイルはノエルの肩を借りてなんとか立ち上がった。

「手を繋いでてあげましょうか?」

 少しふらついているセイルを見てノエルはそう提案した。

「て?」セイルは首を(かし)げる。

 一瞬、ノエルの表情に影がさしたが、すぐに表情を作って微笑んでみせた。

「いい? ここが手よ」ノエルはパンパンと手のひらを叩いて見せた。「それから、ここが足」と言って、太ももや膝をさわる。

「ふーん」曖昧な声を漏らしてセイルも自分の手足にふれる。「ここが手で……ここが足」

「そう、よくできました」幼子(おさなご)(しつ)ける母のように、ノエルは大げさに誉めた。

 珍しいものを見るように自分の手をながめていたセイルは指先の向こうに、あるものを見つけた。

「なあノエル、あそこ」と言ってセイルはノエルの背後を指さした。

 セイルの指した方角を目で追ってノエルは振り返ると、その表情に戦慄が走った。今度はすぐに笑顔を取り(つくろ)うことはできなかった。

「手、足、手、足、いっぱいあるぞ!」

 セイルは小走りでそこへ近づこうとする。

「ダメ!」

 ノエルは大声で少年を制した。

 その声に驚いた少年は、足を止めて振り返った。

 ノエルがうつむいたまま目を強く閉じている。

「ダメよ。そっちにいっちゃダメ」

 少女の言葉は、どこか祈りに近かい響きを帯びていた。

 そこから何かを()みとったセイルは一言「……わかった」とうなずいた。

 少女は顔をあげた。目覚めたときに見せてくれた優しい笑顔に戻っていた。

「そっちにいっても何もないから、あっちへ向かって歩きましょう」

 そう言ってノエルは少年が興味を示していた場所とは逆の方向へ手のひらを向けた。一本の道がどこかにつづいている。

「あるく?」またしても少年は首を傾げた。

「こうよ」ノエルは足を一歩前に出す。「これが『歩く』よ」

「ふうん」曖昧な返事。「あるく、あるく、あるく」

 つぶやきながら、少年は一歩一歩前に進んでいく。

 足を動かすだけの単純な行為がやけに気に入った様子で、彼の口元には笑みが浮かんでいた。

 夢中で歩きつづけるセイルの背中を見つめながら、ノエルは小さくつぶやく。

「……忘れ方が前より酷くなってる」

 焼けるような陽射しを背に、少女は少年の後を追った。


「で、あんたは何ものなんだ?」

 歩きながらセイルはノエルに(たず)ねた。

「名前はノエル。歳は十六歳。他に聞きたいことは?」

「歳って何だ?」

「ええっと、どれだけの時間を生きてきたかっていう証明みたいなもの……かな?」

「俺の歳はどうなってるんだ?」

「知らないわよ。でもまあ、見た目からして私とそんなに変わらないんじゃない?」

「さっき言ってた時間っていうのは?」

「時間っていうのはその……なんて説明すればいいのかしら」

 文字通りの質問攻めにノエルは困惑した。

「早く答えてくれよ、知りたいんだ」

「あーもう、うるさい!」立ち止まって声を荒げる。「何でもかんでも人から教わろうとしない。少しは自分で考えなさい」

「……すまない」圧倒され、セイルはとりあえず謝った。「ところでそれは何だ?」

 セイルの視線がノエルのどこかに興味を示した。

 全く言葉の通じていない相方に対して少女はため息を一つ吐く。

 ノエルはセイルの視線の先を目でなぞってみた。どうやら手に持っている地図に興味があるらしい。

「これは地図。ここにいろんな場所がどこにあるか描いてあるの」

 地図を広げて見せた。多少の火や水を浴びても破損しない特殊な加工が施されている灰色の紙には曲線や記号と文字が不規則に並んでいる。

「いや、それじゃなくてさ、これ何?」

 セイルはノエルの二の腕あたりを指で撫でた。

「ちょっと、やめてよ、くすぐったいじゃない。これは服よ、あんたも着てるでしょ」

「でも俺のと違う」

 夜を被ったように黒ずくめのセイルとは対照的に、ノエルは白い服を身に着けていた。

「私が着ているのはキルフとレディン。昔の言い方だとTシャツにスパッツ。それで、あんたが着てる真っ黒で暑苦しいのが、ラジキルフとレディグ。昔の言い方だと、Yシャツに長ズボンってとこかしら」

「どうして昔の言い方まで教える?」

「昔の言葉が好きなのよ」

「ふーん。それで、そこにぶらさがってるヒラヒラしてるのは?」

「これ?」ノエルは首から垂れている布を摘んで答えた。「これはテーフ。古い言い方だとネクタイね。昔の人はこうやっておしゃれを楽しんでたのよ」

「……おしゃれ」

 またしても知らない言葉が出てきたので訊ねたい衝動にかられたが、なんだか怒られそうな気がしたのでセイルは疑問を飲み込んだ。

 白いTシャツに黒のスパッツ、そして紺色のネクタイをしているノエルは、よくわからないが、おしゃれというものらしい。

「なるほど。それでさっきから俺がおまえに持たされているこのデカイのは何だ?」

 当然のように押しつけられているこの物体については、訊ねないわけにはいかなかった。

「袋よ」さらりとノエルは答えた。「今も昔も名前は変わらない。荷物がたくさん入る便利な道具」

「それをどうして俺が持っているんだ?」

 許容量を無視され、はちきれんばかりに膨らんだ薄茶色の袋を背負わされているセイルは、できるだけ穏やかな口調で抗議した。

「それは私が持つよりあんたが持ってるほうが絵になるからよ。はい無駄話はここまで。町の場所がわかったから、とりあえず今日はそこで休みましょ」

 ノエルは地図を丸めてセイルの袋の中に無理やり押し込んだ。

「さあ、出発進行」

 少女は軽やかな足取りで歩きはじめる。

「うーむ」

 納得のいかないまま、少年は奴隷のように重い足取りで少女の背中を追った。


 上空ではまるで何かを祝福しているかのように太陽が燦々(さんさん)と輝いていた。

「暑いな」とセイルはぼやく。

「暑いわね」ノエルは同意した。

「ところで暑いって何だ?」

「……あんた、意味もわからない言葉を使ってたの?」

「いや、なんかこう、勝手に口から言葉が出たんだ」

「今まさにこういう状態を暑いっていうのよ。覚えておいて」

「わかった」セイルはうなずいて「暑いな」とぼやく。

「暑いわね」ノエルは同意した。

 背後から抱きしめられるような鬱陶しい暑苦しさに二人の体力はじわじわと削られていく。

 とめどなく溢れる汗を二人とも拭おうとはしなかった。それが無意味であることに気づいているからだ。

 ノエルの額から生まれた雫はゆっくりと降下していき、鼻の上をすべり唇を飛び越えて顎を撫でて、そこから地面まで一気に落下して土に吸収された。

「お前の格好は俺より暑くなさそうでいいな」

 上下ともに長袖を身に着けているセイルの目には、露出部分の多い少女の姿が羨ましく映っていた。

「これだけ暑いとそんなに変わんないわよ。それに長袖のほうが暑さを(しの)げるって言うし」

 たらふく汗を飲み込んだ白いシャツはノエルの肌の色をかすかに浮かび上がらせていた。

 首からぶらさがっていたネクタイも存分に水分を吸収していたため、それは(おもり)のようにノエルの慎ましい胸の谷間に食い込んでいた。

「だったら、着てるものを交換してくれよ」

「無茶言わないでよ。サイズが合わないでしょ。特にウエスト辺りが」

「ウエストって何だ?」

「……女の敵の別名よ」ノエルは訝しい顔をする。

「女って?」

「私みたいなのを女っていうの」

「だったら俺も女なのか?」

「はあ? どうしてそうなるのよ。あんたは男でしょ」

 意味のない会話は強い日射しと同様に遠慮なく体力を奪っていく。

「男って何だよ。俺もお前と同じ人間だろ?」

「人間って言葉は覚えてるのね」

「あたりまえだろ。俺を馬鹿にしてるのか?」とセイルはムキになる。

「それならどうして性別については忘れてるのよ」

 ノエルはやり場のない感情を深いため息に変えて吐き出した。

「わけがわからない。具体的に男と女はどう違うんだ? お前と俺の違いなんて、お前のほうが少し髪が長いくらいだろ?」

「他にも色々あるのよ」

 苛立ちを撒き散らすように、ノエルは肩を怒らせ歩く速度を上げた。

「他にも違いがあるなら見せてくれよ」

 肩にかけた大きな袋をゆさゆさ揺らしながら少年も歩みを速め、少女を追い越して壁のように立ちはだかる。彼の目は好奇心で輝いていた。

「ああもう、うるさい! 邪魔!」ノエルの怒りは頂点に達した。

 黒色のスパッツからすらりと伸びた脚線美が鞭のようにしなやかにそして鋭く、セイルの脇腹に食い込んだ。

「ふぐうぅ!」

 奇怪な断末魔の声を上げ、セイルは地面に膝をつく。

 男と女の違い。女のほうが凶暴にできているのだろうか、とセイルは思った。

「──ふふ」

 ふいに、笑い声がセイルとノエルの背後から届く。

 二人が同時に振り返ると、少し離れた場所に一人の少女がいた。

 ノエルが身に着けているものよりも更に丈の短いショートパンツとノースリーブシャツは、どちらも太陽を焦がしたように深い赤色をしていて、その赤は小麦色に焼けた少女の肌によく()えていた。

 少女はゆっくりと二人に近づき、まっすぐ手を伸ばせばふれられる距離で立ち止まった。

「はじめまして」

 少女は社交的な笑みを見せた。汗はまったくかいていない。

「あんた、誰──」

 セイルを遮り前に出たノエルは「何者?」と相手を睨んだ。

「私の名前はストーラ。何者かって聞かれたら──あなたたちと同じものって答えるしかないわね」

 ストーラと名乗る少女は両手を小さく広げて、おどけてみせた。

「やっぱり、『ウォーカー』なのね」

「何だよ、ウォーカーって」

「私たちに何か用?」

 セイルの問いを無視して、ノエルはストーラと対峙している。

「用ならあるわ。でもあなたじゃなくて、後ろの『ブレイド』君にね」

「どうして?」

「わかってるくせに」

 ストーラは微笑みを絶やさない。ただ、その瞳の色は冷たかった。

「どうしたんだよ二人とも……ケンカか?」

 仲間に入れてもらえないセイルは自分も加わりたい一心で愛想笑いを浮かべたが、その声は二人の耳に届いてはいなかった。

「悪いけど、あんたにセイルはわたせないわ」

「別に彼はあなたの所有物じゃないでしょ。まあ従わないなら、実力行使をするまでだけどね」

「実力行使? 私たちと戦って勝てると思ってるの?」

 ストーラはうなずいた。「ええ、『勝てる』わ」

 刹那、空から十数本の氷柱(つらら)がストーラを目掛けて降ってきた。

 ストーラは紙一重でそれをかわした。透明な刃が乾いた音をたてて地面に突き刺さる。

「……『嘘』ね」とノエルは小さく笑う。「あんたじゃ私たちには勝てない」

「……やっかいな『プレゼント』だこと」

 ストーラの表情から笑みが消えた。悔しさを滲ませた瞳でノエルを睨みながら、舌を打つ。

「おいおいおいおい、何だ、今、空から何か飛んできたぞ!」

 一人、慌てふためく少年を無視して、ノエルとストーラの睨み合いはつづく。

 風はなく、太陽は高く、空気は暑く、重かった。

 そして突然「やーめた」とストーラは肩をすくめた。

「やめた?」セイルは首を傾げる。

「確かに今はあなたたちとやりあっても私が負けちゃうだろうし。今日はもう帰る」

 先刻までのことなどなかったかのような爽やかな口調だった。

「…………」

 相手の変貌振りにノエルも困惑していた。

「また会いましょうね、バイバイ」

 親しい友人と一時的な別れを惜しむように、ストーラは笑顔で手を振り去っていった。

「なんだったんだ?」セイルは素直な疑問を漏らした。

「…………」ノエルは何も答えなかった。

 既にストーラの姿はない。

 白昼夢を見ていたような、奇妙な出会いと別れだった。

 そしてセイルには一つ確かめておきたいことがあった。

「あいつ、俺のこと『ブレイド』って呼んでたけど、ブレイドってもしかしてこれのことか?」

 セイルが右手を開くと、そこに光の粒が集まり、形を成しはじめた。

「やめなさい!」

 殴られるような怒号を浴びせられ、身を強張らせたセイルの手のひらから光は消え去った。

「す、すまん」

 はじめて目にした怒りを隠さないノエルの形相にセイルは純粋に怯えた。

「……あ」小さく震えるセイルに「ごめんなさい。別に怒ってないのよ。ただ、『それ』は簡単に使ったりしないで、お願いだから」と優しく告げた。

「……ああ、わかった」

 セイルは深くうなずいた。そうすることが正しいように思えたからだ。

 そして再び二人は歩きはじめる。

「でも結局、あのストーラってやつは何ものだったんだろうな」

「敵よ」

 それ以外の何ものでもない、という意思が声に宿っていた。

「敵かあ」セイルはストーラの顔を思い浮かべながらつづけた。「つまりあいつは、ウエストってことだな」

「はい?」あまりにも意味不明なことを口走る少年に一瞬、思考が固まったが、セイルがなぜそんなことを口にしたのか理解したノエルは、「ごめん、それはもう忘れて」と笑った。

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