序章「はじまり」
雨はすぐに已んだ。
少年は少女の膝の上で、全ての罪から開放されたように安らかな顔で眠っている。
少女の瞳からは小雨のような涙が零れ、それは少年の頬ではじけた。
太陽が雲の奥から顔を出し、雨に濡らされた大地をゆっくりと乾かしはじめる。
また暑い一日がはじまろうとしていた。だが少女は一人、凍えるように震えていた。
乱れた呼吸、止まらない雫。
少年の表情と相反するように少女は一人、許しを請うように嗚咽を漏らしていた。
陽射しがまぶしかったのか、あるいは少女の涙に反応したのか、少年はゆっくりと目を覚ました。
それに気づいた少女は慌てて涙を拭った。
「おはよう」少女は即席の笑顔で少年に微笑みかけた。
「……あんた誰だ?」
目覚めたばかりのうつろな瞳のまま、少年はむき出しの不信感を少女にぶつけた。
「私? 私はノエルよ」
少女は少年の不遜な態度を気にしたようすはなく、さらりと自分の名を告げた。
「ノエル? それがあんたの名前なのか?」
少年の問いに少女はうなずいて応えた。
「……わからない」眉をひそめて少年は言葉をこぼした。
「何が?」
「俺もあんたみたいに名乗るのべきなんだろうけど、自分の名前が出てこない」
戸惑う少年を見てノエルは小さく微笑んで「セイル」と言った。
「セイル?」
「そう。それがあなたの名前よ、セイル」
「セイル……俺の名前はセイル……セイル」
胸に深く刻むように、少年は教えられた名を何度もつぶやく。
セイルはノエルの膝から頭を起こして立ち上がろうとするが、バランスをくずし、再び頭をノエルの膝に預けた。
「……すまない」と気の抜けた声で謝罪を口にする。
「いいのよ」慣れた様子でノエルは言った。
セイルはノエルの肩を借りてなんとか立ち上がった。
「手を繋いでてあげましょうか?」
少しふらついているセイルを見て不安になったノエルはそう提案した。
「て?」セイルは首を傾げる。
ノエルは微笑んでみせた。
「いい? ここが手よ」ノエルはパンパンと手のひらを叩いて見せた。「それから、ここが足」
と言って、太ももや膝を触る。
「ふーん」理解したようでしていないような、曖昧な返事をしてセイルも自分の手足に触れる。
「ここが手で……ここが足」
「そう、よくできました」幼子を躾ける母のように、ノエルは大げさに誉めた。「それじゃあ、町まで歩きましょうか」
「あるく?」またしても少年は首を傾げた。
「こうよ」と言ってノエルは足を一歩前に出す。「これが『歩く』よ」
「ふうん」と曖昧な返事。「歩く、歩く、歩く」
つぶやきながら、少年は一歩一歩前に進んでいく。
足を動かすだけの単純な行為がやけに気に入った様子で、口元には笑みが浮かんでいる。
「あるく……あるく……あるく」
まるで欲しがっていたプレゼントを手にした子供のように無邪気に笑い、その言葉を何度も繰り返しながら、ゆっくりと歩きはじめる。
そしてまたいつか、その言葉の意味を失う日まで、少年は歩きつづける。
ロストスイッチ 完




