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ロストスイッチ  作者: インク


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11

「はい、お水」

 水の入ったガラスのコップを持って、ユーコの部屋にアブリルが入ってきた。

「ありがとうございます」

 アブリルから水を受け取ると、アイギスは愛らしいおじぎを返した。

「いいんだよ、アイギスちゃんの頼みだったら何でも聞いてあげるからね。それじゃあまた何かあったら遠慮なく起こしてくれていいから」

 そう言って彼は上機嫌で部屋から出ていった。アイギスの役に立てたことが嬉しくてしかたないらしい。

 先刻、あれだけの騒ぎがあったにもかかわらず、それに一切気づくことなく、いびきをかいて眠っていたというのだから、ここの宿屋の主はやはりただものではない。

「はい、ユーコ。お水だよ」

 アイギスが差し出した水をユーコは受け取ろうとはしなかった。

「どうしたの?」

 ノエルの問いにもユーコは答えなかった。ベッドに座ってうつむいたまま、何も喋ろうとしない。

 困った表情を浮かべているノエルの腰をトントン、とアイギスはノックした。どうしたのかとアイギスを見ると、少女は小さく口を動かして「あとは私がいるから」とつぶやいた。

 まだ深夜だし早く部屋に戻って休んでほしいと言われているのだ。こんな小さな子に気を遣われて、ノエルはいたたまれない気持ちになった。

「……ごめん」

 やっと口を開いたかと思えば、もう何度目かわからない謝罪の言葉だった。

「だから気にしなくていいって」

 これも先ほどからノエルが何度も口にした言葉だった。

「だけど、私、セイルにあんな酷いことしちゃって……」

「大丈夫だって。怪我ならもう治って、今ごろはベッドでぐーすか寝てるわよ」

 現在セイルは一人、部屋で療養中だった。

「だけど、やっぱり……」

「気にしなくていいって。あれより酷いことを私毎日あいつにやってるから」とノエルは胸をはった。

「──え?」アイギスが目を丸くして驚いている。

「いやいや、さすがにそれはジョークだけどね」焦って訂正した。純粋無垢な少女に冗談は禁物らしい。「そんなことよりユーコの体は大丈夫なの?」

「大丈夫だって答えたいところだけど、そういう嘘でもあたなの前だと氷柱が飛んできちゃうのよね」と力なく笑った。

 どういう言葉を返せばいいのだろうか、ノエルの胸はしめつけられる。

「……体調がよくない原因はやっぱり、能力の使いすぎで何も食べてないから?」

「ええ、そうよ。でも大丈夫」ユーコはアイギスの手からコップを受け取った。「どんなに食べられなくなっても、お水だけはしっかり飲めるから」それから少しだけ元気な声を出した。「知ってる? 人間の体って水だけでもけっこう生きられるようになってるのよ」

 そう言ってコップの水をごくごくと飲み干した。「──!」それを悲鳴と共に水を吐き出した。ガラスのコップが手からこぼれ、床に落ちて割れた。

「どうしたの?」言った瞬間、最悪の事態を察したノエルは両手を口にあてて絶句した。

「……さっき能力を使ったせいね」口のまわりの水を拭いながらユーコはつぶやいた。「ついに水も飲めなくなったみたい」

 喪失型(ロストタイプ)能力(プレゼント)を与えられたウォーカーは、能力を使うたびに『何か』を失いつづける。ユーコにとってのそれは『食べられるもの』

「痛い」足元でアイギスが声を上げた。

 割れたガラスコップを片づけようとして、破片で指を切ってしまったらしい。

「触っちゃダメだよ、アイギスちゃん。私があとで掃除するから」

「ははは、はは……」ユーコは笑った。泣いているようにも見えた。「これでもうなんにも食べられなくなっちゃった。世の中には食べるものがいっぱいあるのにね」そこでまた笑う。「このまま私、死んじゃうのかなあ」

「あ、あのね、ユーコ……」

 ノエルは言った。そのあとにつづく言葉など何もないのに、何かを伝えたかった。

「ちょっと待って」ユーコはノエルを遮った。「これ……何の匂い?」

 ユーコは鼻をひくひく動かして、何かを探している。

 ノエルとアイギスも鼻に意識を集中させて辺りを嗅いでみるが、特に何も感じない。

「ねえ、アイギス」

 こっちにおいでとユーコは指でアイギスを招いた。

 小首を傾げてアイギスはユーコのそばまで寄った。

 アイギスの額に鼻を押し付けると、そこから犬のようにクンクンと何かを捜し求めるように鼻を這わせていった。

「ちょっと、どうしたのユーコ、いや、くすぐったいよ」

 額から、頬、唇、首筋、胸へと、ユーコはアイギスの全身をくまなく嗅いでいく。

 そして「……これだ」とつぶやいた。目当てのものを見つけたらしい。ユーコはアイギスの右手を掴み上げた。その先にはガラスの破片で切ってしまった血のついた指があった。

 そうするのが当然のように、ユーコは血のついたアイギスの指を(くわ)え、ちゅぷちゅぷと音を立ててしゃぶりはじめた。

 自分の理解をはるかに超えたユーコの行動に、ノエルはただ呆然と見つめることしかできなかった。

「どうしちゃったのユーコ、やだ、痛いよ、もっと優しく──」

 少女の訴えはユーコの耳に届いてはいなかった。赤ん坊のようにがむしゃらに吸いついて、離れようとしない。

「もうやだよ!」

 たまらず、アイギスは強引にユーコの口から指を抜いた。唾液が細い線を描いて消えた。

 そこでユーコも、はっと我に返った。「……私、一体何を?」

 目の前では怯えたアイギスと、あっけにとられた表情のノエルがいた。

 まだ微かに鼻孔をくすぐる血の匂い。無意識に喉が鳴る。

「ねえ、二人とも」ユーコは言った。「心配してくれてありがとう。私はもう大丈夫だから、二人もはやく部屋に戻って休んで」

「え? ……ええ」

 よくわからないまま、ノエルはうなずいた。

 別人のように血色のよくなったユーコを見つめながら。


 万が一を考えて、警戒を怠らず部屋に入ったが、さすがにもうストーラの姿はなかった。

 部屋を見わたすと、一時間前の惨劇などなかったかのように、床も壁も備品も何もかもが綺麗に整頓されていた。

「誰だ?」

「何だまだ起きてたの」

「何だ、ノエルか」部屋の主はベッドから体を起こした。

「何だとは何よ、失礼ね。心配して見にきてあげたのに」

「心配って何をだ?」

「……あんたの怪我のことよ」

「うん、傷はもう見えなくなった。でも体の中がまだチクチクする」

「それも明日の朝には治ってるわよ」

「そうなのか。ところでお前は何を持ってるんだ?」

「ん? これのこと?」ノエルは脇に抱えていたものを掲げた。「見てのとおり枕よ」

「何でそんなもん持ってきたんだ?」

「それはこうするためよ」

 ノエルはベッドに近づいて、自分の枕をセイルの枕の隣に投げた。そして「とう」と小さく叫んで自分もセイルの隣に飛び込んだ。

「お前は何がしたいんだ?」

「一緒に寝てあげるのよ。嬉しいでしょ?」

「別に。ベッドがせまくなった」

 ノエルは無言でセイルの頬を抓った。

「痛い痛い痛い。ごめんなさい、ごめんなさい」

「別に私だって、好きでこういうとこしてるわけじゃないんだからね。ただ、あんたを一人にしておくと、さっきみたいに変な女に狙われてるから、それで……」

 隣からすやすやと、安らかな寝息が届いてきた。

「……信じらんない。もう寝てるし」

 少女は少年の頬を軽く抓る。少年は痛みで顔を歪める。

 それが何だか面白くて、しばらく少年の顔を見つめていた少女も、いつの間にか眠りについていた。

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