第6章 道
『私に、一月の期間を与えてもらいたい!』―――。
(アトル!?)
場が凍りついた。今の今まで血塗れの儀式に狂乱していたはずの人々が、皆静まり返り、青ざめてしまっている。春なのに、ぴゅうと吹く風が冷たい。それに乗って、ぷーんと臭う血の悪臭が鼻をつく。正気に戻った神官長が声を荒げた。
「…な、何を言っておいでか、殿下! これでは国が滅びてしまう! 貴方は本気か!?」
鋭く突き刺さる冷たい老眼が、「大人しく生贄になれ」と告げていた。その目を、アトルは静かな、それでいて憤りを秘めた瞳で流し見る。神官長が一瞬、びくりと戦く。……と―――。
「うわああぁぁ!? 火だ! 火事が起きているぞー!」
遠く、太陽の昇る方角から悲鳴が上がった。メツスィーが火を付け、それが民家に引火したのだ。
(ああ、メツスィーだ……)
シェータはちらちら蠢く火を心配そうに見つめ、凛々しく立つアトルを見上げた。彼はいつも以上の気品、そして威厳に満ちている。
「狼狽えるな!」
慌ただしく移動する民たちに、アトルは一喝する。いつもの彼とは全く違う、それはもう怖いくらいの気迫で。
シェータは心配だった。
(アトル……なんだか、怖い………)
彼女は表情を曇らせ、眉間に皺を寄せた。こんな、恐ろしい彼は見たくない。
シェータの心とは裏腹に、アトルはなおも続けた。
「あれなるは神の火だ! ウィツィロポチトリは喜んでおられるのだ。徐々にお力を取り戻しつつある。ただ……」
アトルはそこで一旦言葉を区切った。
「ただ、今のままの私では、強大なる器を持つ軍神ウィツィロポチトリのお力を満たすことが出来るとは思わない」
民たちはアトルの主張に聞き入り、渋色の神官たちも、苦い顔をしながらも黙って聞いている。
「だから私はこれからの一月、神殿に籠り、我が身を清め、神への祈りを捧げたい思う。その後生贄となり、我らが神に大いなる力を齎したい!」
はっきりと、アトルは言い切った。
――…………おおおおおおぉぉぉぉ………。
沈んでいた民衆から、次第に賛同する声が上がり始める。それは徐々に雄叫びになり、神殿は耳を塞ぎたくなるほどの騒がしさに包まれた。こうなってはもう神官長にも収集が付かない。今はもう、ただおろおろしているばかりである。周りの部下たちと連絡を取り合い、ぼそぼそと何やら話し込んでいるようだ。
「そして!」
星の数ほどの民衆たちを、アトルが抑える。
「もう一つ、伝えることがある」
まだ理性の残っている民たちは、心を落ち着けて、話を聞く体制に入った。
「己の手に持つ宝を見つめよ! すれば自ずと道は開けるであろう。自身の願に目を向けよ!」
この言葉にだけは、民衆たちもきょとんとして、一声も発さなかった。皆驚いた顔をして、傍観している。シェータも例外ではない。
(……え? どういう意味?)
思わず、首を傾げて、右手を口に当てる。メツスィーが居れば意味も分かるかもしれないが……。
「神事はこれにて終了だ。………後は任せたぞ」
「殿下!」
民たちがぽかんとしている内に、アトルはさっさとその場から去ってしまった。後に残された神官長たちは歯ぎしりをして、忌々しげに彼の背中を見つめていた――。
◆◆◆
ギィと古びた扉の開く音がして、部屋の中に明かりが灯される。
続いて二人の男女――メツスィーとシェータがとぼとぼと沈んだ足取りで、部屋に入る。メツスィーは何も動じていないような顔をしているが、シェータの顔は明らかに辛そうだった。大好きな友達……アトルが、あんなことを言ったことが、ショックだった。
(アトル……どうして、あんなこと言ったの……?)
不意に足が止まり、少女は玄関に立ち尽くしたまま、動けなくなってしまった。
メツスィーはそんな彼女をちろりと横目で見ながら、何事もないように出しっ放しにしていた椅子にどかりと座った。そして黙って俯く少女を見つめる。いや睨みつける。
メツスィーの無言の圧力にシェータはハッとした。顔を上げ、自分の頭をポカポカと殴る。
(もう、駄目! 駄目! 弱気になってどうするの!)
「なあ、シェータ」
突然のメツスィーの声に、シェータはすぐに彼の方を見られず、びくりとした。とても、怒っているような口調だったから。
「…………」
シェータが振り向かないからなのか、メツスィーは黙りこくっている。彼のひやひやする視線が痛い。 ぎこちなくも、彼女は顔を上げた。
「な、何?」
なんとなく笑って見せた。
でも彼の眼は決して笑っていなくて、全身に纏う雰囲気が恐ろしかった。腕組みをし、全てを見通すかのような眼で、じっとシェータを凝視している。
「お前、うっとおしいよ」
ぐさりと、その言葉は少女の心に突き刺さった。
「な、何で…? 何がいけないっていうの!」
シェータは思わずメツスィーに掴みかかった。彼の大きな肩を両手で掴み、前後に激しく揺らす。
だが、少女の細い腕は、いとも簡単に抑えられてしまった。彼の強い腕に。
シェータは、白緑色の長い髪を乱し、ゼイゼイと息を荒げる。メツスィーは彼女に怒鳴った。
「お前は、いろんなことに心を揺らし過ぎだ。アトルを助ける? そんなザマでどうやって助けるんだよ! もっと自我を強く保てよ!」
それは正論だった。今日だって、アトルを連れ出した後小屋のある森の中で待ち合わせる予定だったのに、シェータは儀式の後も、日が落ちるまで神殿で立ち尽くしていたのだから。
結局シェータが来ないのをおかしいと思ったメツスィーが、少女を横抱きにして、無理矢理連れ帰ってきたのだった。その時の彼女は放心状態で、ものを訊いても何も答えなかった。今になってようやく我を取り戻したが、メツスィーはすっかり機嫌を悪くしてしまったのだ。
「だって、仕方がないじゃない!」
関を切ったように、シェータは叫んだ。
「アトルのことを考えると……こう、何も考えられなくなって、自分が自分でないようになって……そんなの止めようがないじゃない!」
――実際、こんなに気持ちが乱れるのは、初めてだった。
アトルを助けたい。ただそれだけの気持ちで、こんなに心が揺らぐのは……。
叫ぶのに体力を使い過ぎて、もはやぐったりとしかかっているシェータを、メツスィーは少し驚いたように目を丸くした。
「そうか……なら仕方ないかもな。……初恋だったんなら」
「えぇっ!?」
(急に何を言い出すのぉ!?)
シェータは、前にアトルが見せたように真っ赤になって目を見開いた。メツスィーから手を放し、慌てて身振り手振りしながら、早口で言葉を紡ぐ。
「いやっ、恋とかそういうのじゃなくて……あの、その、確かにアトルは好きだけど……あっ、で、でもそれは友達として……」
顔に大火事を起こしてあれこれ言葉を探すシェータを、メツスィーは意外そうな目で見た。
「あれ? 違うのか? 俺、ずっとシェータはアトルが好きで助けたいんだと思ってたんだけど」
メツスィーの一言に、シェータはいっそう沸騰する。
「ちちち違うの! アトルは友達として大好きな訳で……」
「いや、だってさぁ…」
メツスィーは呆れた顔になって、顔を掻いた。
「お前が言ってたのって、まるっきり恋の症状だぞ。しかも初恋の」
シェータは目をぱちくりさせて、恥ずかしげに俯いた。
「……お前は、草花の神様なんだよな」
メツスィーの問いかけに、シェータはこくりと頷く。そしてか細い声で、言った。
「アトルやメツスィーよりも、あたしはずっとずっと長い時を生きてきた。でも……人間と関わりを持ったのは、これが初めてだったんだ……」
――ああ、熱い。
体が火照ってくるようで、自分が何を考えているのか、だんだん分からなくなってきた。
そして苦しい。別に戒めを受けている訳ではないのに、訳もなく息苦しい。
喉の奥に、何か詰まっているようで、それは吐き出そうと思ってもなかなか出てこない。それが忌々しくて、苛々としてくる。
――こういう感覚が、メツスィーの言う〝恋〟というものなのだろうか……?
シェータはぼんやりと思った。
メツスィーが、ついと虚空を眺めてぼやいた。
「あいつは、幸せ者だな……神様に、愛されて」
「………え?」
赤らむ顔のまま、シェータはメツスィーの顔を見た。彼は懐かしむような、遠い目をしていた。
「俺がアトルに会ったばかりの時、あいつが言ってたんだ。神様が本当に居るなら……会ってみたいって」
「……そんなの、初めて聞いた」
「あれ、そうなのか?」
――それから、長い沈黙が続いた。外はもう暗く、夜鳥の鳴く声が静かに響く。
小屋を取り囲む森が、夜風にさらさら流る音。春の夜の虫が、軽やかな羽音を立てて飛ぶ音。
静かな夜の詩に、二人はぼーっと聞き入る。
お互いに、何を思っているのかは分からない。ただ、その詩は二人の心に爽やかな風を届けた。
その風が、二人の心を鎮めていく―――。
「夜……夜の、神………テスカトリポカ……」
―――あっ!
メツスィーは半開きになっていた瞼を急に見開き、突然椅子から立ち上がった。
あまりに急な行動に、シェータが驚いて訊く。
「急にどうしたの……?」
「思い出したんだ!」
メツスィーは早口で、それだけ答えた。が、全く何のことか分からない。
シェータが意味も分からず、突っ立っていると、メツスィーにぐいと腕を引かれ、強く問い質された。
「シェータ! アトルは今どこの神殿に居るか分かるか?」
シェータからは聞いていないが、民たちが今日の神事のことを噂していたので、メツスィーにも大体の事情は分かっている。だが肝心のアトルの居場所だけは分からなかった。
シェータは、彼の迫力におどおどと答える。
「そんなことは分からないけど……あ、でもっ」
「何だ!?」
彼の手に力がこもる。痛いとシェータは思ったが、まずあることを伝えた。
「あのね、アトルが『己の手に持つ宝を見つめよ』って言ってたの。メツスィー、意味わかる?」
「手に持つ、宝ぁ?」
うーん、とメツスィーは腕を組んで考え込む。シェータも彼に倣って、うんうん言いながら考える。だが……さっぱり閃かない。
メツスィーが自信なさげに言った。
「えーっと……シェータ、あいつから何か預かってるか?」
「うんと……あ、うん」
(!)
おそらくそんなものはないだろうな、と思っていたので、これにはとても驚いた。
「確か……えーと…」
シェータは記憶を頼りに、メツスィーに渡された荷物をまとめるための袋の中を、ごそごそと探った。やがて小豆色の包装物を抜き出す。
シェータは、それをぽんとメツスィーに渡した。
「あった。これこれ。はいメツスィー」
「お前いつの間にかこんなもの持ってたのか……」
「メツスィーに見せる暇がなかったんだもん」
メツスィーは、はらりと布を剥ぎ、中身を確認した。
それは、繊細な彫刻が施された装飾剣だった。鞘には勇猛なジャガーの姿が彫られ、瞳には黒曜石が嵌められている。短い刀身には磨き抜かれた刃がぎらりと光を反射し、まるで鞘に描かれたジャガーの牙のようだった。
チャリン……。
(?)
何の音かと思い視線を落とすと、そこには古びた鍵が落ちていた。元々落ちていた訳ではないから、剣を鞘から抜いた時に落ちたのだろう。
メツスィーはそれを拾い上げ、まじまじと見つめる。玩具の鍵には見えないし、見慣れている宝箱の鍵とも違う。そしてある一つの考えが脳裏を過り、思わず表情に笑みが浮かぶ。
(……なるほどな…)
――道が開けてきた。




