第2章 アステカの都
暖かな丘の上、二人の人影はじっと目の前の小鳥を見つめていた。
「……いくよ、せーのっ!」
シェータは勢いよく縄を引き、籠を支える木片を倒す。運良くその下に居た小鳥が、籠の中に閉じ込められる。
シェータと傍に隠れていたアトルは、嬉々としてその籠に走り寄った。
「やったぁー! 捕まえたよ、アトル! なかなか上手いでしょ」
初挑戦の罠で捕まえた小鳥を掴んで、シェータはきゃっきゃと飛び跳ねる。その小さな子供のような仕草が、とても愛らしい。アトルも微笑む。
「でも、シェータ。罪のない小鳥は逃がさなきゃいけないよ」
幼い子供にするように頭を撫でられ、そう諭されて、シェータは渋々小鳥を放す。丸々とした小さな薄茶の小鳥は、暖かい春の晴天へ向かって元気に羽ばたいていった。
シェータはそれを清々しい表情で見送ると、今度は膨れっ面になってアトルに抗議した。
「もぉー…市場に持って行って誰かに買って貰おうと思ってたのに……」
彼女は、数日前アトルに連れて行ってもらった市場に行く口実が欲しかったのだ。前回言った時はあまり時間がなくて、まだ見切れてない所が沢山あった。それを見に行きたくてうずうずしていたので、少し残念そうな顔をしている。
「生き物は自然に居る方がいいだろう?」
アトルがいつもの人当たりの良い笑顔で笑うと、シェータはそっぽを向いて顔を赤くした。
――そんな風に笑って注意されると、まるで自分が子供みたいじゃない。
だが、ふとある案を思いついて、アトルに向き直る。
「でも……誰かが飼ってくれたら、小鳥は幸せじゃない! 苦労せずに食べ物を貰えて……」
「本気でそう思うの?」
両手拳を握って力説するシェータに、アトルは悲しそうな顔をした。まるで、その小鳥の〝悲しみ〟が分かっているとでも言うように。
「シェータ、僕の身分は?」
アトルがそう問うと、シェータは飽き飽きして答えた。目を伏せて、ふぅ、と溜息をつく。
「だから、皇子様でしょ。もう、これで何度目の自己満足?」
「そう、皇子、だよね」
むくれているシェータの皮肉はあえて無視して、アトルは言葉を続けた。
「皇子とか皇帝っていう身分を皆は羨むけど、実際は凄く窮屈なものなんだ。どこに行くにしてもいつも護衛がついて来るしね。それこそ鳥籠の中の小鳥と同じで、自由なんかないんだ」
(…皇子様も、意外と大変なんだなぁ)
「鳥籠の中の、鳥かぁ……」
(………ん?)
しみじみと空を飛んでいく数羽の鳥たちを見ていて、疑問が湧いた。
「ちょ、ちょっと待ってアトル。もしかして今も誰かが見張っているんじゃ……」
冷や汗を浮かべて尋ねるシェータを、アトルはあははっ、と笑い飛ばした。……この皇子様も、だんだん農民染みてきたことだ。
「それはないよ、シェータ。大丈夫、ちゃんと撒いてきたから」
「ま、撒いて……?」
そんなことをして良いのだろうか。護衛が主を見失ったりしたら、首が飛ぶんじゃ………。
「それって本当に大丈夫なの?」
心配そうな、どこか困惑した顔でシェータは問う。対するアトルは、心配ごとなんか全くないと言ったように、楽観的に笑っている。
「大丈夫だって。そんなの得意だし、護衛達は自分で理由を見つけるだろう? いつもそうだったしね」
アトルは何でもないことのように言っているが、シェータにはそれが安易なことには思えなかった。
「いつもって……なんで?」
先程から質問攻めで、少ししつこいかなと思ったけれど、引っ込むのは性に合わない。
「そうだなぁ、まず僕の生まれに問題があったのかな」
何とも言わず、アトルは思い出話のように語ってくれた。
『僕の父上は今の皇帝であるモテウクソマ・ショコヨトル陛下だけど、母上は、ちゃんとした奥さんじゃないんだ』
アトルは、遠くに霞む街を見て、懐かしむように言った。
『えーと……それはつまり、愛人ってこと?』
シェータが首を傾げていると、アトルは、まあそんなとこかな、とぼやいた。
アトルの言っている意味をもう一度良く考え巡らしてから、再びかくんと首を傾げる。
彼女は天界の出身だ。天界では、一人の夫に子供が沢山居たり、女が沢山の夫を持つのもごく普通のことだった。それが人間ではあまり良くないことらしい……嫉妬深い女達や、誠実だとかいう男達にとって。
『皇帝にお世継ぎがいっぱい居るのは良いことなんじゃないの?』
『皇帝にとってはね』
アトルは草臥れた様子で、ふぅ、と溜息をついた。聞かれたくないことだったのだろうかと、シェータは戸惑っていたが、彼は自分から切り出した。
『まず、第1皇子は正妃の子供だね。で、僕は第2皇子。このまま何もなければ兄上が帝位に就くのは分かるよね?』
シェータはこくりと頷く。
『だけど兄上は病弱で、あまり体の調子が良くないんだ。これは政に支障を来す虞がある。となると、何人かの者達は、健康で、その上利発だとか言われている僕に次期皇帝へと即位して貰いたいと考えるようになる訳だ』
(…利発?……)
また自己満足かと、シェータは心の中で苦笑した。
『そうなると周りは黙っちゃいない。正妃様はお優しい方であまり騒がしいのは好まないけど……彼女や兄上の側近達が躍起になっててね………。ちょくちょく嫌がらせをしてきたんだ』
『え………』
ふわふわしていた気持ちが追い出され、重たい気が体の中に据え置かれた。
シェータは咄嗟に顔色を変え、アトルに掴み掛る。
『い、嫌がらせってどんな!? 毒盛られたりはしなかった!? 蠍を投げ掛けられたりは………』
『シェ、シェータ……』
物凄い剣幕で訊いてくるシェータの肩をやんわりと抑えて、アトルはまた苦笑いした。
『嫌がらせって言っても…そんな大したことじゃないよ。派手にやると彼らの身が危ないからね』
『そう……?』
『うん、まぁ……でも、僕のお目付け役は彼らの手の者だから、正直言って僕の警護なんてどうでも良いんだよね。だからこうやって好き勝手出来るってこと』
『………そうだったんだ…』
――アトルは笑って言うけれど、本当はもっと辛いことだってあったはずだ。それを……今みたいに誰にも言わずに過ごして来たのだろうか。
『まあ、そのお陰で良い友人が二人も出来たけどね』
『………二人?』
何か引っかかった。
(一人は……あたしだよね。あれ? じゃあもう一人は……)
頭を抱えて、むーんと考え込んでしまっているシェータに、アトルは思いがけないことを言った。
『会わせてあげようか? 僕の最初の友人に』
◆◆◆
アステカ帝国の首都、テノチティトラン。
賑やかに溢れかえる人々と、文明豊かな街。
そこにはいくつもの商店が並んでいて、トウモロコシや芋の匂いが香ばしかった。
さらに食べ物だけでなく、綺麗な声、羽の鳥や、美しい衣装なども目に付いた。とにかく彩色豊かな街だ。
市場にはすでに来たことがあったので、大体の勝手は分かる。迷子にはならない。だから、本当は燥いであちこち見て回りたかったけど、そう出来ない理由があったので、シェータはアトルに手を引かれるまま、静々と歩いていた。
理由、というのはアステカの人間なら誰もが分かるだろう。そう、彼女の風貌だ。
アステカ人の全体的に黒っぽい風貌の中で、彼女の容姿は目立ち過ぎる。その上異国人などが国内に居たら、すぐさま皇帝の目が付くだろう。そうなったらアトルに迷惑が掛かってしまう。それは避けたかった。
とりあえず人目に付かないように肌には泥を塗って汚し、さらに頭からすっぽりと布を被った。そしてアトルも皇子という身分上シェータと同じように布を被って人目を避けた。これなら誰も気付かないだろうということで、都を訪れることになっているのだ。
最初に市場に来た時は、逆に怪しい人と思われて警戒されてしまうのではないかと思ったが、同じような格好の人は割と多く居て、ほっと一安心したものだった。後は大人しくして居れば良いだけのことだ。
とは言え、やはり興奮してしまうのが彼女の性なのだが。
「わ……アトル見て見て! あれ美味しそう……あ! あっちには綺麗な小鳥が……」
目をきらきらさせて、シェータは小動物のようにあちこち見て回った。その後をアトルが慌てて追いかける。
「シェータ、まずは僕の友人との待合場所に行かないと……」
「あ、あれは何?」
シェータは一つの集いを指差して訊いた。そこには貴族の者やまた貧相な者など、様々な人々が集まっていた。
好奇心に逆らえず、シェータはそこへ駆け寄る。
「ちょ、シェータ!」
アトルは彼女を止めようと腕を伸ばすが、彼女は捉まらず、さっさと先に行ってしまった。
人混みの隙間から、シェータはその集いの様子を覗く。
そこには沢山の裸の人々が居て、何だか交渉をしているようだった。
追いついたアトルがシェータに言った。
「シェータ、あれは奴隷売買だよ。人間達が同じ人間の取引を行っているんだ」
「人間の、取引?」
妙なものでも見るような目で、シェータはアトルを見つめた。
――人間が、人間を売る? 彼らは、そんな愚かなことをしているというの?
シェータには、にわかには信じられなかった。だってどう考えても可笑しい。同じ種の仲間を、差別して物のように扱うなんて。
「人間っていうのは、知能がある代わり、醜い生き物だからね。仲間同士で争い、競い合う」
「あなたも人間でしょ?」
冷めた目で奴隷売買の様子を見つめるアトルに、シェータは詰め寄った。眉間に皺を寄せ、いかにも理解できないと言った表情をしている。
アトルは、己の胸をぎゅっと握り締めて、やり切れない表情で言った。
「……僕は、自分が人間であることが悲しい。もっと自由で在りたかったのに……人間の世界に居たら、それもままならない」
「…アトル………」
――初めて、彼の心の悲しさを知った気がした。
困惑するシェータに、アトルははっとした。そして何のためにここに来たのかを思い出す。
「あ、ごめんね変なことを言って。これは言わば僕の理想。深く考えないでほしい」
―――理想。
彼はそれは自分の理想だと言ったけれど、本当は現実で在りたかったのだろう。それを思うと、無性に苦しくなった。
それは自分でも良く分からない感情で、自分は彼に同情しているのか、それとも人間が腹立たしいのかも、分からなかった。
「シェータ、ここは離れよう。奴隷市場は性質の悪い破落戸が集まっていることもあるからね」
「分かった」
市では、ちょうど若い女の買い取り手が決まったところだった。彼女はまだ幼く若い少女のようで、その顔に浮かぶ絶望の色が、見るに堪えなかった。
(……どうして)
どうして神である私達はこんなことを見過ごしているのだろう。上級の神ならば、止めることも出来るかもしれないのに……どうしてなんだろう。
「お嬢さん」
(!)
低く重い声と共に、不意に背後から肩を掴まれてびくっとした。咄嗟に声の主を確認しようと思ったのだが、体が硬直して動かなかった。
(大きな手……アトルの言っていた、破落戸?)
「…あなたは、何ですか?」
初めての体験に緊張しながらシェータは問う。
蠢く気配がし、シェータはゆっくりと振り向かされる。顔に冷や汗が伝う。
「ふふ……冗談ですわ。シェータさん」
…と、いきなり優しい声に変わって、シェータは今度は驚きで固まった。
現れたのは、艶やかな黒髪を艶やかに垂らす女性?……のようだった。なかなか美麗で、地味な衣装を上手に着こなしている。そしてアトル以上の妖艶な微笑みを見せつけられ、シェータは呆然とする。傍には呆れ顔で苦笑するアトルが立っていた。
アトルが彼を示して言う。
「はは……紹介するよ、シェータ。これが僕の友人で、盗賊のメツスィー! 性別は…男!」
「まぁ嫌だ、男盗賊なんて……せめて淑やかな女流詩人とでも言ってください」
確かに……良く聞いてみれば、ちょっと無理のある男性の裏声だ。それでもあくまで女だと主張したいのかメトスィーはしおしおと体を折り曲げてアトルに目配せする。またもアトルは苦笑いした。
――はい? 盗賊さん?
皇子様の意外な友人に、シェータは唖然としたまま、立ち尽くしていた。




