第19章 最期くらいは笑ってて
英検の結果が出ました。
―結果―
………不合格^^
白亜の、神聖な神殿。
太陽を背負うその頂点は、微かに血の赤色がこびりついている。
――東の空が眩しい。
いつもにも増してこんなに空が美しく見えるのは、これが見納めだからと、天が憐れんでいてくれているからだろうか。
――きっとそうに違いない。
冴えるような静かな心の奥、アトルは静かに瞬きした。
◆◆◆
儀式が始まるまであと少しという時、シェータは神殿への道を急いでいた。
――……アトル……。
東の空が、薄い橙色に染まってきている。もうすぐ夜明けなのだ。太陽が昇ったら、儀式が始まってしまう。
――大丈夫、絶対間に合う……っ!
気持ちの悪い汗が、つうと揉み上げの辺りを流れ落ちた。背中にもじわりと嫌な汗が伝わり、ぽたぽたと垂れて落ちる。
そんなことは気にせずに、シェータはひたすらに大地を蹴る。周りの景色なんてもう見えてない。
実際、自身の持つ力を使えば、神殿まで行くことなど容易なことだった。だが、今使うのは危ないとテスカトリポカに言われていた。
『神殿までは自分の足で行け。今夜はただでさえ騒がしく、人の目も多い。神殿につく前に誰かに見られたら困るからな』―――。
「あっ…」
地面の凹凸に足をつっかえ、シェータは勢いよく前に転ぶ。注意が散漫していて、受け身もとることが出来なかった。額と両肘に土がつき、擦りむいたらしく、右肘からは微かに血が流れた。
負傷部に痛みを感じながらも、シェータは立ち上がる。そしてまた、走り出す。
頭の上を鋭い風が通り過ぎ、木々がざわりと揺れた。
「…ちょっと、シェータ! 待って」
頭上から降ってきた知り合いの声にも足を止めず、彼女は一心に先を急ぐ。止まる気配はない。
「シェータ、待ちなさいよ! テスカトリポカ様の命令よ!」
コガラシのその一言に、シェータは躊躇しながら足を止めた。振り向くと、やけに疲れた表情のコガラシが居た。左手には布の包みが抱きかかえられている。
シェータは苛々した様子で、頭上に浮かぶコガラシを睨んで叫んだ。
「何、コガラシ!」
「アンタその恰好のまま行くつもり!?」
そう言われ、シェータは自分の姿を確認する。いつも通りの薄い布地の簡素な服に、転んでついてしまった土の茶色。
「ケツァルコアトルの使者だと名乗るんでしょ!? それじゃただの農家の娘よ!」
「……あ」
なるほど、そういえばそうだ。見た目で判断されてしまっては、アトル奪還の成功率も低くなる。
「全く…これを届けに来たっていうのに………」
地上に降り立ち、メツスィーは丁寧な手つきで左腕に抱えていた包みを開く。包まれていたのは、綺麗な白布、形の整えられた靴、そして豪華絢爛な装飾品だった。
見ているのも眩しくなるような、服飾品の数々。
「これを、着て」
シェータは驚きでいっぱいで、その品々に手をつけられなかった。
「コガラシ」
「ああ全くもう、こんなに汚れて、傷なんてつくっちゃって……ほら!」
「んー」
服飾品を包んでいた布で、コガラシはシェータの頬を乱雑に拭った。さっきの丁寧さとは違い、ごしごしとかなり強く拭うので、よろけないようにするのが大変だった。
「……はぁ、あとは、これ着て。早く行きなさい」
コガラシは溜息を一つついて、美しい白色の布をつき出す。シェータは躊躇しつつも、それを宝ものでも扱うような手で受け取った。
「…ありがとう」
「髪飾りなんかは、私がつけてあげるから。さっさと着替えてきなさいな」
「うん」
シェータは近くに着替えるのにちょうど良さそうな草陰を見つけ、衣装をもってがさがさと茂みに潜り込んでいく。
コガラシはシェータが着替え終わるまでと、乾いた地面に腰を下ろした。かくんと首を曲げ、天上を見上げると、満天の星空が暁の光に消えかかっているところだった。
コガラシは、誰に言うとでもなく、けれど親しい同僚の名を口にして呟いた。
「…ねえ、シェータ」
「何ー、コガラシー?」
「…私達は、どうやって、どうして生まれたのかしら」
普段聞かないようなコガラシの思いつめた声に、シェータは疑問を感じずにはいられなかった。
「………コガラシ?」
「ああ、なんでもないわ。それよりさっさと着替えてよ」
コガラシは霧を払うかのようないい加減な口調で誤魔化す。これ以上は話さないと言うような態度だ。
きっとコガラシは教えてくれないだろうと、シェータは諦め、彼女もまたぶっきらぼうに答えた。
「もう着替えたよっ!」
「はいはい」
コガラシは装飾品を手に取り、シェータの隠れている草陰の前に立つ。けれども彼女は出てこない。
「………シェータ」
「ちょ、ちょっと…なんか…変な」
「良いから出てきなさい! 時間がない!」
「時間がない」の一言に、シェータはおずおずと姿を現した。
その美しい姿に、コガラシは思わず感嘆した。
着たこともないような美しい布地に包まれ、整えた長い白緑の髪を垂らした彼女は、まさに「女神」だった。いつもとの違いの大きさに、コガラシも驚きの表情を隠せなかった。
「へぇー……いいじゃない」
「ほ、ほんとかな…?」
「ええ、ほんとほんと。さ、あとはこれをつけて」
無理矢理シェータを屈ませると、コガラシは彼女の耳に綺麗な石のついた耳飾りをつけ、シャラシャラと軽やかな音を立てる首飾りをかけ、頭には花を模した飾りを添えた。これで完成だ。
「ほら、出来たわよ」
コガラシは達成感に溢れた様子で、2回ほど手を叩く。満面の笑みだ。どこからか取り出した鏡のように光る石の板で、彼女の姿を映す。シェータは驚きの声を漏らした。
「…これ、あたし……?」
「そうよ、ケツァルコアトルの使者、ショチトナティウ。さあ、行きましょう」
意味ありげにコガラシは言う。
「神殿まで、私が連れて行くわ」
「え? でも、力を使っているのを見られたら拙いって……」
「こんな暗い森の中で、誰に見つかると言うのよ。あの方は、私が、アンタにこれを届けられなくなるとでも思ったのね。確かにちょっと忙しかったけど、アンタに追いつけないほど鈍足じゃないから」
「……」
「ほら」
コガラシはその色白な腕をつき出す。
「行くわよ」
◆◆◆
夜明け前だと言うのに、神殿には人が溢れかえっていた。
いや、当然かもしれない。夜明け、とは言っても、もうじき日は昇る。そして、陽が昇ったら……儀式の刻限だ。
ざわめく人混みの中、麻布を深く被ったシェータは、周りをきょろきょろと見回していた。
「メツスィーは……」
隣にあの乾いた風の神はいない。テスカトリポカの命令で、またどこかに行ってしまったようだ。もしかしたら一緒にいて支えてくれるのではという淡い期待は、惜しくも失ってしまった。
彼女は、神殿にはメツスィーも運んでおいたと言っていた。だが、人が多すぎてなかなか見つからない。もしかしたら変装しているかもしれないので、シェータは少し焦っていた。人混みをかき分けかき分け、とにかく前進する。
「シェータ」
聞き覚えのある裏声で、シェータは誰かに肩を掴まれた。確か前にもこんなことがあったなあなんて思いながら、シェータは親しき友人を見つけた。
「メツスィー!」
「しっ」
ぱっと顔を輝かせたシェータに、静かにとメツスィーは制した。裾の長い服を着、黒髪を惜しげもなく垂らしている様子を見ると、今回は女性の姿のようだ。
声を抑えつつ、シェータは早口で喜ぶ。
「メツスィー、良かった! コガラシに助けてもらったんだね」
そのことを思い出して、メツスィーは苦笑する。
「ああ、あのこはさすがだな。驚いた……それより」
メツスィーはシェータの被っている麻布の中を覗き、目を丸くした。
「綺麗になったな。本当に神様みたいだ」
「え……今まで神様だと思ってなかったの?」
「そりゃもちろん」
最初の内は気恥ずかしそうに照れていたシェータだったが、彼の一言を聞いた途端彼女の頬はぷうと膨れた。メツスィーは今にも大声で笑ってしまいそうなのを抑えた。
「はは、失敬失敬」
わあああぁぁぁぁぁぁぁ!!!
「なっ、何!?」
突然民たちの歓声が沸きあがる。注意がそれていたシェータは、びっくりして麻布を落としそうになってしまった。僅かにずれたそれを、メツスィーが何気なく被り直させる。
「あ、ありがと…」
「シェータ、始まるようだ」
彼がかつて女装していた時には見たことのないような。誰かを殺してしまいそうな視線で、メツスィーは現れる複数の神官たちを睨みつけた。その視線の先を見て、シェータはいまにも飛び出しそうになってしまった。
艶やかな黒髪。
美麗な装飾品。
凛と張った立ち姿。
――アトルッ!!!
「シェータッ!」
思わず足が動いてしまったシェータを、メツスィーは咄嗟に止めた。
「あっ………」
体が動いていたことに気付いて、苦しげに肩を掴むメツスィーの顔を見て、シェータは俯いた。
「ごめん」
「いいんだ……お前の、気持ちは分かる」
「……うん」
どうにもならない自分の身体に、シェータは忌々しそうに舌を噛んだ。
メツスィーは、誰かに気付かれていないかと周りを確認する。つい大きな声が出てしまったが、周りもまた騒がしかったので、誰も気づいては居ないようだった。
――いや、気付いた人物は、いた。
彼は、少し驚いた顔で、こちらを振り向いた。
シェータも彼に気付く。
彼は――アトルは、笑っていた。
『そんな怖い顔はしないで。
最期くらいは笑っていてほしいよ』




