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緑風のシェータ  作者: 日野咲夜
最終部 緑風と青嵐
19/25

第17章 大地母神

 テスカトリポカと戦っている最中も、かなりの緊張感に包まれていたのに、今はその比ではない。誤魔化しようのない事態に、テスカトリポカを除いた全員の動きが硬直した。

 ―――見つかった!!

 「アトル皇子! 一体何をしておられたのです! そのお傷は…」

 下っ端らしい年若い衛兵が叫んだ。まだ経験は浅いようで、動揺がこちらにまで伝わってくる。

 彼はアトルの傷を見つけると、すぐさま傍に立っていた血塗れのテスカトリポカを睨みつける。場に飛び散っている血痕に、彼は槍を握った腕をぶるぶると振るわせた。短気な彼は、怒りを抑えきれなくなったのか、短く舌打ちした後テスカトリポカに向かって槍をつき出そうとした。

 それに対して、テスカトリポカが、悠然と腕を構えた時。

 「まて!」

 下っ端兵の背後から、自軍の兵士を戒める声が飛ぶ。森の木々を押し分け、上官らしき男が現れる。制止するよう命じられた下っ端兵は悔しげに顔を歪ませて、口惜しげに上官の顔を見た。上官は、驚きと恐怖に目をやや見開いていた。

 恐る恐ると歩を進め、兵士らしくない震えた声で呟く。

 「……あなた様は………!」

 「……つっ…」

 シェータの傍でしゃがんでいたアトルが、不意に苦しげに呻いた。切り裂かれた傷がズキズキと激しく痛むらしい。見れば、血は止まっておらず、出血し続けていた。

 上官は目の前に現れた信じ難い存在に気を取られるも、すぐにアトルの方へと視線を戻し、彼の元へと駆け寄った。そして傷を労わるように見る。

 「…! これは、あまりに酷い……どうか城へお戻りください、アトル様」

 「……分かった、戻ろう」

 過保護なほどに自分を気遣ってくる上官兵にアトルは軽く会釈し、ゆっくりと立ち上がった。気絶して、地面に転がったままのシェータを名残惜しげに見る。

 結局、彼女に本当のことを告げられなかった。

 誰にも聞こえないような声で、彼はぼやいた。

 ――……さよなら………。

 「テスカトリポカ様」

 アトルを自軍の救急隊に運ばせてから、上官兵がテスカトリポカに歩み寄り、短く告げる。同時に後ろに控える兵に合図を出し、テスカトリポカ達を包囲する。

 「貴方がなぜ、ここにいらっしゃられるのか。私どもには理解しがたいことではございますが、監視下へと連行させていただきます」

 テスカトリポカは、馬鹿にしたように嗤った。

 「……いいだろう、人間よ」

 その背後では、こっそりとコガラシが飛び立っていた。


     ◆◆◆


 「ん………」

 「いい加減に起きろ、草花係。皇子が死んでもいいのか」

 「良くないっ!」

 最後の一言に、ぐったりと横たわっていたシェータの体は飛び上がった。

 「……ここは? あたし……」

 見たことのない場所に、シェータはきょろきょろと首を回す。赤く染められた布の絨毯に、美しい彫刻の彫られた椅子。それと揃いのテーブル。今までに入ったことのないような、とても上品で美しい部屋だ。

 「ここは、牢だ」

 「ええっ?」

 平然とそう言うテスカトリポカに、シェータは耳を疑った。「牢」だなんて、そんな訳がない。

 テスカトリポカは、シェータの反応にうんざりした様子で言った。

 「本当だ。普通の部屋に、鍵がかかっているのは可笑しいだろう?」

 そう言われ、シェータは扉を探す。その扉はすぐに見つかった。頑丈な格子がついている扉なんて、すぐに見つかるはずだ。

 ようやく現状を理解した後で、シェータは一番重要な事態に気付いた。慌てて早口で騒ぎ出す。

 「…そうだ、アトルは!? どうなったの? ねえ、テスカト…」

 「落ち着け」

 テスカトリポカは、その大きく頑丈な手をシェータの額に当てた。人間でない彼の掌は、温かいはずがないのに、なぜか温もりがあった。

 「いつまでも子供のように騒ぐな。状況を考えろ、自分はどうすべきかをな」

 シェータは、彼のその言葉を聞くと、急に黙り込んで項垂れた。何事かを考えて、静かに口を開く。

 「………うん、分かってる。メツスィーにも言われたことがある。お前は情緒不安定だって」

 「それは的を突けているな」

 「そう、でも、そんなことしちゃいけないんだった」

 シェータの声は、いつもより低く、まっすぐに聞こえた。感情のままに振る舞っていた今までとは違う。

 不意に、パタパタと軽い音をさせながら、小さく開いた窓から黒い物体が飛び込んでくる。その物体は、ひらりとテスカトリポカの肩に降り立つ。飼い主と同じような、艶やかな黒色の夜鳥だった。

 テスカトリポカは、その鳥に何事かを呟き、そしてまた飛び立たせた。何やらありそうなにやりと笑んだ表情で、テスカトリポカはある情報をシェータに告げた。

 「アトラトナンが呼んでいるそうだ」

 「………え?」

 アトラトナン。その名は、聞いたことがある。

 神々の母。大地母神。

 テスカトリポカは、一つため息をついて、もう一度言った。はっきりと。

 「いいか? アトラトナン様(・・・・・・・)が、お前を呼んでいるそうだ」

 「どういうこと?」

 シェータは、震える声を抑えながら言った。さすがのシェータでも、その名前と位の高さは知っている。

 彼女は、本来なら自分が会えるような相手ではないはずだ。

 「……もしかして、アトルの救出に協力して…」

 「そうではないだろう」

 シェータの淡い期待を、テスカトリポカはざっくりと切り裂いた。

 「草花係よ、お前は長い間天界に帰らずにいただろう? そのことで呼ばれたのではないか」

 「……こんなときに、行ける訳がないじゃない…」

 「行く価値はあると思うが」

 真顔でそう言うテスカトリポカを、シェータはきっ、と睨みつけた。上下関係など忘れているようだ。

 「アトルが死にそうなときに、行けるはずがない!」

 「そうではない」

 顔を真っ赤にし始めている彼女に、テスカトリポカは今までしたことのないような、子を見守る親のような視線を向けた。

 「そなたの意志を、アトラトナンにもぶつけてやればいい。彼女は怒っているだろうが、そなたは勝てるだろう?」

 シェータは一瞬呆気にとられたが、すぐにその顔には希望の光が戻った。

 「もちろん!」

 その言葉を待っていたように、テスカトリポカは微笑み、窓に向けて衝撃破を放ち、格子を破壊した。小さめの爆発音と共に、星の輝く空が覗く。

 「では行け。草花係。自分が何をしたいのか、忘れぬように」

 「…感謝します!」



     ◆◆◆


 「シェータ」

 アトラトナンの壮大で美しい神殿の入り口ではコガラシが待っていた。彼女は待ちくたびれたように、かかとで地面を蹴っている。

 「コガラシ、いつの間に…」

 「テスカトリポカ様の命令だもの。ほら、行くわよ」

 「………うん」



 「さて、草花係」

 暖かで、それでいてどこか深い響きの声が、鼓膜に響く。母なる大地母神の声は、心地良くて、少し恐ろしい。

 「帰還の遅れた理由はなんです? 答えなさい」

 「……はい」

 シェータはいつも以上に緊張した面持ちで応えた。

 ここで失敗してしまったら後がない。自分の仕事をほったらかし、コガラシやテスカトリポカにまで催促されても帰らなかったのだから。それに、むやみに人前で姿を晒してしまった。許して貰えなかったら、少なくとも100年は、地上に行かせてもらえないだろう。

 そうしたら、もうアトルには会えないのだから。

 「地上で」

 シェータは顔つきを変え、恐れつつもはっきりと切り出した。

 「不思議な少年に出会いました。彼は、私の異形の姿を見ても軽蔑したりせず、まるで昔からの友達のように接してくれました。そんな彼に、私は………いつしか、仲良くなりたいと思うようになりました」

 呆れた、とでも言うように、アトラトナンは一つため息をついた。

 「人間に好意をもってどうするのです? あなたは人間ではないのですよ?」

 「その通りですが……」

 シェータは言葉に詰まった。アトラトナンの言うことは真理だ。

 確かに、アトルは人間で、自分は神。生きている時間も、次元も、世界も違う。

 共に生きようと決意したところで、どうにもならないのは分かり切っている。

 ――けれど、そのことは分かっても、そこで納得できるほど自分の気持ちは軽くはなかった。

 「理屈で割り切れるものでは、ないと思います」

 たぶん、今言った言葉も、確立したものではない。星の数以上もあるような感情を表すことなんて、出来るはずがないだろう。

 「なるほど」

 アトラトナンは、少しだけ感心したように頷いた。ただそれだけの動作だったが、シェータは少しだけ喜びを感じた。

 自分ですらも分からないようなこの感情の色彩を、彼女にも感じてほしい。

 ――そのためには、自分自身がその色彩を現さなければいけない!

 「アトラトナン様に、お願いがあります」

 アトラトナンは、表情を変えず少しだけ首を傾けた。

 「なんです?」

 喉に詰まった感情を、思い切って、外に吐き出す。

 「私に、力を与えてください! アトル・イルウィカミナを救える力を!」

 アトラトナンは、テスカトリポカから事情を聞いていたのか、やはりというように眉をしかめた。紅の添えられた唇がきつく言い放つ。

 「そして、あなたはどうするのです?」

 「彼と共に生きていきます」

 「共に生きていくことは出来ません」

 アトラトナンの言葉が、深くシェータの心に突き刺さる。

 「あなたの言うとおり、理屈でどうとなるものではありません。かといって、本能のまま動くのでは、のちに後悔が待っているだけでしょう。あなたは分からないのですか? 愛する者を失う悲しみを」

 「それでも」

 答えは、決まっていた。

 「たとえ、一瞬の快楽であっても、その記憶で、私は苦痛を乗り越えられる」

 アトラトナンは、シェータをじっと見つめた。彼女の菜種油色の瞳を、ただ、静かに。

 それから、大地母神はふっと顔の筋肉を緩め、微笑んだ。

 「いいでしょう」

 アトラトナンは、シェータにその白い左腕を差し出す。

 「あなたがそこまで覚悟していると言うなら、力を貸しましょう」

 「……! アトラトナン様……!!」

 シェータもまた、差し出された掌を、尊ぶように柔らかく包み、触れた。

 そしてアトラトナンは、残された右腕をシェータの頭の上に翳し、自然と生命に携わる呪文を唱える。詠唱はまるで歌のようで、心身に心地よく響いた。

 詠唱と共に、体の中を、一つの大いなる力が巡っていく。生まれ、育ち、死に絶えるまでの生命のエネルギーが、大地母神の歌に乗って身体を流れていく。

 シェータは、自身の全ての中に満ちてくる命の力を感じた。

 一通り詠唱を終え、アトラトナンは翳していた手を下ろす。

 「今あなたに、自然と生命を司る力を預けました。しかしこれは、強大で、あまりにも強すぎる力……。扱いを誤れば、その力は暴走し、大地を傷つけるでしょう。本来、あなたが扱えるものではないのです。ですから、よくお聞きなさい」

 アトラトナンは、シェータの小さな体をやんわりと抱き締めた。

 「決して、我を忘れてはいけません。自分の負う力に責任を持って、心して使いなさい」

 「……はい」

 シェータは、重すぎる責任と、アトラトナンの誠意を前面に感じながら、その思いをかみしめた。

 「では、行きなさい」

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