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緑風のシェータ  作者: 日野咲夜
第2部 波乱
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第8章 生きて……

 静かで、暗い森。聞こえるのは生ける者たちの声のみ。

 淡い月明かりが木々に光を灯す。さらさらと流れる音が聞こえそうな光の帯は、豊かな緑にいくつも差しかかり、ささやかな輝きに包まれた森は、神代を思わす。

 ――その美しい森の中で、奇妙な悲鳴を上げる、奇妙な三人……。

 「きゃぁぁぁあぁぁあああぁぁぁぁぁぁ!! コガラシぃ、やぁーめぇーてぇぇぇぇー……」

 直立する木々の間を、大きな物体の塊がびゅんびゅん飛んでいく。速すぎて遠目では良く分からないが、目を凝らしてみると少女二人に、美麗な女性が一人いると分かる。

 彼らを引っ張って飛んでいるのはコガラシだ。木枯らしを司る彼女は、木枯らしを吹かせ、それを操ることが出来るのだ。

 コガラシはメツスィーの道案内を伴って、彼らをある場所(・・・・)へ連れて行くところだ。

 それは少々強引過ぎて、飛ばされそうになっているシェータは一所懸命にしがみついていたが。

 「あ、そこを右ですわ。そしたら左。で、右。左。右。ひだ…」

 「あーもー訳分かんないわよ! もっと分かりやすく説明しなさい、オカマ!」

 「…………」

 コガラシのとどめの一言に、メツスィーは絶句する。どうやら「オカマ」という単語は、彼にとって禁句らしい。その様子を見て、頭にすっぽり被ったマントを抑えつけながら、シェータはこっそり笑う。

 「ニヤニヤしてるんじゃないわよ、クサバナ! 気持ち悪いわ」

 「………ん」

 シェータは満面の笑みを返しながら、心の中でぼそりと呟いた。

 (あなたもその口の悪さ、どうにかしなよ……)

 「あ、森を抜けますわ。周りに気を付けて……」

 「分かってるわ」

 コガラシの目に鋭さが増し、さらに加速する。周りの景色が、目まぐるしく変わっていく。耳にはもう風の音しか聞こえない。

 森を抜け、整った道のある場所へとたどり着く。コガラシは、そこでようやく飛ぶのを止めた。元々人間をあまり好まない彼女は、警戒して辺りを見回している。

 シェータはふと、夜空を見上げた。いくつもの星が瞬く。ずっと変わらずに輝く星もある。

 瞬かない星の輝きは、他の星よりも強かった。

 シェータは、アトルの顔を思い浮かべる。もうずっと忘れることのない、彼の笑顔。それは一度も、輝きを失ったことはない。

 …瞬かない星は、輝きを失わない………。

 (大丈夫)

 小さな少女神は、両の手を胸の前でぎゅっと握った。

 (アトルの光は、絶対消えない………)


     ◆◆◆


 それは小さな小屋……いや、家だった。

 古くはあるが、丁寧に管理された、小奇麗な家だ。

 小さな窓からは、穏やかな光が漏れている。おそらく夕食を済ませたところなのだろう。

 その家の扉を、メツスィーは三回ノックし、ぼそりと何か呟く。「どうぞ」と年老いた女の声がして、静かに扉を開く。

 現れたのは、品の良い老齢の女性だった。豊かな黒髪を綺麗に纏め、衣服も整っている。そしてどこか遠くを見るような目と、優しげな顔立ちは、何となく誰かに似ている。

 女に促され、メツスィーら三人は、会釈をして家の中へと入る。

 家の中にも彼女の上品さは現れていて、小ざっぱりとした室内は居心地が良かった。暖かい色の敷物は気持ちが良さそうだ。

 テーブルといくつかの椅子も置いてあった。女は、その椅子に座るように促す。

 「腰かけてください。メツスィーさんと……その、お知り合いの方」

 話しかけられて、少し緊張した様子で、シェータは腰を下ろす。マントは頭から被ったまま外さず、白緑の髪が見えないようにしている。コガラシは彼女を変な目で見ながら、少し無愛想な顔で黙っていた。

 メツスィーはひとまず落ち着いた様子で一息つくと、テーブルを挟んで向かい側に座る女性に話を切り出した。

 「……この度は、おめでとうございます」

 彼のその言葉を聞くと、女性は少し淋しそうに「ありがとう」とだけ言った。

 状況が良く分からないシェータは、こっそりメツスィーに訊く。

 「メツスィー……あの、この人は…?」

 ああ、と今になってそのことに気付いて、メツスィーは短く説明した。

 「彼女は、アトルの祖母ですわ。今はこの家に一人で住んでいますの」

 ――アトルの……おばあちゃん?

 それを聞くと、シェータは興味深げに女を見た。

 確かに、髪と目の雰囲気なんかはそっくりだ。先程誰かに似ているように感じたが、それはアトルだったのだ。

 (へぇ~……おばあちゃんと孫でも、こんなに似るんだ~…)

 目をきらきらさせながら、シェータはまるで獲物を見る子犬のような目で、女を眺めた。視線に気付いて、今度は女がシェータの顔をまじまじと眺める。

 「こんばんは、小さな女神さん。そのマントは取っても大丈夫ですよ」

 彼女はきわめて柔らかに言ったのだが、シェータはびくりと震えた。おや、と女は首を傾げた。メツスィーが、そっとシェータに口添えする。

 「本当に、大丈夫ですわ。シェータさん。ここに危険はありませんから」

 「……そう」

 ほっと安堵して、シェータは被っていたマントを取り払う。前までは黒だった白緑色の髪が、さらりと肩に垂れた。その髪を見て、女がほぅ、溜息をついた。

 「素敵な髪……ですね。あの子が興味を持つのも分かります」

 女は自分の孫……アトルのことを思い出していた。遠い昔を思い出すように、うっとりと虚空に視線を移す。

 メツスィーは、その様子を少し苦い思いで見ながら、話しの本題に入った。

 「…ところで、アトルから何か、預かってはいませんか?」

 「………ええ。あの子の手紙ですね」

 女は席を立つと、奥に見える扉を開け、部屋の中に消えていった。その隙に、コガラシがシェータに話しかける。

 「ねえ、あれテスカトリポカ様の生贄の親族?」

 「そういう言い方やめなよコガラシ。大体アトルは生贄になんかならないし」

 「どーだか」

 話している内に女が戻ってきた。途端にコガラシは無口になり、つんとそっぽを向いた。女は少し申し訳なさそうに笑む。

 「そちらの方も女神様かしらねぇ。ごめんなさいね。こんな汚い家で…」

 「綺麗な家よ。汚くなんてないわ」

 かなりそっけなかったが、コガラシは女に対して初めて口を開いた。女は嬉しそうに微笑み、シェータは意外そうに目を丸くしてコガラシを見ていた。シェータと目が合うと、彼女は少し顔を赤らめてまたそっぽを向いてしまったが。

 「ふふ…」

 微笑む女の手には、一つの小さな箱。それはただ木を組み立てただけのもので、ちっとも飾り気がなかった。でもとても大切にされているようで、傷一つついていない。ついているのは、鍵穴が一つ。

 メツスィーはその箱を見ると、さっと立ち上がり女からその箱を受け取った。

 「これです。ありがとうございますわ!」

 受け取るなりメツスィーは例の鍵を取出し、それを鍵穴に差し込む。驚くほどその鍵は穴にぴったり埋まって、カチャリと鍵の開く音がする。

 シェータもメツスィーの元に寄り、その手の中を覗き込む。箱の蓋が開く……――。



 中には、手紙が一枚入っていた。

 それには、こう書いてあった。



 『私の愛する人たちへ』

 『今回、私が生贄に選ばれたことは知っていますね。私は、とても誇らしく思っています。おそらく、私が生きてきた中で一番の幸せでしょう。私は幸福な人間です。』

 『おばあ様。生贄として神の元へ行く孫を、誇りに思ってください。先に逝ってしまった母は、私の晴れ姿を見ることが出来ず、残念に思っていることでしょう。』

 『メツスィー。君は私の一番の親友でした。これまで私と共にいてくれたこと、感謝しています。君が私と一緒に喜んでくれることを望んでいます。』

 『そして、シェータ。君と過ごした時間は、誰よりも短かった……。けれど、それ以上の思い出が残っています。君は神様だから、私のことをどのように思っているかは分からないけれど、私にとって君は良い友人でした。今までありがとう。』

 『さようなら。次は生贄の儀式の日に。』

 『アトル』



 手紙を読み終えたシェータは、絶句した。あまりのショックに、何も言えなかった。

 横から手紙を覗き見ていたコガラシが、言った。

 「……ほら、やっぱりね。アトル皇子も、生贄に選ばれたことを喜んでるじゃない」

 胸を張って言うコガラシを尻目に、シェータはわなわなと震えながら言った。

 「これは……アトルが書いた手紙じゃない」

 シェータはメツスィーから手紙を奪い、それを握り締めて放り投げた。メツスィーはそれをすかさず拾い、内容と文字を確かめた。そして神妙な顔で言い放つ。

 「いいえ……これは、アトル本人の字です。間違いありませんわ」

 「違う。絶対、違う……」

 シェータは真正面からメツスィーの目を見て言った。その目には、事実を否定するような思いはなかった。

 (はて……)

 訝しげに思ってメツスィーは手紙をもう一度良く良く見てみるのだが、その字は紛れもなくアトルのものだった。

 メツスィーは苦い顔をしてもう一度言った。

 「シェータさん……辛いのは分かりますが、これは、本当に……」

 「違うよ。これはアトルの字じゃない……根拠だって…ちゃんとあるんだから」

 「え……?」

 メツスィーはちょっと意外そうに目を瞠った。シェータはメツスィーの目に映る自分の目を見ながら言う。

 「……前に、アトルに字を教えてもらったの。その時にアトルの字の書かれた紙を貰ったけど……この字は全然違うもん………」

 「……………」

 ああ、そうか、とメツスィーは納得した。そして真実を告げる。

 「シェータさん。その時見た字はきっと、アトルの本当の字ではないのですよ」

 「……どうして?」

 「彼が皇子だからです」

 シェータはきょとんと首を傾げた。アトルが皇子だということは知っているが、だから何だというのだろう。

 分かっていない様子のシェータに、メツスィーはより詳しく説明した。

 「皇子の直筆というのは、とても力のあるものなのですわ。身分自体高いものだし、それさえあれば大抵の貴族は抑えられます。アトルは、そんな危険なものをあなたに渡したくなかったのですわ。だから彼は自分の筆跡パターンを五、六つも持ってますの」

 それを聞くと、シェータはいっそう苦しく胸を締め付けられた。

 ――アトルは、周りには一切迷惑をかけないようにしてる。誰も巻き込まないように、誰にも頼ってない……。それが、何だか悔しかった。

 ――ってことは……。

 「アトルは、生贄として死んでも……満足ってこと?」

 メツスィーは声には出さず、黙って頷くだけだった。

 「そう……」

 シェータはただただ俯いた。


     ◆◆◆


 (……許してねメツスィー)

 友人たちの眠る家を一度振り返って、シェータは小さく謝る。そして、真っ暗な夜の闇の中、駆け出す。大切な人の元へ。



 夜でも、神殿には篝火が灯っていて、いくらか明るかった。それだけならまだ良いのだが、そこには見張りの兵士たちが眠らずに見張りをしている。侵入は困難だと思われた。だが、出入口のない西側には見張りは居ない。そこからならば侵入可能だ。

 (えいっ)

 シェータは垂直の壁に向かって、腕を振り上げた。それと共に植物の蔦がしゅるしゅると生え、遥か上にある小さな窓への梯子をつくる。それは草花で出来ている割にはとても丈夫で、時折咲いている花が可愛らしかった。

 (………良し)

 シェータはその梯子に手をかけ、用心しながら登っていく。

 登りながら、コガラシの言葉を思い出す。



 ――『ねえ、シェータ』

 『な、何よ。コガラシ』

 『アンタ……アトルって皇子を助けに行くつもりでしょ』

 『……止めたって聞かないからね』

 『じゃ、どこの神殿に居るのかも分かってるのね?』

 『……………』

 『教えてあげても、良いけど?』――。



 この場所は、コガラシが教えてくれたものだった。

 彼女のことだから、きっと風を使って情報を得たのだろう。

 でも、今は木枯らしが吹くような季節じゃない。だから風を使うのはかなり大変だったんじゃないかと思う。

 ――そうまでして、コガラシはあたしに場所を教えてくれた……――。

 (ふふっ………コガラシ、ありがと)

 だんだんと上に上り詰めながら、シェータは微笑む。

 そらがだんだんと近づいてくる。もう手を伸ばせば届きそうなくらいの所まで来た。あと少しだ。

 「きゃっ!」

 気が緩んだせいだろうか。不意に足が滑り、足場を崩した。咄嗟に梯子を握り締め、宙ぶらりん状態になる。危ない所だった。

 そこに、シェータが目指していた窓からにゅっと手が伸び、ぶら下がっているシェータの腕を掴んだ。

 続いて、その腕の主が顔を出す。

 アトルだ。

 「大丈夫? ……シェータ」

 「………アトル!」

 シェータはアトルの助けを借り、彼の部屋へと上がった。

 そこは、彗星事件の時に見た彼の部屋とは大違いで、寝台も、床も、何もかもが美しく整えられていた。生贄として捧げられる者は、神として扱われるというのは本当らしい。

 シェータはとりあえず敷物の敷かれた床に座り、その向かいにアトルも腰を下ろした。

 シェータは単刀直入に切り出した。

 「アトル、生贄になんてならないで!」

 アトルは驚きで目を丸くし、苦笑した。

 「はは、どうしたの、シェータ? 『生贄にならないで』なんて……」

 不安と期待をごちゃまぜにした目で見つめてくるシェータを見て、アトルは目を逸らした。

 「……生贄にならない訳には、いかないよ。手紙にも書いたんだけど、僕はこれで凄く幸せ……」

 「絶対、嘘!!」

 シェータは立ち上がり、アトルを指差して言った。驚いたアトルは、思わず口をつぐむ。

 「そういう風にそっぽ向いて話すのは、アトルらしくない! 本当はアトルだって嫌なんだ!」

 彼女がそう言い放つと、アトルは下を向き、はは、と元気なく笑った。そうして、いつもとは違う、低く小さな声で言った。

 「……最初の頃は、生贄になれたらどんなに素晴らしいだろうって、ずっと思ってた。それが……どうして今になって、こんなに苦しくなるんだろうね……」

 ぽとりと、一滴の雫が零れた。続いて、二粒、三粒……。透明な涙の粒が、彼の目から流れて落ちた。

 「……どうして……今は、こんなにも……」

 「………」

 何も言わず、シェータはアトルをふんわりと抱き締めた。長い髪が、彼の頬にかかる。

 そっと、子守唄のような声で、シェータは囁いた。

 「生きようよ、アトル。方法だって、あるの……。だから…生きて………」

 途中から、何も言えなくなった。つられたわけではないが、シェータも泣いてしまった。

 アトルは、上目遣いで泣く少女を見つめて、その頬に触れた。

 「…白いままだね。髪の毛の色も、元に戻ってる……」

 「………うん」

 そして、寂しげにシェータの髪に触れる。

 「君はこの先も、ずっと変わらない。僕が先に死んでも、君は永遠に生き続ける……」

 自分で言って、悲しく感じてしまったのか、アトルは俯いてまた黙り込む。シェータは、全てを吐き出すように叫んだ。

 「そんなの嫌だ! アトルは生きる方法があるんだよ! だから生きて……あたしと同じくらい生きるの!」

 アトルは力なくかぶりを振った。

 「無理だよ……僕は、生贄なんだから…」

 「駄目! 生きて!」

 シェータはさらに強く、抱き締めた。大切なものが離れないように、この世に留めておけるように。

 アトルは、少しだけ微笑んで言った。

 「……君が、そこまで言うのなら………」

 シェータは、嬉しさで目を輝かせた。

 「……ッ、ありがとう……!」

 夜は更けていき、朝は近づく―――。

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