とある雨の日の午後(中学生葵)
※※※とある雨の日の午後※※※
(夏目さんと中学生葵)
サアサアと降る雨が空気全体を包んで、たん、たんと屋根に弾かれた雨が一定のリズムを奏でる。
夏目さんが、本を長い指先でしなやかに捲るのを横目で見送りながら、私はくるりとペンを回した。
何時ものことながら、ここは時が止まっているみたいだと思う。いや、この空間だけが世界に存在し、守られてるみたいと言ったほうが正しいかもしれない。
だが、と私は机の上に広がるほぼ真っ白な原稿用紙を見下ろした。
いくら睨んでも、それは真っ白なままで、時間は摂理に従い無情にも流れて行く。
私はうーむと唸った。
「締め切り前の作家のようだね」
夏目さんがクスクス笑いながら、その青灰色の目を私に移して言った。
「心情的には正にそんな感じです」
「ふぅん。宿題、そんなに大変なのかい?」
興味深そうに原稿用紙を覗き込む夏目さん。
原稿用紙の最初の行には、『私の一番幸せな瞬間』と書かれている。
昨日、現国の宿題として出されたそれ。簡単なようで、一度考え出すとそれを文章にするのはひどく難しかった。
「幸せを、言葉にするのって難しいです」
ため息とともに吐き出された私の言葉に、夏目さんはへぇ。と美しいラインの眉を片方だけひょいと上げる。
「面白いことを言うのだね。葵ちゃんは」
「そうですか?だって幸せってそもそも何なんだって感じじゃないですか?」
例えば、美味しいものを食べた瞬間。
ギリギリで遅刻しなかった瞬間。
珈琲豆を引いた時の一瞬でふくらむあの香り。
幸せな瞬間は、日常にいくらでも転がっている。
だけどそれらは、文章にしてしまうととても呆気なく、味気ないものになってしまう。
まあそれは、私の語彙の少なさのせいかもしれないけど…。
「ねぇ、夏目さんだったらどんなことを書きます?」
仕切り直すようにそう尋ねれば夏目さんは、僕?と言って考えるように顎先に人差し指と親指をそえる。
そんな何気無い仕草さえも無駄に様になるな、などと考えていると、ゆるりと笑む夏目さんが伏し目がちに呟く。
「『今、この瞬間が』かな」
今、この瞬間が
頭の中で反芻して、目の前で微笑む夏目さんを暫し見つめる。
雨がサアサアと降っている。
この美しい人の前では雨でさえも彼を彩る飾りのようだと思った。
「それじゃ全然なんのこっちゃ伝わらない上、文字数少なすぎで再提出ですよ」
わざと呆れたように返せば、夏目さんは「再提出か、これは手厳しいね」とクスクス笑う。
ああ、でもそうだな。
私の一番幸せな瞬間もまた、
今、この瞬間が。
雨がサアサアと包み込む、このうららかな午後を想いながら。