姉が死んで三日後、村中全員の骨が腐り始めた
姉の身体からは、不思議な香りがした。
金木犀とも桜とも違う。熟れた野の実を、冷たく湿った古木の奥に埋めたような、甘く重たい香りだった。いつまでも嗅いでいると、身体の芯までじんわり温まってくる。
母は金のために姉を西側の離れに閉じ込め、集落の人々に香りを嗅がせていた。
最初に訪れたのは、重い病を患った老人だった。その後、長年咳に苦しむ男や、足腰の弱った女がやって来た。香りを嗅げば厄が落ち、運までよくなるという噂を聞きつけ、遠くから訪ねてくる者もいた。
彼らは金を持って家を訪れ、帰る頃には命拾いでもしたかのような顔をしていた。姉の香りを褒め、その不思議な力を会う人ごとに語って回った。
姉は日に日に痩せていった。それなのに、身体から漂う香りだけは、ますます濃くなっていった。
その年の冬、母は十万円を受け取り、姉に香りを強める薬を飲ませた。
大勢の人間が見守るなか、姉は自分の手首を力任せに折った。砕けた骨が皮膚を突き破り、血が壁に飛び散った。
途端に、むせ返るほど甘い香りが部屋いっぱいに広がった。
人々は姉を取り囲み、最後の一滴まで搾り取るように香りを吸い込んだ。母は戸口に立ち、姉の血がついた手で、受け取ったばかりの札束を数えていた。
姉は死んだ。
息を引き取る直前、姉は言った。
「私から奪ったものは、みんな返してもらうから」
通夜の晩、姉の棺の中から、鈍い音が三度響いた。
三日後、香りを嗅いだ者たちの身体が腐り始めた。村長は砕けた骨を吐きながら我が家の庭へ這い寄り、母に金を返せと泣き叫んだ。
母もまた、金箱を抱えたまま手首が裂け、黒く腐った骨が皮膚の下から突き出してきた。
それでも、この借りはまだ清算しきれていない。
私は知っていた。
1
姉の名は篠守灯里。私より五歳年上だった。私は篠守つぐみ。私たちは篠守集落のいちばん奥にある、古びた木造家屋で暮らしていた。
集落の背後には御影山がそびえ、朽葉町へ向かうバスは一日に数本しかない。冬になって山道が雪で塞がれれば、外から人が入ってくるのも難しかった。
八歳になるまで、私は姉がただ身体の弱い人なのだと思っていた。
姉は一日の大半を西側の離れで過ごしていた。戸には重たい鉄の錠前がかかり、父は出かける前と帰宅した後、必ず鍵を確かめた。鍵はいつも父の手元にあった。塀の外を通りかかった人が離れをちらりと見るだけでも、父は険しい顔で農具を手に取り、追い払った。
ある日、隣家の女が塀越しに、灯里の香りはいい匂いだね、暖かい温室から出てきたみたいだ、と口にしたことがあった。
父は顔を真っ赤にして女を追い返した。女の姿が見えなくなっても、父は軒下で煙草を吸い続けた。煙が目に染みても、火が消えるまで手を止めなかった。
「罰が当たったんだ。こいつはいつか、皮も骨も残さず借りを返すことになる」
その頃の私は、陰の借りなどという言葉の意味も知らなかった。ただ、父が妙に神経質なことだけはわかっていた。
父は姉を外に出さず、姉の香りについて誰かに話すことも禁じた。梅雨には部屋の湿気で布団までかび臭くなるのに、姉が床に座っていると、どこからともなく甘く温かな香りが漂ってきた。日の当たらない部屋に、陽光が差し込んだようだった。
私は姉のそばにいるのが好きだった。
袖に顔をうずめ、どうしてそんなにいい匂いがするのかと尋ねると、姉は私の髪を撫でて、誰にも言っちゃ駄目だよ、と囁いた。自分の茶碗に残った最後の卵を半分に分けてくれることもあった。姉は食べるのが遅かったけれど、私の頼みを断ることはほとんどなかった。
父に見つかると、私は襟首をつかまれて離れから引きずり出された。叱られている間、姉は言い訳ひとつせず、戸が閉まる瞬間にだけ、隙間から私を見つめていた。
私が十歳になった年の晩秋、父は御影山へ薬草を採りに出かけ、足を滑らせて急斜面から転落した。
村人たちは一晩中探し回り、翌朝になって谷底で遺体を見つけた。身体はひどく損傷し、原形をとどめていなかった。肉片と折れた骨を拾い集め、薄い木の棺に納めるしかなかった。
母の志津は庭に立ち、最後まで涙を流さなかった。手伝いに来た人々に応対しながらも、目だけは離れの戸を気にしていた。誰かが葬儀のどさくさに紛れて中を覗くのを恐れているように見えた。
葬儀と火葬が終わると、家の中は急に静かになった。
姉の錠前を毎日確かめる人はいなくなり、香りを嗅ぎつけて庭まで来た村人を追い返す人もいなくなった。
母はしばらく姉に食事を運んでいたが、やがて食べる量が多い、何の役にも立たないと文句を言うようになった。家に残った金を数えてはため息をつき、そのたびに離れの戸へ視線を向けた。
山が雪に閉ざされた晩、我が家には三日間まともな食事がなかった。
隣家の近藤早苗が訪ねてきたのは、そんな夜だった。
早苗の義母は半年も寝たきりで、床ずれがひどく、食事も排泄も人の手を借りなければならなかった。最近では水さえ飲み込めなくなっていた。町の医師にも、できる限り世話をするしかないと言われたらしい。
早苗は泣き言も言わず、懐から赤い布包みを取り出した。中に入っていたのは、小さな金の指輪だった。
「志津さん、灯里ちゃんの身体から、特別な香りがするって聞いたの」
早苗は指輪を母の前へ押し出した。
「お義母さんを、少しの間だけでも灯里ちゃんのそばに座らせてもらえないかな。町のお医者さんにも、もうできることはないって言われて……これしか思いつかなかったの」
母は火かき棒を握り直した。最初は早苗を追い返そうとしていたようだった。だが、金の指輪が目に入った途端、その手が止まった。
指輪をつまみ、歯で噛んで確かめる。それから灯りにかざし、何度も裏返した。やがて母は指輪を握りしめ、姉の腕をつかんで布団から引き起こした。
「灯里、近藤さんの家へ行くよ」
姉はよろめきながら立ち上がり、私を振り返った。
私もついていこうとしたが、母に押し戻された。
「おとなしく家にいなさい」
門が閉まる直前、母が姉に早く歩けと急かす声が聞こえた。やがて雪を踏む足音が遠ざかっていった。
その晩、離れの鉄の錠前が、初めて他人のために開かれた。
2
翌朝、近藤家の庭には大勢の人が集まっていた。
半年も寝たきりで、水さえ飲み込めなかった老人が、自分の足で部屋を出てきたという。戸口に手をついて立ち、粗末な茶碗を持ち上げると、熱い粥を二杯も平らげたそうだ。
早苗は涙を流して喜び、近所の人々は何をしたのかと口々に尋ねていた。早苗はただ、義母が昨夜よく眠れたこと、今朝は身体が少し楽になっていたことを話すだけだった。
姉がどうやって家へ戻ったのかは、誰も知らなかった。
私は近藤家の裏庭で姉を見つけた。壁際にうずくまり、薄い着物一枚で身体を縮めていた。唇は紫色になり、指は凍りついたようにこわばっている。
「姉ちゃん!」
駆け寄ると、姉はずいぶん経ってから顔を上げた。目は充血し、焦点も定まっていなかった。
「帰ろう。私が連れて帰るから」
姉は立とうとしたが、膝に力が入らなかった。私は姉の腕を肩に回し、身体を支えながら歩き始めた。雪に足を取られるたびに立ち止まり、息を整えてはまた歩いた。
家に着く頃には、すっかり夜が明けていた。
姉の身体は思っていた以上に軽く、触れると驚くほど冷たかった。部屋に入った途端、姉は寝台に倒れ込み、背中を丸めて黒い血を吐いた。
床に落ちた血から、甘ったるい匂いが立ち上った。嗅いだ瞬間、目の前がくらりと揺れた。姉は母の裾をつかみ、歯が鳴るほど震えていた。
「お母さん……痛い。骨の中を虫が這い回ってるみたい……いくら耐えても、止まらないの……」
母は寝台の端に腰を下ろし、着物の裾で金の指輪を丁寧に拭いていた。床に落ちた血には目もくれない。
「灯里、もう少し我慢しなさい」
母は指輪を懐にしまい、子供をあやすような声を出した。
「女は誰だって苦労するものよ。あんたが一晩我慢すれば、うちの暮らしも少しは楽になる。お父さんが早くに死んで、私ひとりで二人を育ててきたんだよ。少しくらい家のことも考えなさい」
姉は母の裾をつかんでいた手をゆっくり離した。
私は姉を抱きしめようとしたが、母に押しのけられた。
「水を沸かしてきなさい。冷えただけなんだから、温かいものを飲めば治るよ」
そう言い残し、母は指輪を持って居間へ戻っていった。
その夜、姉は痛みで眠れなかった。
母が寝静まった頃、私はこっそり離れへ忍び込み、濡らした手拭いで姉の顔を拭いた。額は熱いのに、手足は氷のように冷たかった。
「姉ちゃん、町の診療所へ行こうよ」
姉は首を横に振った。
「お母さんには、言わないで」
しばらくして、私は尋ねた。
「近藤のおばあさん、本当に元気になったの?」
「歩けるようになったよ」
「じゃあ、どうして姉ちゃんばかり、こんなに痛いの?」
姉は答えず、私の頭をそっと撫でた。
父が亡くなって三日目、母は黒い防水布で離れの窓を塞ぎ、戸の隙間にも布を詰めた。部屋には小さな灯りを一つ残し、門の外に木の札を掲げた。
香を借りて命をつなぐ。
最初のうち、母は訪ねてきた人に庭先で香りを嗅がせ、金を払った者だけ、戸の向こうで過ごすことを許した。
十五分で三百円。戸越しに嗅ぐなら五百円。姉のそばで一晩過ごしたければ、三千円。
客はすぐに増えた。
咳に苦しむ老人や足腰の痛む男が訪ねてきた。やがて、厄払いになる、運が向いてくるという噂を聞きつけ、遠方からも人がやって来た。
母の金箱は日に日に重くなった。新しい着物を買い、普段は手を出さない肉を食卓に並べ、朽葉町で靴まで買った。暮らし向きがよくなった理由を尋ねられると、母は商売を始めたのだと笑い、詳しくは話さなかった。
一方で、姉の身体は衰えていった。
半月もしないうちに頬はこけ、頬骨が浮き出た。食事は喉を通らず、粥を数口飲み込んでも吐いてしまう。夜になると痛みで身体を丸め、寝返りを打つだけでも苦しそうだった。
母がいない隙を見て、私は毎日、姉に食べ物と水を運んだ。おにぎりを小さく崩して口元へ運ぶこともあれば、何も食べられない姉の手を握り、呼吸が落ち着くまで隣に座ることもあった。
姉の手は冷たくなる一方だった。それでも香りだけは消えなかった。
「姉ちゃん、逃げようよ」
ある晩、私はとうとう口にした。
「バスの時刻表を見てきたの。朝になれば朽葉町へ行ける。そこからもっと遠くへ行こう。ここを出れば、お母さんだって姉ちゃんを閉じ込められないよ」
姉はゆっくりと目を開けた。
「つぐみ、逃げても無駄だよ」
「どうして?」
姉は冷えきった手で、私の頬に触れた。
「この匂いが残っている限り、どこへ行っても誰かが見つける。あんたはまだ小さい。私を守りきれないよ」
「じゃあ、このままみんなに吸い尽くされるの?」
声が震え、涙が布団に落ちた。
姉は天井の黒ずんだ梁を見つめ、静かに言った。
「あの人たちは、香りを奪っているつもりなんだよ」
姉の指が、私の手をそっと握った。
「でも、最初に私へ近づいたときから、奪っていたのは命なんだ」
その意味を、当時の私はまだ理解できなかった。
岩倉重蔵という村長が、三万円を持って家を訪ねてくるまでは。
3
村長がやって来た夜は、雷雨だった。
重蔵は二人の村人を連れ、黒いビニール袋を机へ放り投げた。口が開き、束になった札がこぼれ落ちた。
「志津、ここにある香りは病気にも効くそうだな。うちの美代のことも、聞いているだろう?」
重蔵の妻、美代には四人の娘がいた。どうしても男の子が欲しかった彼女は、あちこちの神社に参り、怪しげな民間療法にも手を出してきた。お香の灰まで口にした結果、顔中にひどいできものができてしまったという。
医者を何軒も回っても治らず、金ばかりが消えていった。
近藤家の老人が歩けるようになったという話は、集落中に広まっていた。重蔵はその噂を聞きつけ、今度は自分の家族にも同じことが起きないかと考えたのだろう。
「今夜、美代を灯里のそばで寝かせたい。三万円は先に払っておく。うまくいけば、その先の話もできる」
母は札束を見つめ、エプロンで何度も手を拭った。
「重蔵さん、灯里はもう座っているのもやっとなんです。食べてもすぐ吐いてしまうし……美代さんに何かあったら、私には責任が持てませんよ」
「金が足りないと言いたいのか?」
重蔵は黄ばんだ歯を見せた。
「とぼけるな。お前の家のことは、集落じゅうが知っている。美代が男の子を授かれるなら、もっと出してもいい」
母は答えなかった。金と離れの戸を交互に見つめていた。
重蔵は懐から、しわだらけの紙包みを取り出した。
「御影山の山守婆に頼んで手に入れた薬灰だ。水に溶いて飲ませれば、骨の中にある香りを引き出せるらしい。香りが濃くなれば、嗅いだ者にもご利益があるそうだ」
母の手が止まった。
山守婆が危ない民間療法を使うことは、集落の人間なら誰でも知っていた。父は生前、あの女には近づくなと母に言い聞かせていた。
母も、この薬が危険なものだとわかっていたはずだ。それでも、ほんの少し迷っただけで紙包みを受け取った。
私は台所から飛び出し、母の脚にしがみついた。
「お母さん、姉ちゃんにそんなものを飲ませないで! 今日はもう五人も相手をしたんだよ。さっきだって黄色いものを吐いたのに……このままじゃ死んじゃう!」
母は振り向くなり、私の胸を蹴り飛ばした。
泥水の中に倒れ、息が詰まった。起き上がろうとする私を尻目に、母は離れの戸口へ向かっていた。
「この役立たず!」
母は鍵を取り出しながら、私を睨みつけた。
「三万円だよ! これだけあれば、どれだけ暮らせると思ってるんだい? お前は私に、二人を連れて物乞いでもしろと言うのか!」
私は胸を押さえ、泣きながら母の後を追った。
そのとき、離れの戸がわずかに開いた。
隙間から、姉の手が伸びてきた。
枯れ枝のように細い指。爪は不気味なほど白く、腕を持ち上げるだけでも苦しそうだった。それでも姉は戸枠に手をつき、母を見つめた。
「つぐみ、立って」
「姉ちゃん……」
「その人を中へ入れてあげて」
母の表情が緩んだ。戸を開け、美代を中へ押し込むと、鍵を握り直した。
美代はその晩、離れで夜を明かした。
翌朝、出てきた彼女の顔には、ひどかったできものが硬いかさぶたになっていた。青白かった顔色にも赤みが戻っている。
美代は母の手を握り、何度も礼を言った。重蔵も上機嫌で、望みがかなったかのように笑っていた。
私は二人を押しのけ、離れへ駆け込んだ。
姉は寝台に倒れ、汗で濡れた布団の上に横たわっていた。肩は落ち、鎖骨が浮き出て、皮膚は骨に張りつくように痩せていた。胸がかすかに上下しているのが、ようやくわかる程度だった。
「姉ちゃん!」
私は膝をつき、姉の手を握った。
姉は力なく顔をこちらへ向けた。
「つぐみ、ひとつだけ覚えておいて」
姉は息を継ぎながら、ゆっくり言葉を押し出した。
「私から奪ったものは、いつか命で返してもらう」
私は姉の手を握りしめ、何度もうなずいた。
一か月後、美代のお腹が少しずつ膨らみ始めた。
町の医師に診てもらうと、確かに妊娠していると告げられた。重蔵は毎日のように人を集めて酒を振る舞い、ついに跡取りができたと自慢した。
医師は妊娠と香りに関係があるとは言っていなかった。美代のできものも、かさぶたになっただけで、再発しない保証はなかった。
それでも重蔵は、すべて姉の香りのおかげだと信じ込んでいた。
村人たちも疑おうとはしなかった。
こうして篠守家の異様な香りは、さらに遠くまで広まっていった。
人々は姉を「香骨女」と呼ぶようになった。
山の神が授けた福だと言う者もいれば、身体に万病を治す薬を宿しているのだと言う者もいた。そんな話を耳にするたび、母は笑顔で金を受け取った。
姉はもう、自分の足で離れの外へ出ることもできなくなっていた。
4
立冬の日、山から吹き下ろす風が門前の木札を揺らしていた。
村長は十人の村人を連れてやって来た。咳に苦しむ老人も、足腰を痛めた男もいた。香りを嗅げば厄が落ち、運が向くと聞いた者たちだった。
全員が金を持っていた。
札束が机の上に積み上がり、狭い部屋は人でいっぱいになった。重蔵はその前に立ち、母を手招きした。
「志津、今日は話を決めに来た。俺たち十一人、今夜は全員、離れに入らせてもらう。十万円、きっちり払う」
母の目が輝いた。いちばん上の札束に指を触れ、すぐに手を引っ込めた。
「十一人全員ですか?」
「何だ、駄目なのか?」
重蔵は椅子に腰を下ろし、煙草に火をつけた。
「灯里の香りに力があることは、みんな知っている。俺たちの身体がよくなるなら、この金は全部お前のものだ」
母は離れのほうを見た。
「灯里はもう、寝台から起き上がることもできないんです。そんな大勢が入ったら、身体がもたないかもしれません」
「だったら、もたせる方法を考えればいい」
重蔵は薬の包みを机の上へ放り投げた。
「山守婆が言っていた。これを飲ませれば、骨の中の香りを引き出せる。あとはお前がうまくやれ」
母は紙包みを見つめたまま黙り込んだ。
薬が危険なことはわかっている。父が山守婆の名を口にするとき、いつも声を低くしていたことも覚えている。
それでも母の手は、十万円の札束から離れなかった。
やがて母は紙包みを拾い上げた。
私は飛びかかり、その手首に噛みついた。
「お母さん! やめて! 姉ちゃんが死んじゃう!」
母は痛みに顔をしかめ、私の頬を平手打ちした。髪をつかまれ、壁に叩きつけられる。後頭部を木の板に打ちつけた瞬間、目の前が真っ暗になった。
「十万円だよ!」
母の怒鳴り声が頭の上から降ってきた。
「灯里が自分で働いて、こんな金を稼げると思うのかい? 生まれつき香りを持っているんだから、家のために役立ってもらわなきゃ困る。死んだら、来世で返してやればいい!」
母は私の腕をつかみ、離れへ引きずっていった。
姉は壁際にうずくまり、薄い布団をかぶっていた。頬はこけ、尖った顎は刃物のようだった。艶のあった黒髪も色を失っている。私たちが入ってきても、姉は目を少し上げただけだった。
母はいったん台所へ戻り、黒い薬液の入った碗を持ってきた。鼻を刺すような生臭い臭いが漂っていた。
母は碗を私に押しつけた。
「つぐみ、お前が飲ませなさい」
手が震えた。
「お母さん……」
「飲ませないなら、お前もここへ閉じ込める。今夜は十一人まとめて香りを嗅がせてやる。誰も逃がさないからね」
薬液が手の甲にこぼれ、吐き気が込み上げた。碗の中で黒い液体が揺れている。
姉に飲ませたくなかった。母に閉じ込められたって構わない。目の前で姉が死んでいくのを、ただ見ているよりはましだった。
そのとき、姉が手を伸ばし、私の手の甲にそっと触れた。
「貸して」
「姉ちゃん、駄目だよ……」
「つぐみ、お願い」
姉は母を見ようともせず、私の手から碗を受け取った。
そして、一気に飲み干した。
空になった碗を私に返し、姉はかすかに笑った。
「大丈夫だから」
私は姉にしがみつき、声を上げて泣いた。
戸の向こうでは、重蔵と十人の村人が母を急かしていた。金を払ったのだから、早く香りを嗅がせろと騒いでいる。
誰も姉の意思を尋ねなかった。
5
薬を飲んでから三十分ほど経っても、離れからは何の物音もしなかった。
外で待っていた者たちは、次第に苛立ち始めた。戸を蹴る者もいれば、金を返せと怒鳴る者もいる。重蔵もとうとう我慢できなくなり、母を押しのけて自分から中へ入った。
姉は壁にもたれ、浅い呼吸を繰り返していた。身体はひどく弱っているのに、期待していたほど香りは強くない。
「どういうことだ! 香りを引き出せるんじゃなかったのか!」
重蔵は母を睨みつけた。
「金まで払ったんだぞ。何の効き目もないなら、返してもらうからな!」
母は慌てて姉のそばへ駆け寄り、頬を叩いて起きろと急かした。けれど、姉は反応しなかった。目を半分開けたまま、息をするだけで精いっぱいのようだった。
重蔵は姉をしばらく眺めていたが、やがて私に目を向けた。
「そういえば、血を流させると香りが強くなるという話を聞いたことがある」
背筋が凍った。
「この女が駄目なら、妹の血を試せばいい。姉妹なんだから、こいつにも同じものが流れているかもしれん」
母まで黙り込んだ。
母の視線が私と庭の十万円の間を行き来する。やがて、その顔から迷いが消えた。
母は台所へ向かい、豚の餌を刻むときに使っていた包丁を手に戻ってきた。
「つぐみ、ちょっと腕を切るだけだよ。血を少し出すくらい、どうってことないから」
刃先に薄暗い灯りが映っていた。
私は一歩ずつ後ずさり、壁に背中を押しつけた。
「お母さん、私だって娘でしょう?」
母の手が一瞬止まった。
「そんなこと、わかってるよ。だから、家族のために少し手伝っておくれ」
私は母の顔を見つめた。
昔は、ご飯を作ってくれた。冬の寒い日には、私の冷えた手を懐に入れて温めてくれたこともあった。父が死んだときには、姉と私を抱きしめて泣いていた。
その母が今、私の身体から血を取ろうとしている。
あの男たちの欲望を満たすために。
包丁の先が腕に触れようとした、その瞬間だった。
離れの中で、乾いた音が響いた。
パキッ。
姉が、ゆっくりと身体を起こしていた。
残された力を振り絞るように右手首をつかみ、腕を外側へ折り曲げる。
鈍い音が、もう一度響いた。
姉は自分の手首を折ったのだ。
真っ白な骨が皮膚を突き破り、血が噴き出した。壁の土を赤く染めても、姉は涙ひとつ流さなかった。眉間に皺を寄せることさえなかった。
次の瞬間、濃密な甘い香りが爆発するように広がった。
母は驚いて包丁を取り落とした。
姉は折れた手首を壁に押しつけ、血の筋を引きながら、ゆっくりと私のほうを向いた。
姉の唇がかすかに動いた。私はすぐそばまで身をかがめた。
「つぐみ……みんなが中に入ったら、戸を閉めて鍵をかけて」
姉は自分の血に濡れた手で、私の指をぎゅっと握った。
薬が骨の奥に眠る香りを無理やり引きずり出したのだろう。姉の身体が震えるたび、香りは濃くなっていった。姉は自分の意思で手首を折り、これ以上、私に手を出させないようにしたのだ。
6
香りが広がるやいなや、戸の外にいた人々が我先にと押し寄せてきた。
誰一人として、姉の傷を気にかける者はいなかった。みな口を大きく開け、部屋いっぱいに満ちた香りを、少しでも多く吸い込もうとしていた。
重蔵は戸枠にもたれ、顔を赤くしながら叫んだ。
「これだ! この香りだ! 三十年も咳に苦しんできたが、やっと楽になったぞ!」
残りの十人も姉を取り囲んだ。寝台の脇に膝をつく者もいれば、傷ついた手首に顔を近づけ、夢中で香りを吸い込む者もいた。
母は戸口に立ち、姉の血がついた手で、重蔵から受け取った金を数えていた。
札の擦れる音と、男たちの荒い呼吸が重なっていた。
姉は血だまりの中に横たわり、少しずつ冷たくなっていった。薬灰の作用に手首を折った激痛が重なり、身体は限界を迎えていた。皮膚は不自然に赤く染まり、毛穴から小さな血の粒がにじみ出ている。
男たちが深く息を吸い込むたび、姉の胸の上下は目に見えて弱くなった。
私は部屋の隅で口を押さえていた。
夜が更けるにつれて、香りは少しずつ薄れていった。
重蔵が眉をひそめ、姉の手首をつかんだ。傷口を押さえ、もっと血を絞り出そうとする。
「どうなってるんだ! さっきまでは、あんなに濃かったじゃないか! こっちは金を払ったんだ。もっと嗅がせろ!」
姉は動かなかった。
しばらくして、ゆっくりと目を開けた。
瞳からは焦点が失われ、白目には灰色の膜がかかっていた。それでも、口元だけが少しずつ持ち上がっていく。
生きている人間の笑みとは思えない、ぎこちない笑い方だった。
「そうだね……」
姉の声は、擦れた紙のようにかすれていた。
次の瞬間、姉の身体が大きく反り返った。
パキッ。パキ、パキッ。
骨が折れる音が、次々と身体の内側から響いた。
肋骨が折れ、背骨が砕け、身体を支えていた骨格が崩れていく。皮膚と肉が、その変化に合わせるように沈み込んだ。
香りはいっそう濃くなった。甘い匂いに、腐敗した肉の臭いが混じり始めた。
それでも、あの人たちはやめなかった。
寝台に顔を伏せる者もいれば、床に這いつくばって香りを吸い込む者もいた。重蔵は目を閉じ、これで二度と病気に苦しまずに済むと、何度も呟いていた。
誰もが、もう一口と欲しがっていた。
姉の命まで奪っていることに、気づこうともしなかった。
私は隅に立ち尽くし、泣くことさえできずにいた。
姉が最後の息を吐く直前、その視線が人々の頭越しに天井へ向かった。瞳から光が消えていく。それなのに、その眼差しはひどく冷たかった。
まるで、ずっと前から決まっていた何かを、静かに待っているかのようだった。
やがて、姉は目を閉じた。
部屋の中では、まだ人々が香りを吸い続けていた。
彼らがようやく満足して離れを出ていったのは、夜が明ける頃だった。顔色はよくなり、足取りも軽い。昨日まで咳で息もできなかった老人が、今では大きく息を吸い込んでいる。足腰を痛めていた男も、自分の足で階段を下りていった。
誰一人、灯里のことを口にしなかった。
私は人々を押しのけ、部屋に駆け込んだ。
姉は、もう死んでいた。
木の寝台に横たわる身体の下で、血は暗い赤色に固まっていた。砕けた骨に皮膚が張りつき、頬は落ちくぼんでいる。唇がわずかに開いていて、死ぬ直前まで何かを伝えようとしていたように見えた。
私は膝をつき、姉の頬に触れた。
指先に伝わってきたのは、冷たさだけだった。
7
母が古い鉄のたらいを持って入ってきた。
泣くことも、姉の顔を確かめることもしなかった。窓際の防水布に隙間がないかを調べると、たらいを寝台の下へ押し込み、姉の身体から流れ落ちる濁った液体を受け止めた。
甘い香りは、まだ消えていなかった。
母はたらいの中を覗き込み、小さな声で呟いた。
「これも、いくらかにはなるかね……」
私はとうとう我慢できなくなり、母を突き飛ばしてたらいを蹴り倒した。
生臭い液体が床一面に飛び散った。
「姉ちゃんは死んだんだよ! まだ姉ちゃんを金に換えるつもりなの?!」
母は振り向きざま、私の頬を平手打ちした。
私は寝台の縁にぶつかり、顔の半分が痺れたようになった。母は居間の金箱を指さし、充血した目で私を睨みつけた。
「お前に何がわかる! 灯里がいなければ、十万円だって手に入らなかったんだよ。生きていれば食べさせなきゃならない。死んだって、残ったものを役立てるくらい、いいじゃないか!」
私は頬を押さえたまま、母を見つめていた。
母はもう私のことなど気にしていなかった。床に散らばった金を拾い集めながら、自分が十五年間も姉を育ててきたのだから、家のためにこれくらいするのは当然だと繰り返していた。
姉の葬儀は二日後に行われることになった。集落の慣習では、葬儀を終えた遺体は火葬場へ運ばれる。
知らせを聞きつけ、離れに通っていた者たちが次々と集まってきた。喪服を着ている人もいたが、泣いている人はいなかった。人々の目は、薄い木の棺に向けられていた。
棺の蓋はまだ閉じられていなかった。姉の遺体は中に納められ、顔には薄い布がかけられている。
重蔵は手を擦り合わせながら、母の前に立った。
「志津、灯里はみんなのために亡くなったんだ。せめて最後に、もう一度だけ香りを嗅がせてくれないか。棺を閉じる前に、ほんの一度でいい」
母は棺を見つめ、それから庭に集まった人々を見回した。
「これが本当に最後だよ。一人二千円。金を払った順番に並びな。押し合いは許さないからね!」
人々がざわめいた。
私は階段の上で拳を握りしめていた。怒りで身体が震え、戸口に置かれていた鋏をつかんだ。この人たちを全員、追い出してやりたかった。
けれど、一歩踏み出す前に、棺の中から鈍い音がした。
ゴン。
庭が静まり返った。
続いて、もう二度。
ゴン。ゴン。
木の板の内側から、硬い指の節でゆっくりと叩いているような音だった。
母の顔から血の気が引いた。
「ね、ネズミだよ……きっとネズミが入り込んだんだ! 早く蓋を閉めて、縄で縛りな!」
男たちは慌てて太い縄を持ってきた。棺の蓋を押さえつけ、何重にも巻きつけていく。木が軋む音が庭に響いた。
私は鋏を握ったまま、動けずにいた。
あれはネズミなんかじゃない。
姉が私に残した合図だ。
姉は、まだ終わっていない。
その日の夕方、棺は火葬場へ運ばれた。道中、村人たちは誰も口を開かなかった。火葬を終えた姉の遺骨は骨壺に納められ、納骨の日まで我が家に置かれることになった。
8
その晩、篠守集落を激しい雨が襲った。
私は雨合羽を羽織り、スコップを持って御影山の麓にある古い墓地へ向かった。父の遺骨はすでに先祖代々の墓に納められている。私が探しているのは、墓標の下に隠されたものだった。
雨水が襟元から流れ込み、足元の土はぬかるんでいた。何度も滑りかけたが、立ち止まるつもりはなかった。
姉は死ぬ直前、血に濡れた手で私の指の間に小さな紙片を押し込んだ。母が騒ぎに気を取られている隙に、私はそれを枕の下へ隠した。
母が戻ってくる前に、私は紙片を枕の下へ押し込んだ。
そこには、震える字でこう書かれていた。
「父さんのお墓の下に、陰の借りの根がある。生き延びて、あいつらが死ぬのを見届けて」
私はその指示に従い、父の墓の土台を掘り始めた。
爪は割れ、手は泥と血にまみれた。やがてスコップの先が硬いものに当たった。墓標の土台を掘り崩し、手探りで取り出したのは、錆びついた古いクッキー缶だった。
缶は油布で厳重に包まれていた。
中には父の日記と、半分ほどしか残っていない古びた冊子が入っていた。紙は湿気で傷み、端は黒ずんでいる。懐中電灯を頼りにページをめくるうち、私は全身が冷たくなっていくのを感じた。
冊子には、御影山の古い神社に伝わる禁忌が記されていた。
かつて山の神を祀る祭壇には、「陰山香骨」と呼ばれるものが供えられていたという。それは香料でも薬草でもない。古い祭壇から取り出された、黒い骨の一片だった。
集落には、こんな言い伝えが残されていた。
陰骨を呑めば、母と娘の命は救われる。
その代わり、借りは血脈に刻まれ、香りもまた受け継がれる。
他人が命を借りたなら、最後には借りた分だけ、自らの骨と血で返さなければならない。
母が姉を身ごもって八か月目の頃、ひどい病に倒れたことがあった。
大量に出血し、医師から最悪の事態を覚悟するよう告げられた。父は遠方で働いていた。母は病身を引きずり、夜中に御影山の廃神社へ忍び込んだ。
祭壇の前にひれ伏し、額から血が流れるまで祈り続けた末、供えられていた黒い骨のようなものを盗み食べたのだ。
その後、母の命は助かり、お腹の子も無事に生まれた。
姉が生まれたとき、すでにその身体からは異様な香りが漂っていたという。
冊子には、香りが病を治すとも、福をもたらすとも書かれていなかった。記されていたのは、恐ろしい交換の仕組みだった。
陰骨を呑んだ者は、その借りを血脈に背負う。その後に生まれた子供が、陰香を宿す器となることがある。
器となった者が死ねば、香りは消えることなく、同じ母から生まれた姉妹のうち、生き残った者へ移る。
香りを借りた者は、奪った命の分だけ、自分の骨と血を差し出すことになる。そして陰骨を呑み、その器を金儲けの道具にした者も、決して逃れられない。
私は父の日記を開いた。
最後の数ページは、ひどく乱れた字で埋められていた。ところどころ、インクが滲んで読めなくなっている。
父は、灯里の香りが神から授かった恵みなどではないと書いていた。
あの香りは、姉の寿命から少しずつ削り取られていくものだった。姉が生きている限り、香りを嗅いだ者は一時的に命の力を借りられる。だが、姉が骨を折られて死ぬまで追い詰められれば、香りを借りた者は三日以内に報いを受ける。
姉を利用して金を稼いだ母も、例外ではない。
そして香りは、同じ母から生まれた私へ移る。
日記の中で、父は二つの言葉を何度も書き直していた。
「陰香を借り、骨で返す」
「欲をかいて、借りを背負った者を死に追いやれば、香りを借りた者は誰一人逃れられない。陰骨を呑んだ者が、その器を利用して金を稼いだなら、そいつも同じように返すことになる。欲が深ければ深いほど、返すときの苦しみも大きくなる」
私はその文字を見つめた。
雨水が額から目に流れ込み、視界が滲んだ。
父は、ずっと前に真相を突き止めていたのだ。
姉が生まれた後、父は母を問い詰めた。母が古い神社へ忍び込み、命を救うために黒い骨を呑んだことを知り、神社に残されていた冊子を調べて、香りが引き起こす災いを理解した。
だからこそ、父は姉を離れに閉じ込め、誰も近づけないようにしたのだ。
姉の香りを嫌っていたからではない。
あの香りを狙う者たちから、姉を守ろうとしていた。
けれど父が死んだ後、母は自分の手で戸を開けた。
姉は最期にはもう、誰に助けを求めても無駄だとわかっていたのだろう。
だからこそ、折れた自分の骨で、香りを借りた者たちに最後の借りを刻みつけた。
私は激しい雨の中で膝をつき、日記を胸に抱きしめた。いつの間にか喉の奥から笑い声が漏れていた。笑い声はすぐに雨音にかき消され、涙と雨水が混ざって頬を伝った。
「姉ちゃん、わかったよ」
日記を油布で包み直し、缶に戻す。
私はそれを抱えて山を下りた。
三日。
父は、はっきりと書き残していた。
姉が死んで三日目。
あの人たちが借りを返す日だった。
9
姉が死んで三日目の正午、雨が上がった。
太陽の光が篠守集落の屋根を照らし、軒先から雨水が落ちていた。村人たちは棺の中から聞こえた奇妙な音について、まだあれこれと言い合っていた。木が湿気で歪んだのだと言う者もいれば、本当にネズミが入り込んだのだと言う者もいた。
けれど、私にはわかっていた。
彼らに残された時間は、もうほとんどなかった。
最初に我が家へ駆け込んできたのは、村長の妻、美代だった。
妊娠して大きく膨らんでいたお腹が、まるで空気を抜かれたようにしぼんでいた。黒ずんだ黄色い液体がズボンの裾を伝い、その中には形の崩れた肉片が混じっていた。
足には力が入らないらしい。美代は地面に手をつき、這うようにして戸口へ近づいてきた。
「志津さん……助けて……」
声は震え、ほとんど聞き取れなかった。
「お腹の子が……私の脚が……骨がなくなったみたいなの……立てないの……」
母は戸の陰に隠れ、両手で口を覆っていた。
母が戸を閉める間もなく、重蔵が庭へ転がり込んできた。
着物は引き裂かれ、背中の皮膚が広い範囲で剥がれ落ちていた。傷口からは黒ずんだ脊椎の骨が突き出している。重蔵は地面を這い、獣のような声で叫んだ。
「金を返せ! 俺の金を返せ!」
顔を上げ、母を睨みつける。
「この毒婦! 俺たちに何を飲ませたんだ!」
母は後ずさりした。それでも、腕に抱えた金箱だけは手放そうとしなかった。
すぐに、香りを借りたほかの人々も集まってきた。
咳き込んだ拍子に骨の欠片を吐き出す者。歩き出した途端、足首が折れて倒れる者。膝を抱えて、身体の中で骨が柔らかくなっていくと泣き叫ぶ者もいた。
彼らの身体からは、姉が死ぬ直前に放った甘い香りが漂っていた。
ただ、もう温かな香りではなかった。
腐った肉と血、湿った土を混ぜ合わせたような悪臭が庭じゅうに広がった。苦しさから逃れようと息を吸い込むほど、身体の痛みは増していく。もがくたびに、骨はさらに早く腐っていった。
庭は悲鳴で埋め尽くされた。
重蔵は地面に落ちていた煉瓦の破片を拾い、居間の窓を叩き割った。
「金を返せ! 全部返せ! 殺してやる!」
母は悲鳴を上げて逃げようとしたが、金箱を抱える腕には力がこもったままだった。
「私のせいじゃないよ! 自分たちから来たんだろう! 誰も無理やり連れてきてなんかいない!」
声が甲高く裏返る。
「金は私のものだ! 誰にも渡さない!」
私は台所の入り口に立ち、庭の惨状を見つめていた。
母がこちらに気づいた。
駆け寄ってきて私の襟首をつかみ、息ができなくなるほど強く締めつけた。
「お前なら、元に戻す方法を知っているんだろう? 早く教えなさい!」
私は母の指を一本ずつ引きはがした。
「そんな方法はないよ」
母は呆然とした。
私は母の顔を見つめ、落ち着いた声で言った。
「忘れたの? あの骨を最初に口にしたのは、あの人たちじゃない。お母さんでしょう」
母の手が、ゆっくりと下がった。
母は自分の右手首を見た。そこには黒い裂け目が走っていた。血は一滴も流れていない。ただ、無数の穴が開いた腐った骨が、皮膚の下から押し出されていた。
母は悲鳴を上げた。
壁に手首を何度も叩きつけ、飛び出してきた骨を身体の中へ押し戻そうとする。だが、次の瞬間には肋骨までが乾いた音を立てて折れ始めた。
ミシッ。ミシミシッ。
母は地面に倒れ、身体を激しく痙攣させた。
その姿を見た庭の人々は、とうとう理性を失った。
「戸を壊せ! あいつらを引きずり出せ!」
門が破られ、身体の腐り始めた村人たちが十数人、庭へなだれ込んできた。
彼らは母の腕から金箱を奪い、母を地面に引き倒した。身体を踏みつけ、着物を引き裂き、皮膚や肉をむしり取っていく。
母は泣き叫びながら、私へ手を伸ばした。
「つぐみ……助けて……お母さんだよ……!」
私は階段の上に立ち尽くしていた。
金の指輪と引き換えに姉を他人へ差し出した母。十万円のために薬を飲ませ、姉の骨が砕けるまで香りを搾り取った母。私の血まで金に換えようと、包丁を向けた母。
今度は母自身が、人間ではなく物として扱われていた。
重蔵が血走った目を上げ、私を指さした。
「こいつの血を飲め! あの化け物と同じ母親から生まれたんだ。こいつの血なら、毒を消せるかもしれん!」
人々の動きが、一瞬止まった。
次の瞬間、まだ這って動ける者たちが、一斉に私へ顔を向けた。
私は踵を返し、離れの戸を開けた。
中には、まだ姉の香りが残っていた。冷たく、濃く、壁や床板の奥から染み出してくるような匂いだった。
私は寝台のそばに立ち、戸口へ押し寄せてくる人々を振り返った。
「私の血が飲みたいの?」
手招きをする。
「だったら、入っておいでよ」
10
重蔵が真っ先に離れへ飛び込んできた。
片脚はすでに折れ、身体を引きずるようにして床を這っていた。後ろから押し寄せた人々は戸口でぶつかり合い、腐った皮膚を戸枠にこすりつけながら、次々と中へ入ってくる。
痛みも、倒れた仲間も、もう目に入っていないようだった。
私を捕まえ、命をつなぐ方法を見つけること。それしか頭になかったのだろう。
最後の一人が敷居をまたいだとき、部屋の隅で何かが動いた。
最初は、ぼんやりとした影にすぎなかった。だが、寝台の下や梁、壁に映った影が次々と浮かび上がり、幾重にも重なっていく。
やがて、それらは細長い人の姿を形作った。
その影は重蔵の背後に立ち、うつむいていた。右手は身体の脇に垂れ、手首はありえない角度に折れ曲がっていた。
私は、その手を知っていた。
姉だ。
姉は私を見なかった。ただ、折れた手首をゆっくりと持ち上げた。
重蔵が何かを感じ取ったのか、勢いよく振り返る。
その瞬間、部屋の灯りがすべて消えた。
悲鳴が一斉に上がった。
私は人々が混乱した隙に、敷居を飛び越えて外へ出た。背後の重たい木戸を引き寄せ、錆びついた鉄の閂を押し込む。
全身の力を振り絞り、最後まで押し切ったとき、カチリと音がした。
戸が閉まった。
これが、姉から頼まれたことだった。
あの人たちは、最後に一度香りを嗅いだだけでは満足しない。金のために、命をつなぐために、誰かから少しでも多くのものを奪おうとして、また同じことを繰り返す。
生きている限り、欲しがることをやめない。
だから、姉は私に戸を閉めさせたのだ。
中から、激しい衝撃音が響き始めた。
誰かが戸を叩いている。誰かが身体ごとぶつかっている。助けてくれと泣き叫ぶ声も聞こえた。
その中には、母の声も混じっていた。
「つぐみ! 開けなさい! お母さんだよ! こんなことをしていいと思ってるのかい!」
母は戸板を叩き続けた。
「金は全部あげる! 金箱の中身は全部お前のものだよ! 出しておくれ! もう灯里には何もしないから!」
私は戸に背中を預け、ゆっくりと地面に座り込んだ。
金?
こんなときになっても、母は金で命を買おうとしている。
私は顔を上げ、雨水が染み込んだ木目を見つめた。
「お母さん、前に言っていたよね。生きている人間が痛いと叫んでも、どうにもならないって」
戸の向こうから聞こえていた泣き声が、一瞬止まった。
私は目を閉じた。
「だったら、もっと叫んでよ。姉ちゃんに聞かせてあげなよ。今、どれだけ痛いのか」
直後、耳を塞ぎたくなるような悲鳴が上がった。
骨の砕ける音が続き、戸を叩く音や助けを求める声が入り乱れた。やがて、誰の声なのかもわからなくなっていった。
戸の隙間から、腐った臭いが染み出してくる。
黒ずんだ赤い液体が、少しずつ足元へ流れてきた。布靴の先が濡れても、私は立ち上がらなかった。閂を外すこともなく、ただ中の音が弱まっていくのを聞いていた。
長い時間が過ぎた。
最後の悲鳴が消えた。
戸の向こうには、もう何の音もしなかった。
私はしばらく待ち続けてから、戸板に手をついて立ち上がった。
姉があの人たちに背負わせた借りは、ようやく清算され始めたのだ。
三日後、篠守集落は再び大雨に洗われた。
庭に残った血の跡は雨に流され、腐臭も薄れていった。村の家々は戸が開いたままになっていたが、中には誰もいなかった。かつて人々が押しかけた我が家の庭も、木々を揺らす風の音だけが聞こえるほど静かになっていた。
私は離れの戸を開けた。
中に遺体はなかった。手足の残骸が散らばっているわけでもない。木の寝台にも壁にも床にも、厚い黒い灰が積もっていた。まるで、そこにあったものが跡形もなく焼き尽くされたようだった。
灰を踏みながら奥へ進み、変形した金箱を見つけた。
蓋は固く閉じたままで、開けようとしても動かなかった。
私は石を拾い、何度も叩きつけた。
ようやく箱が壊れたとき、中の札束はすでに灰になっていた。紙の形を保っているものは一枚もない。
ただ、箱の底に、白い指の骨が一本だけ残されていた。
姉の骨だった。
私は両手でそっと拾い上げ、灰を払った。きれいな赤い布を持ってきて丁寧に包み、胸元へしまった。
姉は、あの借りを清算し始めた。
もう、ここにいる理由はなかった。
私は母の部屋も、重蔵の家の方角も振り返らなかった。かつて我が家の戸口に群がり、香りを求めて争い、金のために互いを傷つけ合った人々は、あの呪いとともに消えてしまった。
庭を出て、山の外へ続く道を歩き始めた。
あの年、私は十歳だった。
それから十年後、私は白鷺市にある化学工場で働くようになった。
工場では安物の香料を製造していた。作業場には刺激の強い臭いが立ち込め、いくつもの薬品が混ざり合っていた。長時間そこにいると、鼻の感覚さえ鈍くなる。
作業員たちは毎日マスクをつけ、臭いの染みついた服で働いていた。誰も、他人の身体からどんな匂いがするのかなど気にしていなかった。
私はベルトコンベアの前で、瓶の蓋を締め、包装を確かめ、箱を運ぶ仕事を繰り返していた。
私がどこから来たのか、誰も知らない。
いつも赤い布を肌身離さず持っている理由を尋ねる人もいなかった。
夜勤の休憩時間になると、私は工場の裏手にある隅へ身を寄せた。機械の轟音も聞こえず、人に邪魔されることもない場所だった。
作業着の袖をまくり、前腕の内側に目を落とす。
最初は、ときどき冷たさを感じる程度だった。
それが少しずつ、あの懐かしい甘い香りへと変わっていった。
皮膚の奥から、じわじわと染み出してくる。熟れた野の実を、冷たい木の中に埋めたような匂い。周囲にどれほど刺激の強い薬品の臭いが満ちていても、私はそれをはっきりと嗅ぎ取ることができた。
袖を下ろし、工場の窓ガラスに映る自分の姿を見つめた。
鏡の中の女は顔色が悪く、長年の夜勤で目の下に濃い隈ができていた。ここで働くほかの人たちと何も変わらない。毎日、給料をもらうために働き、疲れれば隅で休み、仕事が終われば借りている小さな部屋へ帰って眠る。
けれど、私にはわかっていた。
姉が死んだ瞬間、陰香は血のつながりをたどって、私の身体へ移ってきたのだ。
母が陰骨を呑んだとき、借りは血脈に刻まれた。
姉は十五年間も苦しみ続け、最後には自分の骨を代償に、香りを借りた者たちへ報いを与えた。古い冊子には、器が死ねば陰香は同じ母から生まれた姉妹へ移ると記されていた。
陰香が私の身体に移ったのは、姉が死んだあの瞬間だった。けれど、その香りが皮膚の外へ漏れ始めたのは、ずっと後のことだ。
人が何かを欲しがり続ける限り。
他人の苦しみを自分の利益に換えてもいいと考える者がいる限り。
この借りが、途切れることはない。
私は袖を引き下ろし、赤い布に包んだ指の骨を胸元からそっと押さえた。
ガラスに映る自分の口元が、ゆっくりと歪んだ。
ぎこちなく、見慣れない笑みだった。
それでも、私は目をそらさなかった。
この街で待っている。
いつか、あの香りに気づき、私から何かを得ようとする人間が現れるのを。
手を伸ばし、私の命まで自分のものにしようとする人間が現れるのを。
そのときが来たら、私は教えてやる。
奪ったものは、ひとつ残らず返さなければならないのだと。




