白鷺は、石に戻る ――姫路城・白漆喰を塗った女
白鷺は、石に戻る
――姫路城・白漆喰を塗った女
慶長十三年、姫山の朝は石灰の粉で白く霞んでいた。天守へ続く坂には材木を担ぐ人足が列をつくり、槌の音と鋸の音が、炊き出しの釜から上がる湯気を震わせている。左官職人の娘お志乃は、冷えた握り飯を口へ押し込みながら、前夜から水に沈めておいた石灰の桶へ柄杓を入れた。
「その桶には触るな。今日から、お前は飯炊きへ戻れ」
父の惣兵衛は鏝板を抱えたまま、娘の顔を見なかった。総奉行から、天守の外壁だけでなく軒裏も瓦の継ぎ目も白漆喰で覆えと命じられ、左官場では一人でも多くの手が必要だった。それでも女が天守へ上がったと知られれば、惣兵衛の組ごと仕事を外されるという。
「飯炊きなら昨日もしました。百二十七人分です。豆を一升、焦がしましたけど」
「威張って言うことか」
「ですから、今日は得意なほうをします」
お志乃は桶から漆喰をすくい、指の腹でつぶした。焼いた石へ水を吸わせ、藁の繊維と糊を混ぜた白い泥は、寝かせるほど角が取れて鏝によくつく。まだ小さな粒が残っていたため、彼女は昨夜仕込んだ桶ではなく、三日前から蓋をしてあった桶へ白木の札を挿した。
「こっちを上へ運んでください。昨夜のものは、まだ壁になりたがっていません」
その声を聞いた普請方の役人が、泥のついた草履で左官場へ降りてきた。城の完成を急ぐため、漆喰は仕込んだ翌朝から使えと命じた男だった。役人は三日前の桶と昨夜の桶を見比べ、どちらも同じ白ではないかと鼻で笑った。
「壁になりたいかどうかを、泥に聞いたのか」
「聞いてはおりません。触れば分かります」
「ならば、その女の手より殿のご日程を優先せよ。白く見えればよい」
役人が去ると、惣兵衛は娘の肩をつかんだ。指には石灰が入り込んだ細かなひびがあり、朝の寒さで血がにじんでいる。お志乃は父の手を外し、昨夜の漆喰を小さな板へ塗った。
「白く見えるだけの城なら、白い紙でも貼ればよろしいでしょう」
その日の昼、天守の一階で火鉢が倒れた。乾いた木屑へ火が移ったが、大工が水桶をかぶせたため、板一枚を焦がしただけで収まった。騒ぎを聞いて駆けつけた役人は、火の用心が足りぬと人足を三人打ち据え、工期を遅らせるなと怒鳴った。
お志乃は黒くなった板を拾い、二枚に割った。片方へよく寝かせた漆喰を塗り、もう片方へ役人が使わせようとした漆喰を薄く塗った。炊き出し場から火箸と熾火を借りると、二枚を庭の土へ並べた。
「何を始める」
「白さの見分けがつかないのでしたら、火に聞きます」
人足たちが仕事の手を止め、庭を囲んだ。惣兵衛は止めなかった。お志乃が熾火を板へ置くと、薄く急いで塗った側はひびから煙を吐き、しばらくして裏の木が焦げ始めたが、厚く塗った側は白い表面に煤がついただけだった。
「漆喰は飾りではありません。壁も、軒裏も、瓦の継ぎ目も包んで、木へ火を届きにくくするためのものです」
役人は煤のついた板を蹴った。小さな板と大天守を一緒にするな、女の見世物で普請を止められるかと言い捨て、翌朝までに昨夜の桶をすべて使えと命じた。人足たちは再び材木を担ぎ始めたが、惣兵衛だけは蹴られた板を拾い、煤を袖でぬぐった。
「志乃、もう一枚、塗れるか」
「何枚でも」
父娘は夕方までに、同じ檜板を十二枚用意した。漆喰の厚さ、寝かせた日数、藁の量を少しずつ変え、裏側へ同じ大きさの蝋燭を立てた。火が消えるまでの時を数えるため、お志乃は握り飯の包み紙へ正の字を重ねた。
日が落ちるころ、最も長く木を焦がさなかった板が一枚残った。三日寝かせた石灰へ、細く切った藁と煮た海藻の糊を混ぜ、下塗りの上へ二度重ねたものだった。お志乃はその板と十二枚の記録を風呂敷へ包み、普請奉行の詰所へ自分で運んだ。
「女が普請へ口を出すな」
「明日から飯炊きへ戻ります。その前に、殿のお城を一枚、お預けします」
詰所の板敷きには、夕餉の鯛の骨と冷めた味噌汁が残っていた。奉行は迷惑そうに箸を置いたが、焼けた十二枚と焼けなかった一枚を見ると、記録を最初から読み直した。夜更けに惣兵衛が呼び出され、翌朝、左官場へ新しい命が下った。
「漆喰は三日以上寝かせること。下塗りを省かぬこと。壁、軒裏、瓦の目地まで定めどおり塗り込めること」
工期は変えられなかった。その代わり、石運びから人足が二十人回され、石灰を仕込む桶が倍に増えた。左官場には三日先まで使う桶が並び、それぞれに、お志乃が書いた日付の札が立てられた。
「女を天守へ上げるとは書かれておらぬ」
惣兵衛は命書を三度読み、渋い顔でそう言った。お志乃は黙って父の腰から鏝を一本抜き取り、男物の脚絆を締め直した。奉行の命書の末尾には、試し塗りを行った者が仕上がりを確かめよ、とも書かれていた。
「飯炊きへ戻れとも書かれておりません」
お志乃は足場を上った。下では人足が蟻ほどの大きさになり、播磨の田畑は春の水を張った薄い鏡のように広がっている。風は強く、鏝板の白い漆喰が片側へ寄ったが、彼女は膝を柱へ押し当て、一度目の漆喰を軒裏へ薄く引いた。
木の筋が白く消えていった。乾きを待ってもう一度重ね、指の入らない瓦の隙間へは細い鏝で漆喰を押し込んだ。華やかな白さを作る仕事ではなく、火の通り道を一つずつ塞ぐ仕事だった。
「城というものは、偉いお方が造るのだと思っていました」
漆喰を運んできた若い人足が、軒の下から言った。彼の昼飯は粟飯と沢庵二切れで、竹の皮には米粒が三つだけ残っていた。お志乃は鏝の先を濡れ布で拭き、次の漆喰を受け取った。
「偉いお方は、造れとおっしゃいます。造るのは、手を動かした者です」
慶長十四年、姫山に大天守が立ち上がった。白漆喰は壁だけでなく、軒裏も瓦の目地も包み、連なる屋根を朝日に浮かび上がらせた。城下の者は、白鷺が羽を広げたようだと言って足を止めた。
お志乃は歓声の外で、使い終えた桶を川水で洗っていた。爪の間に入った白は何度こすっても落ちず、握り飯を持つ指まで粉を吹いている。父は天守を見上げてから、焼けなかった試し板を娘へ差し出した。
「お前の白だ」
「私のものではありません。石の白です」
石灰石は窯で焼かれ、水を与えられ、柔らかな漆喰になる。壁へ塗られたあとは、長い時間をかけて空気を取り込み、再び石へ近づいていく。お志乃は試し板の白い面を撫で、まだわずかに湿り気の残る指先を朝の風へさらした。
天守の白さを見た者は、殿の力を語るだろう。白鷺の美しさを歌にする者もいるだろう。それでも壁の内側には、石を焼いた者、水を運んだ者、藁を刻んだ者、糊を煮た者、鏝を握った者の手数が、数え切れないほど塗り重ねられている。
「父ちゃん、昼は何です」
「豆飯だ。今度は焦がしておらん」
お志乃は川辺にしゃがみ、包みを開いた。白い湯気の立つ豆飯を一口食べると、天守の軒先へ一羽の鷺が降りた。白鷺は石に戻りながら、四百年先の空を待ち始めていた。
※本作の職人、漆喰を三日寝かせる試験、配合をめぐる出来事は創作です。姫路城大天守は池田輝政による大改修で慶長十四年(一六〇九年)に完成し、壁、軒裏、瓦の目地などを白漆喰で塗り込めた外観で知られています。漆喰が消石灰を主原料とし、空気中の二酸化炭素と反応して硬化する性質については、[高知石灰工業の解説](https://www.kochi-sekkai.jp/daub)を参考にしました。




