第9話:偽りのバカンス
決行の日は、突き抜けるような青空だった。
私は朝の朝礼後、社長室に巌、麗子、敬介の三人を呼び出した。
「話ってなんだ? 忙しいんだぞ」
巌がふんぞり返って言う。
忙しいと言いながら、手には競馬新聞が握られている。
私は満面の笑みを浮かべ、封筒をデスクに置いた。
「お義父さん、お義母さん、それに敬介さん。今まで本当にありがとうございました」
「あ?」
「私がこの会社に来て半年。皆様のご指導のおかげで、売上は過去最高を更新しました。その感謝の気持ちとして……これを受け取ってください」
巌が怪訝そうに封筒を開ける。
中身を取り出した瞬間、その目が丸くなった。
「こ、これは……ハワイ行きの航空券!?」
「はい。しかもビジネスクラスです。ホテルはワイキキの五つ星、『ハレクラニ』のスイートをご用意しました」
事務所にどよめきが走った。
麗子が飛びついてチケットを確認する。
「まあっ! ハレクラニですって!? これ、全部会社の経費で行けるの?」
「もちろんです。利益は十分に出えていますから。たまには家族水入らずで、のんびり羽を伸ばしてきてください。一週間、仕事のことは忘れて」
私は甘い毒を皿に盛って差し出した。
彼らの反応は予想通りだった。
疑うことなど微塵もない。自分たちは「もてなされて当然」の存在だと思っているからだ。
「がはは! でかしたぞ冴子! やっと嫁としての役目を果たしたな!」
「ビジネスクラスなんて何年ぶりかしら。急いで準備しなきゃ!」
「冴子、お前は行かないのか?」
敬介がチケットを手に尋ねてきた。
私は殊勝に首を振る。
「私は留守番よ。誰かが会社を守らないといけないでしょう? それに、今はクリスマスの発注対応で現場が動いているから」
「そうかそうか。まあ、お前は働くのが好きだからな。俺たちの分までしっかり頼むぞ」
敬介は私の肩をポンと叩いた。
その手つきは、どこまでも能天気で、哀れだった。
三日後。
成田空港の出発ロビー。
ブランド物の服で着飾った三人は、大きなスーツケースを転がして現れた。
「じゃあな冴子。土産くらいは買ってきてやるよ」
「留守中のトラブルは全部お前が処理しろよ。俺の携帯には連絡するな」
「いってらっしゃいませ。楽しんできてくださいね」
私は彼らが保安検査場に消えるまで、深々と頭を下げ続けた。
姿が見えなくなった瞬間。
私は頭を上げ、張り付いていた笑顔を剥ぎ取った。
「……さようなら」
二度と、社長の椅子には座らせない。
私はスマホを取り出し、短縮ダイヤル1番をタップした。
「静香さん。――『荷物』が出荷されたわ。作戦開始よ」
工場に戻ると、そこには異様な光景が広がっていた。
大型トラックが三台、工場の入り口に横付けされている。
シャッターは全開になり、職人たちがテキパキと動き回っていた。
「社長、お帰りなさい!」
作業指揮を執っていた静香が駆け寄ってくる。
彼女は私をそう呼んだ。
まだ「株式会社NOVA」は登記前だが、ここにはもう古い体制は存在しない。
「状況は?」
「順調です。主要な革の在庫、特殊ミシン、そして作成済みの商品在庫……全て運び出し済みです」
「パソコンとサーバーは?」
「私が確保しました。バックアップも完璧です」
工場の中は、もぬけの殻になりつつあった。
残っているのは、リース切れの古いコピー機や、壊れた什器、そして山積みのゴミだけ。
価値あるもの――「技術」と「資産」は、すべてトラックの荷台の中だ。
「よし。全員、手を止めて!」
私が声を張り上げると、作業中の職人たち二十名全員が集まってきた。
田所さんを筆頭に、皆、不安と期待が入り混じった、しかし生き生きとした目をしている。
「みんな、聞いて。今、権田一家は日本を発ったわ」
おおっ、と歓声が上がる。
「これから私たちは、新しい工場へ移動する。そこは狭いかもしれないし、最初は苦労するかもしれない」
「……」
「でも、約束する。そこには理不尽な怒号も、搾取もない。あなたたちの技術が正当に評価される場所よ」
私は全員の顔を見渡した。
「ついてきてくれる?」
「おう!!」
力強い返事が工場に響いた。
私は頷き、静香に合図を送った。
「総員、撤収! 最後の一本まで針を残すな!」
トラックのエンジンがかかる。
私たちは、半世紀続いた『権田レザー』の歴史に終止符を打ち。
その骸を残して走り出した。
一週間後。
真っ黒に日焼けし、アロハシャツを着た三人が帰国した時。
彼らを迎えるのは「空っぽの城」と、労働基準監督署の査察官というサプライズゲストだ。
私の胸は、かつてないほどの高揚感に満ちていた。
さあ、ここからが本当の「ビジネス」の始まりだ。
第9話を読んでいただきありがとうございます!
ついに実行された「会社強奪」ならぬ「会社救出」作戦。
欲に目が眩んだ権田家をハワイへ送り出し、その隙にすべてを引き抜く。
エリート商社マンだった冴子ならではの、大胆かつ完璧な戦略です。
誰もいなくなった工場。後に残されたのはゴミと借金。
そして、ハワイの太陽の下で浮かれている三人の運命は……?
次回、第10話「審判の日」。
帰国した三人を待っていたのは、もぬけの殻となった工場。
絶望する彼らの前に、かつて「従順な嫁」だった冴子が最強の姿で現れます。
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