第8話:掌握と分断
秋風が吹き始めた十月。
私は工場の心臓部を、外科手術のように慎重に、かつ大胆に切り離す作業を進めていた。
「冴子さん、この新しいシステム、使い方がわかんないんだけど」
経理担当(名ばかり)の義母・麗子が、パソコン画面を指差して文句を言ってきた。
私は営業スマイルを張り付けて駆け寄る。
「すみません、お義母さん。セキュリティ強化のためにクラウド化したんです。最近は情報漏洩が怖いですからね。操作は全て私がやりますので、お義母さんは領収書を私に渡してくださるだけで結構ですよ」
「あらそう? 面倒なことが減るならいいけど」
麗子はあっさりと引き下がった。
彼女にとって重要なのは会社の金だけで、その管理方法になど興味はないのだ。
私は心の中で舌を出した。
これで、顧客リスト、取引先との契約データ、銀行口座のパスワード、Amazonの管理権限――。
すべてが私の手元に集約された。
現在、この会社のシステムにログインできるのは私一人。
私がパスワードを変更し、指一本動かすだけで、権田レザーは外部との通信手段を失い、完全に麻痺する。
(……まずは『脳』を頂いたわ)
私は誰にも聞こえない声で呟き、Enterキーを強く叩いた。
一方、工場内では静香が動いていた。
昼の休憩時間。工場の裏手にある喫煙所。
静香は、最年長のベテラン職人・田所に缶コーヒーを手渡した。
「田所さん。……話しておいた件、どうですか」
「ああ……」
田所は周囲を警戒しながら、作業着のポケットから小さく折り畳まれた紙を取り出した。
それは、静香が渡していた『NOVA』の雇用条件のメモだ。
彼は深く溜息をつき、タバコの煙を吐き出した。
「正直、夢みたいな話だと思ったよ。だがな……」
田所は工場の壁を見上げた。
「俺ももう六十だ。あと何年働けるかわからん。最後に一度くらい、社長の顔色じゃなく、客の顔を思い浮かべて仕事がしてえ」
彼は吸い殻を消すと、静香の目を真っ直ぐに見た。
「乗るよ、嬢ちゃん。……いや、槙野工場長」
「ありがとうございます」
静香は深く頭を下げた。
田所が動けば、彼を慕う中堅・若手も一気に傾く。
オセロの駒が、黒から白へと次々に裏返っていく音が聞こえるようだった。
しかし、順調に見えた計画に、思わぬ綻びが生じかけた。
その日の夕方。義母の麗子が、珍しく工場の中に入ってきたのだ。
彼女は鋭い目つきで、作業中の職人たちを見回した。
「……ねえ」
「はい、何でしょう?」
近くにいた私が応じると、麗子は訝しげに鼻をひくつかせた。
「なんか、空気が変じゃない?」
「変、と言いますと?」
「なんかこう……明るいっていうか。職人の連中、ニヤニヤしてない? まさか、仕事をサボって無駄話でもしてるんじゃないでしょうね」
ドキリとした。
職人たちは「未来への希望」を知ってしまったため、以前のような死んだ目をしていなかったのだ。
その微細な変化を、この女は動物的な勘で嗅ぎ取ったらしい。
悪党ほど、こういう勘は鋭い。
「槙野さん! ちょっと来なさい!」
麗子が金切り声を上げ、静香を呼びつけた。
静香がミシンの手を止め、無表情で近づいてくる。
「何ですか、副社長」
「あんたたち、何を企んでるの? 私の悪口でも言ってるんでしょ!」
「いえ、そんなことは……」
「嘘おっしゃい! 隠し事は許さないわよ!」
麗子が静香に詰め寄る。空気が凍りついた。
もしここで計画が露見すれば、すべてが水の泡だ。
静香が口籠る。
私は割って入った。
「お義母さん! 違うんです、彼らが浮き足立っているのは、私のせいです」
「あんたの?」
「はい。実は……」
私は声を潜め、麗子の耳元で囁いた。
「来月のボーナス、少し弾んであげようかと思って。彼らのやる気を出させて、年末商戦でもっと稼ぐために」
「はあ? また無駄金を……」
「その分、売上目標を二倍に設定しました。それを達成すれば、お義母さんたちの役員報酬も……今の三倍は確実ですよ」
――三倍。
その単語が出た瞬間、麗子の目から猜疑心の色が消え、欲望の色が宿った。
「さ、三倍……? 本当に?」
「ええ。そのために、彼らには『死ぬ気で働け』と発破をかけたところなんです。だから皆、興奮しているんですよ」
麗子はコロッと表情を変え、ほうっと息を吐いた。
「なーんだ、そういうこと。冴子さんも商売上手ねえ」
「すべては、権田家のためですから」
麗子は上機嫌で事務所へ戻っていった。
その後ろ姿を見送り、私は大きく息を吐いた。冷や汗でブラウスが背中に張り付いている。
静香と目が合った。彼女は小さく頷き、またミシンへと戻っていった。
危なかった。だが、これで確信した。
彼らの目は「金」でしか曇らせられない。
ならば、その習性を利用して、最後の一手を打つ。
私はスマホのカレンダーを開いた。
Xデーまで、あと二週間。
彼らをこの工場から遠ざける、完璧な「罠」を仕掛ける時が来た。
第8話を読んでいただきありがとうございます!
麗子の鋭い勘を「三倍の役員報酬」という餌で切り抜けた冴子。
欲に目が眩んだ人間ほど、扱いやすいものはありません。
システムを掌握し、ベテラン職人の信頼も得た。
役者は揃いました。
次回、第9話「偽りのバカンス」。
冴子が仕掛ける最後にして最大の罠。
それは、権田家全員への「ハワイ旅行のプレゼント」でした。
空港で見送る冴子の完璧な笑顔。その裏で、トラックが工場の荷物を運び出し始めます……!
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