第6話:黒い帳簿
静香の怪我から数週間。
私は「良き嫁」を完璧に演じていた。
「お義母さん、肩お揉みしましょうか?」
「あら、気が利くわねえ直。頼むわ」
「社長、コーヒーが入りました。砂糖とミルク、多めですね」
「おう。最近のお前は殊勝でいいな。最初からそうやって可愛げがありゃあいいんだ」
事務所の空気は緩みきっていた。
私が反抗的な態度を捨て、雑用も文句ひとつ言わずにこなすようになったことで。
巌も麗子も完全に気を許していた。
彼らは私が「諦めた」のだと思っている。
工場の理不尽なルールに屈し、権田家の家来になったのだと。
――馬鹿な人たち。
私が大人しくなったのは、あなたたちの喉元にナイフを突きつける準備に集中するためよ。
九月下旬の深夜。
決算期が近づき、私は「経理の整理が追いつかない」という理由で、事務所に一人残っていた。
工場は暗く、静まり返っている。
聞こえるのは虫の音と、私のタイピング音だけだ。
「……さて」
私はゴム手袋をはめ、社長の机へと向かった。
鍵のかかった引き出し。
だが、鍵のありかはとっくに把握している。
巌はいつも、デスクの裏側にマグネットで貼り付けているのだ。あまりにも杜撰なセキュリティ。
カチリ、と小さな音がして引き出しが開く。
そこには、表向きの会計ソフトには入力されていない、紙のノートが数冊隠されていた。
表紙には『裏』とだけ書かれている。
ページをめくる。
私の目は冷たく、その数字を追っていった。
「……やっぱりね」
そこにあったのは、脱税と横領の証拠の山だった。
働いてもいない親戚の名義で支払われる架空の人件費。
『材料仕入高』の水増し。
高級クラブの領収書や、麗子のブランドバッグ購入費、ハワイ旅行の代金がすべて『交際費』として計上されている。
その一方で、職人たちの残業代はカットされ、空調の修理費は「予算不足」で却下されている。
この裏帳簿の金額を合わせれば、数千万円単位の金が会社から抜かれ、権田家の私腹を肥やすために消えていた。
「これなら、一発でアウトね」
私はスマホを取り出し、全てのページを撮影した。
さらに、銀行口座の入出金記録と照らし合わせ、データの裏付けを取っていく。
完璧だ。税務署どころか、警察が動くレベルの背任行為。
作業を終え、全てを元通りに戻した時。
事務所のドアが開いた。
「ん? 冴子、まだいたのか」
夫の敬介だった。
飲み会帰りなのか、酒臭い息を吐きながら入ってくる。
私は一瞬だけ思考を巡らせ、彼に向き直った。
これが、最後だ。
彼が「夫」として、あるいは「人間」として、まだ救う価値があるのかどうか。
最後のチャンスを与える。
「敬介、ちょうどよかった。少し話せる?」
「ああん? 今から帰って寝ようと思ってたのに」
「大事な話よ。……会社の経理のこと」
私は深刻な表情を作り、彼に歩み寄った。
「私、見てしまったの。お義父さんの机にあった帳簿を」
「はあ!? お前、親父の机を漁ったのか!?」
「怒らないで聞いて。あんなデタラメな経理、いつか必ずバレるわ。そうしたら、追徴課税だけじゃ済まない。横領で逮捕されるかもしれないのよ」
敬介の顔色がさっと変わった。
しかし、それは反省の色ではなく、保身の色だった。
「お前……誰かに言ったのか?」
「まだ誰にも。だから相談してるの。今からでも遅くない。修正申告をして、お義父さんを説得して、正しい経営に戻しましょう? 私が手伝うから」
私は彼の手を握った。
もし、彼がここで「わかった、一緒に親父を止めよう」と言ってくれたなら。
そうすれば、彼だけは助けてあげてもいいと思っていた。
しかし、敬介は私の手を乱暴に振り払った。
「馬鹿なこと言うな! 修正申告なんてしたら、金がかかるだろうが!」
「でも、犯罪なのよ!?」
「うるさい! 親父はもう三十年もこれでやってきたんだ! 税理士だって丸め込んでる、バレるわけがないんだよ!」
敬介は苛立ちを隠そうともせず、私を睨みつけた。
「いいか、冴子。余計な正義感は捨てろ。俺たちはこの『仕組み』のおかげで飯が食えてるんだ。お前だって、その恩恵を受けてるんだぞ」
「……恩恵?」
「そうだ。社長一族っていうのはな、会社の金を好きに使っていい特権があるんだよ。お前も堅苦しいこと言ってないで、経費で美味いもんでも食えばいいだろ」
彼は吐き捨てるように言うと、ふらつく足取りで出口へと向かった。
「今日のことは聞かなかったことにしてやる。二度と親父の机には触るなよ」
バタン、とドアが閉まる。
静寂が戻った事務所に、私は一人取り残された。
――ああ、そう。
――あなたは、そっち側なのね。
失望すら通り越して、乾いた笑いが込み上げてきた。
彼は被害者などではなかった。父親と同じ、腐った果実だ。
自分では何も生み出さず、他人が汗水垂らして作った蜜を吸うことしか能がない。
私はスマホを取り出し、静香へのメッセージ画面を開いた。
『証拠は確保したわ。いつでも動ける』
送信ボタンを押す。
これで、迷いは消えた。
情けも容赦も必要ない。
彼らは「家族」ではない。排除すべき「害虫」だ。
私はカバンを手に取り、事務所の電気を消した。
暗闇の中で、私の口元には冷ややかな笑みが張り付いていた。
さようなら、権田敬介。
次にあなたが私の本性を見る時、それはあなたが全てを失う時よ。
第6話を読んでいただきありがとうございます!
暴かれた裏帳簿。そして、救いようのない夫・敬介の裏切り。
冴子はついに「家族」としての絆を自ら断ち切りました。
もう彼女を縛るものは何もありません。
復讐の歯車は、凄まじい速度で回り始めます。
次回、第7話「地下室の盟約」。
深夜の工場で密かに交わされる、冴子と静香の「新しい会社」への誓い。
ついに革命のグランドデザインが明かされます。
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