第5話:血塗られたミシン
夏の本番を迎えた工場は、蒸し風呂のような熱気に包まれていた。
Amazonのセール期間と重なり、注文数は過去最高を記録。
しかし、それは現場への過酷な負担を意味していた。
壊れた空調は直されないまま、扇風機が生温かい風をかき回しているだけ。
職人たちの顔には疲労の色が濃く滲み、目の下に隈を作りながら、それでも黙々とミシンを踏み続けている。
「……もう少しだ、頑張ろう」
誰かの掠れた声が聞こえる。
私は事務所から氷水や塩飴を差し入れることしかできない自分の無力さに、歯痒さを感じていた。
利益はあるのだ。
本来なら、彼らを休ませ、人員を増やし、設備を整えるだけの金が。
その金はすべて、社長室の金庫と、義父母の懐に消えている。
その時だった。
「きゃあああああっ!」
悲鳴が、工場の騒音を切り裂いた。
心臓が跳ね上がる。
私は手にした書類を放り出し、工場へと駆け込んだ。
「どうしたの!?」
人だかりの中心で、槙野静香がうずくまっていた。
彼女が押さえた左手から、鮮血が溢れ出し、床にポタポタと赤い染みを作っている。
厚手の革を縫うための工業用ミシンの針が、彼女の指を貫いたのだ。
「タオル! 誰かタオルを持ってきて! 止血して!」
私は叫びながら静香に駆け寄った。
彼女の顔は蒼白で、脂汗が滲んでいる。
常に冷静沈着な彼女が、痛みと恐怖で震えている。
その姿に、私の怒りの導火線に火がついた。
「病院へ行くわよ! 私の車で!」
私が静香の肩を抱き起こそうとした時、背後から怒鳴り声が飛んできた。
「おい! 何やってんだ、仕事止めんじゃねえぞ!」
巌だった。
彼は血溜まりを見ても眉一つ動かさず、むしろ床が汚れたことに舌打ちをした。
「チッ、不注意な奴だな。商品に血が付いてねえだろうな?」
「お義父さん! 指を怪我してるんです! すぐ病院へ行かないと!」
「ああ? 大げさなんだよ。絆創膏でも貼っときゃ治るだろ」
「神経が切れてたらどうするんですか! 職人の命ですよ!」
私が喰ってかかると、巌は面倒くさそうに手を振った。
「わかったわかった、連れて行け。……ただし」
巌は私の目を睨みつけ、低い声で釘を刺した。
「『労災』は使うなよ」
「……は?」
「仕事中の怪我なんて言ったら、労基がうるせえし、保険料も上がる。健康保険を使わせろ。『家で料理中に包丁で切った』ことにしろ」
目の前が真っ赤に染まるような感覚を覚えた。
この男は、悪魔だ。
長年会社を支えてきたエース職人が大怪我をしたというのに、心配するどころか、保身と金のことしか考えていない。
「……ふざけないでください。これは業務上の災害です」
「社長命令だ! 逆らうなら、その女をクビにするぞ!」
静香がビクリと体を震わせた。
彼女は痛みに耐えながら、か細い声で私に囁いた。
「……いいです。従ってください。クビになったら、生活が……」
その言葉に、私は唇を噛み切るほど強く閉じた。
今ここで巌と喧嘩しても、静香の治療が遅れるだけだ。
そして、彼女を守ることもできない。
「……わかりました」
私は殺気を押し殺し、静香を支えて立ち上がった。
「私が責任を持って処置させます」
病院の待合室。
緊急処置を終えた静香が出てきた。左手は分厚い包帯で巻かれている。
幸い、骨と神経に異常はなかったが、全治二週間の診断だった。
治療費は、私が全額立て替えた。「料理中の怪我」という偽りの申告をして。
帰りの車中。重苦しい沈黙が流れていた。
助手席の静香は、包帯を巻かれた自分の手をじっと見つめている。
「……すみませんでした。私の不注意です」
「謝らないで。悪いのは環境よ。あんな暑さの中で、休憩もなしに働かされれば、誰だってミスをするわ」
私はハンドルを握りしめたまま言った。
怒りで手が震えそうになるのを必死に抑える。
「槙野さん。……悔しくないの?」
「……」
「労災隠しは犯罪よ。あんな扱いを受けて、黙っているつもり?」
信号待ちで停車し、彼女の方を見る。
静香は窓の外に視線を逸らし、自嘲気味に笑った。
「悔しいですよ。……でも、どうしようもないんです。私たちはここでしか働けない。社長に逆らえば、この業界で生きていけないように噂を流される」
それが、この閉鎖的な工場の現実だった。
恐怖による支配。
彼らは職人たちの「革が好きだ」という純粋な想いを人質に取り、搾取し続けてきたのだ。
「……なら、場所を変えればいい」
私の口から、言葉がこぼれ落ちた。
「え?」
「この会社は、もう終わりよ。私が終わらせる」
静香が驚いたように私を見る。
私は前を見据え、アクセルを踏み込んだ。もう迷いはない。
「槙野さん。あなたのその技術、そして他の職人たちの腕。……私に預けてくれない?」
「どういう、ことですか?」
「新しい場所を作るの。誰も搾取されない、正当に評価される場所を。そのために――まずはこの腐った『権田レザー』を、内側から解体する」
バックミラー越しに、私の目が冷たく光っているのが見えた。
静香はしばらく私の横顔を見つめていたが、やがて小さく、けれど力強く頷いた。
「……賭けても、いいんですか。あなたに」
「ええ。必ず勝たせるわ」
車は工場へと戻っていく。
しかし、戻るのは「従順な嫁」と「ただの職人」ではない。
私たちは今、共犯者となった。
第5話を読んでいただきありがとうございます!
職人の指を「道具」としか思わない巌の非道。
ついに冴子は、静香に「反逆の計画」を打ち明けました。
壊すだけじゃない。守るべきものを守るための、孤独な戦争。
冴子と静香、二人の女性の「共犯」がここから始まります。
次回、第6話「黒い帳簿」。
冴子は「従順な嫁」の仮面を被りながら、権田家の急所を突くための「決定的な証拠」を探し始めます。
深夜の事務所で彼女が見つけた、信じがたい汚職の数々とは……?
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