第3話:孤独な改革
翌日、私は自腹で購入した最新のノートパソコンと、ポケットWi-Fiを事務所に持ち込んだ。
埃まみれの長机を雑巾で拭き清め、自分だけの「司令室」を構築する。
「……よし」
起動音とともに画面が光る。
それだけで、少しだけ理性が戻ってくる気がした。
私はまず、工場の在庫リストのデジタル化に着手した。
段ボールに突っ込まれていた手書きの帳簿を一枚一枚めくり、エクセルに入力していく。
単純作業だが、これをしないとスタートラインにも立てない。
「おい冴子、お茶だ。濃いめな」
作業に集中し始めた矢先、社長席から巌の声が飛んできた。
私はキーボードを打つ手を止め、深呼吸を一つしてから立ち上がる。
「はい、ただいま」
急須にお湯を注ぐ。
商社時代、私の時給は数万円換算だったはずだが、今はただの「お茶汲み係」だ。
お茶を出すと、今度は隣の麗子が口を開く。
「冴子さん、ついでにお昼のお弁当買ってきてくれない? いつもの特のりタル弁当ね。あ、敬介の分も」
「……わかりました」
私は財布を手に、事務所を出た。
背後で「やっぱり嫁が来ると楽でいいな」という巌の笑い声が聞こえ、奥歯が砕けそうになるほど噛み締めた。
屈辱的だ。
だが、今は耐える。
彼らが私を「便利な家政婦」として油断している間に、私は会社の心臓部を掌握する。
昼食後、私はカメラを片手に工場へと向かった。
Amazonへの出店と、自社サイトの開設準備のためだ。
商品の魅力が伝わる写真が不可欠だった。
「邪魔だよ、そこ危ないぞ」
職人の一人が迷惑そうに言った。
彼らにとって私は、社長の息子の嫁であり、現場をうろつく異物でしかない。
冷ややかな視線が突き刺さる。
「すみません、すぐに済みますので」
私は工場の隅にある作業台を借り、持参した白い布を敷いた。
そこに、あのトートバッグを置く。
窓から差し込む自然光を利用し、レフ板代わりに白い画用紙を立てる。
ファインダーを覗くと、革の光沢が生き物のように浮かび上がった。
(やっぱり、いい)
細部の縫製、金具の質感。
見れば見るほど惚れ惚れする。
私はバッグの持ち手の角度をミリ単位で調整し、革の表情が一番美しく見える瞬間を探してシャッターを切った。
「……何してんだ、そんなところで」
突然の声に顔を上げると、夫の敬介が立っていた。
彼は私の手元のカメラとパソコンを見て、呆れたように鼻を鳴らした。
「まだそんなことやってるのか? 親父が言ってたぞ。『ネットで革が売れるわけがない、客は手触りで買うんだ』って」
「それは昔の常識よ。今は写真と説明文で、十分に魅力は伝わる」
「無駄な努力だって。それより、母さんが肩揉んでくれって言ってるぞ。機嫌取っておいた方がいいんじゃないか?」
敬介は「お前のためを思って言っている」という顔をしている。
この人は、私が何のためにここにいるのか、本当に理解していないのだ。
救いようのない思考停止。
「……後で行くわ」
「頼むよ。俺の立場も考えてくれ」
敬介が去っていく。
私はため息をつき、再びカメラを構えようとした。
その時、視線を感じた。
数メートル先のミシン台。
槙野静香が手を止め、じっとこちらを見ていた。
また「邪魔だ」と言われるのかと身構える。
しかし、彼女の視線は私ではなく、私が撮影台に置いたバッグに向けられていた。
私は撮影を終えると、バッグを白い布で丁寧に包み、元の場所へ戻しに行った。
静香の作業台の横を通る際、彼女が小さく口を開いた。
「……もっと、雑に扱うかと思ってました」
「え?」
「ここの経営陣は、完成した商品を地べたに置いたり、タバコの煙がかかっても気にしない人たちだから」
静香はミシンに視線を戻しながら、独り言のように続けた。
「あんたは、商品を『子供』みたいに扱ってた。……それだけです」
それだけ言うと、彼女は再びミシンを踏み始めた。
ダダダダ、と軽快な音が会話を遮断する。
私は少しだけ胸が温かくなるのを感じた。
認めてもらえたわけではない。
だが、少なくとも「敵」ではないと認識されたかもしれない。
その夜。
私は自宅のリビングで、完成したばかりのAmazonストアのページを眺めていた。
プロのカメラマンには及ばないが、商品の重厚感と繊細さは表現できているはずだ。
商品説明文も、商社時代に培ったコピーライティングの技術を総動員して書き上げた。
『創業五十年。日本の職人が紡ぐ、一生モノの革製品』
公開ボタンをクリックする。
世界に向けて、小さな扉が開いた瞬間だった。
「何ニヤニヤしてるの?」
「うわ、地味な画面」
背後から、大学から帰ってきた長男と、塾帰りの長女が覗き込んできた。
彼らは私が会社を辞めた本当の理由を知らない。
「これ、お母さんが売るの?」
「そうよ。すごくいい商品なの」
「ふーん。ま、頑張れば?」
子供たちの反応は薄いが、それでもいい。
彼らの何気ない日常と未来を守るためなら、私はどんな泥水でも啜ってみせる。
翌朝。
出社してパソコンを開いた私は、驚愕に目を見開いた。
注文管理画面に、数字が表示されていたのだ。
――注文数:3件。
たった3件。
しかし、宣伝もしていない、無名のブランドが、一晩で売れたのだ。
私は震える手でマウスを握りしめた。
いける。
この光は、絶対に本物だ。
第3話を読んでいただきありがとうございます!
事務所では「便利な家政婦」扱いをされながらも、着々とデジタル化を進める冴子。
職人・静香の言葉が、孤独な戦いの中での小さな救いとなりました。
そして、ついに売れた「3個のバッグ」。
それは、権田レザーが世界へと踏み出す小さな、けれど確かな一歩です。
次回、第4話「搾取の構造」。
売上が上がれば、すべて解決する――。
そう信じていた冴子の前に、権田家の「底知れぬ強欲」が立ちはだかります。
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