第2話:職人の聖域、経営の墓場
その日、私は人生で初めて「後悔」という二文字を噛み締めていた。
埼玉県郊外。
駅からバスで二十分ほどの工業団地の一角に、『権田レザー』の工場はある。
錆びついたトタン屋根、塗装の剥げた社名看板。
建物の入り口には吸い殻が散乱し、どこか饐えた臭いが漂っている。
丸の内のガラス張りのオフィスから、わずか一ヶ月。
私の新しい職場は、まるで昭和の時代で時計の針が止まったままのようだった。
「……おはようございます」
事務所の重い鉄扉を開ける。
そこは「カオス」だった。
書類の山がデスクを占拠し、足の踏み場もない。
黄ばんだ壁紙はタバコのヤニで汚れ、換気扇が悲鳴のような音を立てて回っている。
「おう、来たか。遅かったじゃねえか」
奥の席で新聞を広げていた男が、私を一瞥した。
義父であり、この会社の社長、権田巌だ。
七十二歳。
頑固を絵に描いたような顔つきで、口には安物のタバコを咥えている。
「始業は九時からと聞いていますが。今は八時五十分です」
「新入りのくせに口答えすんじゃねえ! 嫁に来たんなら、朝一番に来てお茶くらい入れろ!」
巌の怒声が狭い事務所に響く。
私は眉間を揉みたい衝動を抑え、冷静に切り返した。
「お義父さん、私はお茶汲みに来たのではありません。経営再建のために来たんです。まずは現状把握をしたいので、直近三年の決算書と、パソコンを使わせてください」
「パソコンだあ?」
巌は鼻で笑い、乱雑に積まれた書類の山を顎でしゃくった。
「そんなモンねえよ。ウチは全部手書きだ。帳簿はその辺の段ボールに入ってるから、勝手に探せ」
「……は?」
絶句した。
従業員二十名規模の会社で、経理も在庫管理もすべて手書き?
それではリアルタイムの数字など把握できるはずがない。
経営危機に陥るのも当然だ。
「それと、お前の席はそこだ」
指差されたのは、入り口近くのパイプ椅子と、物置になりかけている長机の端っこだった。
隣の席では、義母の麗子が煎餅を齧りながらワイドショーを眺めている。
「あら、冴子さん。お昼ご飯の注文、まだ?」と、悪びれもせずに言ってくる。
目眩がした。
ここは会社ではない。
ただの「権田家のリビング」だ。公私混同というレベルを超えている。
夫の敬介を見ると、彼は父親の威圧に縮こまり、私と目を合わせようともしない。
(……帰りたい)
本気でそう思った。こんな場所で何ができるというのか。
だが、その時だった。
事務所の奥、工場へと続く扉が開いた。
「社長、A社の納期についてですが」
入ってきたのは、作業着姿の女性だった。
年齢は私と同じくらいだろうか。
髪を後ろで一つに束ね、化粧っ気はないが、その瞳は鋭く澄んでいる。
彼女は私を一瞬だけ見ると、すぐに興味を失ったように巌へと向き直った。
「うるせえな! 間に合わせろって言っとけ! 職人なら気合いで縫え!」
「……わかりました」
彼女は表情一つ変えず、淡々と頭を下げて戻っていく。
その手に握られた製品に、私の視線が釘付けになった。
「待ってください」
私は思わず呼び止め、彼女の後を追って工場エリアへと足を踏み入れた。
事務所の淀んだ空気とは対照的に、そこは張り詰めた緊張感に満ちていた。
革の独特な匂い。ミシンの駆動音。革を裁断する小気味良い音。
十数名の職人たちが、黙々と作業に打ち込んでいる。
先ほどの女性――槙野静香が、ミシンの前に座り、革の端切れを縫い合わせていた。
「あの、それ……見せてもらってもいいですか?」
静香は不審そうに私を見たが、無言で作りかけのトートバッグを手渡してくれた。
私は息を呑んだ。
美しい。
革のなめし具合、均一で狂いのないステッチ、コバ(革の断面)の滑らかな処理。
ハイブランドの製品と比べても遜色がない、いや、それ以上の温かみと品格がある。
「すごい……。これ、あなたが作ったの?」
「……全員で作ってます。私は仕上げを担当しているだけです」
静香は素っ気なく答えたが、その手つきには製品への深い愛情と誇りが滲んでいた。
私は工場内を見渡した。
ボロボロの設備、冷暖房も効かない過酷な環境。
けれど、ここには「本物」があった。
経営陣が腐りきっていても、現場の職人たちは、必死にこの技術を守り抜いていたのだ。
(もったいない……!)
怒りにも似た感情が湧き上がってくる。
これだけの技術があれば、適切なブランディングと販路さえあれば、世界で戦える。
それを、あの前時代的な経営陣が殺しているのだ。
私はバッグを静香に返すと、彼女の目を真っ直ぐに見つめた。
「槙野さん、と言いましたね。この技術、絶対に無駄にはしません」
静香は怪訝そうな顔をしただけで、何も答えなかった。
けれど、私は決めた。
この泥舟は沈没寸前だ。
だが、この積み荷――職人たちの技術という「原石」だけは、何としても救い出し、磨き上げなければならない。
事務所に戻った私は、パイプ椅子にドカリと座り、スマホを取り出した。
「おい、仕事中に携帯なんか――」
「パソコンは自腹で買います。会計ソフトも導入します」
私は巌の言葉を遮り、冷徹な声で言い放った。
「文句は言わせません。会社を潰したくなければ、私のやり方に従ってもらいます」
戦いのゴングは鳴った。
敵は社外にはいない。
すぐ隣の席に座る、この無能な経営者たちだ。
第2話を読んでいただきありがとうございます!
饐えた臭いの漂う事務所に、手書きの帳簿。
エリート街道を歩んできた冴子にとって、そこはあまりにも絶望的な環境でした。
ですが、工場の奥で見つけた「本物の技術」。
それこそが、冴子が反撃を開始するための唯一にして最強の武器となります。
次回、第3話「孤独な改革」。
孤立無援のなか、冴子は自腹で持ち込んだパソコン一台で「革命」を仕掛けます。
職人たちの冷ややかな視線を、彼女はどう変えていくのか?
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