第1話:傾く天秤
大手商社の部長という輝かしいキャリアを捨て、無能な夫と義父母が経営する「地獄の町工場」に飛び込んでしまった女性・冴子の物語です。
――「嫁ならタダで働け」
――「職人は使い捨ての道具だ」
そんな言葉が飛び交う理不尽な環境で、彼女がいかにして牙を研ぎ、すべてを奪い返すのか。
本日、全14話を一挙公開いたしました。
最後までノンストップでスカッとする結末をご用意しておりますので、ぜひ一気に駆け抜けていただければ幸いです!
「相沢部長、例の合併案件、先方が条件を受け入れました」
部下の弾んだ声が、静まり返ったフロアに響く。
私は手元の資料から視線を上げ、小さく息を吐いた。
「そう。粘った甲斐があったわね。契約書のリーガルチェック、今日中に回しておいて」
「はい! ありがとうございます!」
部下が小走りで去っていくのを見送りながら、私は窓の外に広がる東京・丸の内の夜景を見下ろした。
相沢冴子、四十五歳。
大手商社の管理職として、キャリアは順風満帆。
年収は同世代の平均を大きく上回り、社内での評価も揺るぎない。
合理的で無駄を嫌う私の性格は、この殺伐としたビジネスの世界には向いていたらしい。
(……今日は、早めに帰ろうか)
スマホを取り出し、夫の権田敬介にメッセージを送る。
『今日は外で食べましょう。いつもの店を予約しておくわ』。
既読はすぐについた。
しかし、返信のスタンプ一つ送られてこない。
最近、敬介の様子がおかしい。
私の実家ではなく、彼の実家である『権田レザー』の役員に名を連ねているはずだが、帰宅すると常に疲れ果て、何かに怯えているような目をしている。
あの時の私は、まだ知らなかったのだ。
この安寧とした生活が、音を立てて崩れ去る寸前だということに。
そして、愛する家族だと信じていた者たちが、私を食い潰そうと口を開けて待っている化け物だということに。
馴染みのイタリアンレストラン。
本来なら会話と食事を楽しむはずの席で、敬介は水を何杯もあおり、落ち着きなく指を組み合わせていた。
「それで、話って何?」
私が単刀直入に切り出すと、敬介はビクリと肩を震わせた。
彼は私の一つ年上で、四十六歳。決して悪い人ではない。
ただ、優柔不断で、物事を決めるのが極端に苦手だ。
結婚して二十年、家庭内の重要な決定はすべて私が下してきた。
「冴子……その、俺、もう無理なんだ」
「無理って、何が?」
「親父だよ……社長だ。毎日毎日、売上が悪いのはお前のせいだ、役立たずだって怒鳴られて……」
敬介が顔を覆う。
彼の実家『権田レザー』は、創業五十年続く皮革製品の工場だ。
かつては羽振りが良かったらしいが、ここ数年は業績悪化の噂しか聞かない。
「資金繰りが限界なんだ。銀行も追加融資を渋ってる。このままじゃ、倒産する」
「……そう。それは残念だけど、あなたは専務でしょう? 経営計画を見直すとか、コストカットを提案するとか――」
「やったよ! でも親父は聞く耳持たないんだ!」
敬介がテーブルを叩くような勢いで叫び、周囲の客が驚いてこちらを見た。
彼は慌てて声を潜め、テーブル越しに私の手を握りしめた。
その手は、冷たく湿っていた。
「冴子、頼む。お前の力が欲しいんだ」
「私の?」
「お前ならできるだろ? あの大手商社で部長まで上り詰めた手腕があれば、ウチの会社だって立て直せる。親父だって、実績のあるお前の言うことなら聞くはずだ」
私は眉をひそめた。
泥舟に乗れと言っているのと同じだ。
私の現在の年収、地位、そして積み上げてきたキャリア。
それらを捨てて、傾きかけた町工場へ行けと?
論理的に考えれば、答えは「NO」一択だ。リスクが高すぎる。
「敬介、それは無理よ。私にも今の仕事があるし、それに――」
「じゃあ、子供たちはどうなるんだ!?」
敬介の言葉に、私は口をつぐんだ。
私たちには二人の子供がいる。
長男は私立大学の理系学部、長女も来年は受験を控えている。
一番お金がかかる時期だ。
「会社が倒産したら、俺には借金だけが残る。実家の連帯保証人になってるんだ……。家も差し押さえられるかもしれない。子供たちの学費だって払えなくなる」
「連帯保証人……? そんな大事なこと、なんで相談しなかったの!」
「言えなかったんだよ……!」
敬介が泣き崩れる。情けない男だと思った。
でも、それ以上に胸を締め付けたのは、家族への責任感と愛情だった。
私が今のキャリアを維持しても、夫が破産すれば家庭は崩壊する。
子供たちの未来を守るためには、この問題を根本から解決するしかない。
『権田レザー』には、まだ技術力はあると聞いている。
私の経営ノウハウを注入すれば、再建の可能性はゼロではないはずだ。
(……私が、やるしかないのか)
冷徹な計算機である私の脳が、初めてエラーを起こした。
目の前で泣きじゃくる夫と、その背後にいる義父母の生活、そして子供たちの未来。
それらを天秤にかけ、私は「合理性」ではなく「情」を選んでしまった。
「……わかったわ」
短く答えると、敬介は顔を上げ、救世主を見るような目で私を見た。
「本当か!? ありがとう、冴子! お前なら絶対にできる、俺たちは救われるんだ!」
翌月。私は会社に辞表を提出した。
上司には強く慰留され、同僚からは「正気か」と呆れられた。
それでも、私の決意は変わらなかった。
オフィスの荷物をまとめ、エレベーターホールへ向かう。
ガラスに映る自分を見る。ハイヒールに仕立ての良いスーツ。
この姿も今日で見納めかもしれない。
明日からは、工場の作業着に袖を通すことになる。
「待ってて。私が必ず、立て直してみせる」
自分自身に言い聞かせるように呟き、私は輝かしいキャリアに背を向けた。
その先に待っているのが、感謝や賞賛ではなく。
地獄のような裏切りと搾取の日々だとは、露ほども疑わずに。
第1話を最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
情に流されてキャリアを捨ててしまった冴子。彼女を待ち受けているのは、丸の内のオフィスとは正反対の、饐えた臭いの漂うボロボロの工場でした。
次回、第2話「職人の聖域、経営の墓場」。
ついに義父の暴挙と、最悪の職場環境が牙を剥きます。しかし、そこで冴子が出会ったのは……。
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それでは、第2話でお会いしましょう。




