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俺、三雲律月の人生において、何も不自由はなかった。
会社では人に恵まれ、忙しいながらもやり甲斐を持って働いている。
私生活でも、好きな漫画やアニメを観たり、買い物に出かけたり。
恋人こそいないが、気の許せる友人もいるし、家族との仲も良い。
傍から見れば、これ以上に幸せな人生はないだろう。俺自身も、大きな変化はないが楽しい人生を送っていると思う。
「おやすみ」
返事は返ってこないが、観葉植物に声をかけてからベッドに入る。
"いつも通り"だった。少し虚しい気持ちになりつつも、毎日の日課である、寝る前の観葉植物への挨拶。
眠りについて、また朝が来て。眠たい目を擦りながら何とか体を起こして、朝飯を食べる。それで急いで着替えて会社に向かって……
そんな毎日が続くはずだった。
___目が覚めると、知らない場所にいた。
見覚えのない天井。普段より少し硬めのベッド。
いつもデスクに置いてあるパソコンやゲーム機、本棚にある大量の漫画や、物を詰め込んでいるクローゼットは見当たらない。
代わりにあるのは、木目調のシンプルな机と椅子。それと、持ち運びできるランプのみ。
「……どこなんだ、ここ」
異世界系漫画にでも出てきそうな造りの部屋。俺の部屋ではないことは確かだ。
一瞬、夢か?と考えたが、すぐに辞めた。
俺の経験上、ここがもし夢の世界であった場合、まず夢であることを疑わない。この世界が"当たり前"だと錯覚する。
この世界に違和感を持っているのが何よりの証拠だ。
……では、ここは一体何なのか?
一応焦っているというか、この状況に驚いてはいるのだが、それ以上に自分がこの事態を冷静に分析しているのが怖い。
「律月って冷静だよね」なんて、生まれてこの方一度も言われたことないのだが。
悩んでいても仕方がないので、とりあえずこの部屋を出ることにした。
ギィ、と少し軋む音を立ててドアを開ける。
部屋を出てすぐ目の前に階段が見えたので、どうやらここは二階なのだろう。
「(もし、他に誰かがいたらどうしよう)」
そんな考えが頭をよぎり、静かに階段を下り始める。
耳を澄ましてみたが、どうやら人の気配がない。
時間は分からないが、窓の外を見る限り夜ではないだろう。
人の気配がないということは、この家には俺一人しかいないのか?
少し安堵し、リビングに繋がっていそうなドアを開ける。
ガチャ
「…………え、」
ドアを開けて目に入った光景に、俺は絶句した。
「な、なんなんだよ、これ……」
心臓が速く波打つのが分かる。
こういう時「冷や汗をかく」なんてよく言うが、比喩表現だと思っていた。いや、実際に冷や汗をかくことがあったとしても、大抵は物語の中での表現の一つでしかないと考えていた。
今、俺は冷や汗をかいている。人生で初めて。
ツー、と自分の頬を伝う汗に少しの戸惑いと驚きを感じている。
「……き、聞いてねぇよ、人が死んでる、なんて」
目の前で人が血を流して倒れている。腹の辺りから大量の血が流れ出ているようだ。顔はよく見えないが、全身損傷が激しい。
「い、いや、まだ、息がある、かも」
恐る恐る、倒れている人に近づく。
呼吸をしているか確認するため、顔に触れた。
「は……、」
雷が落ちたような感覚。何かがカチッと合わさったような感覚。
見たことがある。この人物を俺はずっと前から知ってる。
___セイン・モユニス。俺が好きな漫画の主人公であり、俺の推し。
この瞬間、俺は嫌でも理解した。
夢ではない世界。漫画の登場人物が都合よく出てくる世界。ちゃんと人の体温を感じられる世界。
こういうのは、人生に疲れた社畜の人が、トラックに轢かれたのをきっかけにするもんだと思っていた。
それか乙女ゲームをやっている人。
生憎、俺はどちらにも当てはまらない。
だから、ここは漫画の世界で、俺はその世界に転生してしまったのかもしれない、なんて誰が想像できるだろうか。
「は、はは……え?」
立ち上がると少し目眩がし、テーブルに手をつく。
信じられない。まさかここが漫画の世界で、目の前にいるのが推しで、しかも死んでる……?
「さすがに冗談が過ぎるだろ……」
こんなの受け入れられない。
……あ、そっか、これ俺が夢じゃないって思ってるだけで、本当は悪い夢なのかもしれない。そうだ、きっと。
「とりあえず、顔、洗いたい」
とにかく今は頭をすっきりさせたい。顔洗えば目覚めるかもしれないし。うん。
そう考えて、部屋を出ようとドアに向かう。
その時、ふいに見た鏡に映る姿を見て、俺はまた言葉を失った。
「…………え?」
鏡に映ったのは俺の姿ではなく、30代半ばくらいの男性。
セインほど目立った容姿ではないが、俺はこの顔もよく知っている。
フルト・モユニス。
漫画の第一話で死ぬ"はず"の、セインの育ての親だ。
「本当に、何がどうなってるんだよ……?」
どうやら俺は、死ぬ運命だった主人公の育ての親、フルト・モユニスに転生してしまったらしい。




