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その赤を、燃やせ  作者: 樽見 龍二
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8.ノイズキャンセリングの横顔

 試合開始ティップオフまで、あと二時間。

 名城パークアリーナのバックヤードは、すでに戦場のような喧騒に包まれていた。

 ズゥゥゥン、ズゥゥゥン……。

 腹の底に響くような重低音。アリーナの巨大スピーカーを使った、音響スタッフによる最終サウンドチェックだ。空気を震わせる振動が薄い壁を隔てた広報ルームまで伝わり、あかりのデスクの上のペン立てをカタカタと微かに鳴らす。

 廊下からは、「ボランティア、Aゲート配置について!」「グッズ搬入、急いで!」と、スタッフたちの怒号のような指示が飛び交っている。誰もが走り回り、叫び、熱気を帯びている。

 だが、湊あかりの視界の中――二十四インチの液晶モニターの中だけは、別世界のように静まり返っていた。

 そこを支配しているのは、「完全な静寂」だ。

 画面いっぱいに表示されているのは、一枚のモノクロ写真。被写体は、今季加入したばかりの高卒ルーキー、翔太。

 試合前のロッカールームのベンチに座り、少しうつむき加減の横顔。その耳を覆っているのは、彼の小さな顔の半分を隠してしまいそうなほど巨大な、ノイズキャンセリング機能付きのヘッドホンだ。

 白黒の階調グラデーションで切り取られたその姿からは、音という音が一切感じられない。

 そのヘッドホンは、単に音楽を聴くための道具ではない。まだ十八歳の彼に容赦なく降りかかる、世間からの過度な期待、心ない批判、そしてプロとしての重圧プレッシャー

 そうした外界のあらゆる「雑音ノイズ」を物理的に遮断し、自分だけの内なる世界に深く潜り込むための、頑丈な盾なのだということが、その静止画から痛いほど伝わってきた。


 コート上の翔太は、いつだってチームの太陽だ。

 カメラを向ければ、頼んでもいないのに全力で変顔をしてくる。タイムアウト中は、ベンチの誰よりも大声を出してタオルを回し、沈みがちなチームの空気をその底抜けの明るさで無理やりにかき混ぜる。

 彼は、ブレイズにとって愛すべき末っ子であり、道化師ピエロだった。

 けれど、あかりの目の前にある静止画の中に、その道化師の仮面はない。

 瞼は堅く閉じられ、眉間には年齢にそぐわない深い縦皺が刻まれている。

 ヘッドホンの奥で鳴っている音楽の世界に逃げ込まなければ、今にも押しつぶされてしまいそうな孤独。

 それは、まだ十八歳の青年が、「負け続ける古豪」という重たすぎる看板を背負い、プロの世界で戦うことへの恐怖に、必死で耐えている表情だった。

「……ファンのみんなは、翔太のこの顔を知らない」

 あかりは、画面の中の彼と視線を合わせるように顔を近づけた。

 ヘラヘラしている、真剣味がない、危機感がない。

 そんな心ない言葉を浴びることもある彼が、たった数分の出場機会プレータイムを得るために、試合前にどれだけの覚悟で震えを押し殺しているか。

 あかりはマウスを握る手に力を込めた。

 伝えたい。

 陽気なキャラクターの裏に隠された、この等身大の「痛み」と「人間臭さ」こそを、私は届けなければならない。


 あかりはモニターの横にウィンドウを開き、昨日録音したボイスレコーダーの文字起こしデータを見返した。

 そこには、いつも冗談ばかり言っている翔太が、ポツリポツリと漏らした本音が記録されている。

『試合前は、とにかくうるさい曲……歌詞なんて聞き取れないくらいの、激しいラウドロックを聴きます。そうしないと、怖いんで』

 テキストデータなのに、少し震えていた彼の声が蘇るようだ。

『アウェイのブーイングとか、相手チームの応援のリズムとか……そういうのが全部聞こえなくなって、自分とバスケだけの世界に入れる気がするから』

 一般的に、若手選手がヘッドホンをしていると「音楽を聴いて浮かれている」「格好をつけている」と思われがちだ。

 けれど、彼にとってのそれは、テンションを上げるためのBGMではない。

 心ない野次や、押しつぶされそうなプレッシャーという見えない矢から、その繊細な心を守るための、重厚な「音の鎧」なのだ。

 あかりはキーボードに指を置いた。

 この写真に添えるべき言葉は、飾ったキャッチコピーではない。彼の孤独な戦いに寄り添う、真実の言葉だけだ。

『彼が恐怖を乗り越えるための3分間。その爆音の先に、勝利への集中力がある。』

 あかりは一文字ずつ、祈るように打ち込んだ。


 キャプションの最後に、ハッシュタグを添える。

 『#BlazeMusic』『#Shota_Playlist』

 あかりはプレビュー画面を表示し、小さく頷いた。

 完璧だ。

 モノクロの静謐な写真と、選手の内面に触れるテキスト。これを見れば、きっとファンは「チャラい若手」という色眼鏡を外し、孤独と戦う彼に「今日も頑張れ」と温かい拍手を送りたくなるはずだ。

 この企画が却下される理由など、1ミリも想像できない。

 予算もゼロ。選手のイメージアップにも繋がる。誰にとってもプラスしかない、広報としてのお手本のような仕事だ。

「よし、承認お願いします!」

 あかりは弾むような声と共に、コンテンツ管理ツール上の『承認申請』ボタンにマウスカーソルを合わせた。

 承認ルートの先には、新事業部長『Himuro_K』のアカウントが設定されている。

 カチッ。

 指先で鳴らしたその軽いクリック音が、この自信作の「遺影」を撮るためのシャッター音になるとも知らずに、あかりは晴れやかな顔で申請を完了させた。

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