7.絶対零度の会議室
氷室は、左手首を軽く持ち上げた。
袖口から覗いたのは、装飾の一切ない、黒いラバーバンドのスマートウォッチだ。
彼は無機質な液晶画面を一瞥すると、まだあかりが何かを言いかけているのを手で制し、一方的に宣言した。
「時間はコストです。これ以上の無駄な議論は終わりにしましょう」
パタン。
彼が薄いノートPCを閉じる音が、断頭台の刃が落ちる音のように乾いて響いた。
氷室は迷わず席を立ち、出口へと歩き出す。あかりや他のスタッフの方を振り返ろうともしない。
だが、ドアノブに手をかけた瞬間、彼はその背中で語りかけた。
「今後は全ての施策において、ROI(投資対効果)を明示してください」
「アール……オーアイ……?」
「いくら投資して、いくらリターンがあるのか。それを数値で証明できない企画は、企画書とは呼びません」
氷室はそこで初めて、少しだけ首を傾けてあかりを一瞥した。その目は、彼女の手元に残された「情熱の塊」を冷ややかに見下ろしていた。
「……それは、ただの紙くずです」
ガチャリ。ドアが閉まる。
あかりは動けなかった。
紙くず。
その言葉は、あかりがこれまで信じてきた「情熱」や「想い」という価値観そのものを断ち切る、死刑宣告のギロチンだった。
氷室の姿がドアの向こうに消え、完全に足音が聞こえなくなっても、会議室には重苦しい沈黙が張り付いていた。誰も動けない。呼吸の音さえ憚られるような、真空のような静けさ。
その静寂を破ったのは、入り口付近に立っていた総務スタッフの小さな動きだった。彼はおずおずと手を伸ばし、壁のスイッチを押した。
パチ、パチ、パチッ。
蛍光灯が数回瞬き、薄暗かった会議室が急激に明るくなった。
けれど、その光はちっとも温かくなかった。
それは、オフィス特有の、青みがかった白すぎる光だった。
部屋の隅に積もった埃や、使い古されたパイプ椅子の傷、そして社員たちの疲れ切った顔色まで、見たくない現実をすべて容赦なく暴き出す、無機質で冷酷な光。
あかりは、そのあまりの眩しさに思わず目を細めた。
視界が白く滲む中、部屋の前方にあるホワイトボードだけが、スポットライトを浴びたように残酷に浮かび上がっていた。
『Fan ×』
『Customer』
黒いマーカーで乱暴に書かれたその文字が、網膜に焼き付く。
情熱は否定され、人間はデータに置き換えられた。その決定的な証拠が、白すぎる光の下で晒されている。
部屋はこんなにも明るくなったのに、あかりの体温は戻らなかった。
むしろ、その人工的な白さに包囲され、腕には鳥肌が立っていた。体の芯が冷え切って、震えが止まらない。それは物理的な寒さではなく、心を凍らせる絶望の温度だった。
白すぎる蛍光灯の下で、残酷な沈黙が広がった。
いつもなら、こういうパワハラまがいの会議の後は、誰かが助け舟を出してくれるはずだった。
「気にすんなよ、あの人が極端なだけだって」
「キツイ人だな……。まあ、言ってることも一理あるけどさ」
そんな、ぬるま湯のような慰め合いや、小声での愚痴が空気を和らげてくれるのが常だった。
けれど、今日は違った。
誰も、口を開かない。誰一人として、あかりと目を合わせようとしない。
示し合わせたように、同僚たちは一斉に手元の資料を片付け始めた。ノートPCを鞄に押し込み、ペンを掴むその手つきは、ひどく急いでいて、ぎこちない。
それは、単なる気まずさではなかった。明確な「恐怖」だった。
(下手に今、彼女を庇ったりしたら、自分まで氷室さんの『コストカット対象』だと思われるかもしれない)
そんな無言のパニックが、ウイルスのように部屋中に伝染していた。誰も、火の粉を浴びたくないのだ。
ギギーッ、ガガッ――。
安っぽいオフィスの床を、金属の椅子の脚が擦る嫌な音だけが、暴力的に響き渡る。
まるで石をひっくり返した下の蜘蛛の子が散るように、人々は足早に会議室という名の「被災地」から去っていく。
取り残されたあかりは、遠ざかる同僚たちの冷たい背中を見つめながら、自分だけが急に透明人間になってしまったかのような錯覚に陥っていた。
誰もいなくなった、ガランとした会議室。
白すぎる蛍光灯の光だけが、主を失った長いテーブルを無慈悲に照らしている。
あかりの視線の先には、上座のデスクの端に追いやられたままの、あの一束の紙があった。
『選手と行く! 名古屋・大須商店街クリーン大作戦』
表紙に印刷された「名古屋ブレイズ」のロゴマーク。激しく燃え盛る炎を象ったその赤い意匠が、今はどうしようもなく虚しく、色あせて見えた。
「……燃やすどころか、凍っちゃった」
あかりは、自嘲気味にそう呟くと、置き去りにされた企画書に手を伸ばした。
指先が触れた瞬間、ビクリと肌が粟立つ。
氷室が触れたのはほんの一瞬だったはずなのに、その紙はまるでドライアイスのように冷たく、すべての熱を奪われてしまったかのように感じられた。
これが、あの男がもたらした「結果」だ。
情熱は否定され、想いは紙くずとなり、ぬるま湯だったオフィスは極寒の地へと変わった。
けれど。
あかりは、その冷たい紙をゴミ箱へ放ることはしなかった。
代わりに、ギュッ、と強く握りしめる。
綺麗だった紙に皺が寄り、指の爪が食い込む。
「でも、私は捨てない」
小さな、けれど確かな反抗の言葉。
この企画書は通らなかったかもしれない。けれど、ここに込めた「人の心を動かしたい」という想いまで、あの冷徹な計算式に譲り渡すつもりはなかった。
名古屋ブレイズに、氷河期が訪れた。
分厚い氷に閉ざされた世界。
しかし、その氷の層の下で、消え入りそうな種火を必死に守ろうとする、広報担当・湊あかりの孤独な戦いが、ここから静かに幕を開ける。




