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その赤を、燃やせ  作者: 樽見 龍二
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6.電気代と絆

 氷室は、デスクの端に置かれたあかりの企画書に目を留めた。

 『選手と行く! 名古屋・大須商店街クリーン大作戦』

 彼はそれを、汚いものでも触るかのように、長い指先だけで摘み上げた。

 あかりは息を呑んだ。読んでもらえる。

 しかし、その期待は瞬殺される。

 氷室の瞳が紙面を走ったのは、わずか十秒。いや、五秒もなかったかもしれない。

 彼は表紙のタイトルを一瞥し、すぐにペラリと裏面をめくった。そこが白紙であること――つまり、このイベントによる収支計画が記載されていないこと――を確認しただけで、彼の興味は完全に消失した。

「フッ」

 短く、鼻で笑う音。

 シュッ。

 氷室の手首が軽く返され、企画書が長い会議テーブルの上を滑った。乾いた摩擦音を立てて止まったのは、あかりの手元ではない。誰も座っていないテーブルの隅、ゴミ箱のすぐ近くだ。

「却下です」

「え……?」

「ゴミ拾いをして、一円になりますか?」

 氷室は、あかりを見ずにPCの画面へと視線を戻していた。

「プロ選手の時給と、移動にかかるコスト。それをドブに捨てる気ですかと聞いているんです」

 その言葉は、あかりが徹夜で練り上げ、チームへの愛と情熱を詰め込んだその紙束を、価値のない「産業廃棄物」だと断定する冷酷な宣告だった。


 ガタッ!

 あかりは、蹴り飛ばすように椅子を鳴らして立ち上がった。

 その乱暴な音に、下を向いていた同僚たちが一斉に顔を上げる。

「お金の問題じゃありません!」

 あかりの声が、薄暗い会議室の壁に反響した。

 氷室の冷徹な視線がこちらに向くが、あかりはもう止まらなかった。握りしめた拳が震えている。

「Bリーグが掲げる理念は『地域密着』です。ただバスケをするだけじゃない。チームが苦しい時だからこそ、選手が地域に出て、誠意を見せて……そうやってファンとの『絆』を深めていくのが、私たち広報の仕事なんです!」

 言い切った瞬間、張り詰めた空気が揺れた。

 隣の席の先輩社員が、目を見開いてあかりを見上げている。その瞳には、「よくぞ言った」という微かな称賛と、「バカな真似はやめておけ」という恐怖が入り混じっていた。 

 あかりは確信していた。

 スポーツには、損益計算書や視聴率といった数字では決して測れない、目に見えない大切な価値があるはずだ。

 それがなければ、私たちはただのボール遊びを見せる興行屋に過ぎない。

 その「聖域」だけは、どんなに偉い数字の専門家であっても、踏みにじることは許されないはずだ。


 あかりの熱弁に対し、氷室は眉ひとつ動かさなかった。

 怒鳴り返すわけでも、鼻で笑うわけでもない。ただ、騒ぐ子供を見るような冷めた目で、ずり落ちてもいない眼鏡のブリッジを人差し指でゆっくりと押し上げた。

「絆、ですか」

 彼は無機質な声で鸚鵡おうむ返しにし、そのまま人差し指をスッと天井へ向けた。

「では、湊さん。その美しい『絆』とやらで、このアリーナの莫大な電気代が払えますか?」

「え……?」

「空調費、照明代、警備スタッフの人件費。ホームゲームを一回開催するだけで、どれだけのキャッシュが飛ぶか知っていますか?数百万ですよ」

 氷室は指先を天井の蛍光灯に向けたまま、淡々と事実ファクトを列挙していく。

 水銀灯の交換費用、巨大な空調を回すための動力費、数百人の警備員を配置するコスト。それは、あかりが普段意識の外に置いていた、興行を成立させるための巨大な「固定費」の現実だった。

「あなたたちが『地域のため』と言ってタダでばら撒いた招待券や、ゴミ拾いで得られたプライスレスな笑顔では……この天井の電球一つ、交換することさえできないんですよ」

 氷室は、あかりの目を射抜くように見つめた。

 金にならない善意など、ここでは無価値だ。そう断言された気がした。

 あまりに具体的で、あまりに即物的な「経費」の話を突きつけられ、あかりの喉がキュッ、と引きつった音を立てた。

 反論しようとして、唇が動かない。

 悔しいけれど、彼の言っていることは、経営という視点においては紛れもない正論だったからだ。


 氷室は、反論できずに立ち尽くすあかりからゆっくりと視線を外し、背後のホワイトボードへと歩み寄った。

 カツ、カツ、という足音だけが、凍りついた会議室に響く。

 彼は黒のマーカーを手に取ると、キュキュッと乾いた音を立てて、アルファベットを殴り書きした。

『Fan』

「湊さん」

 氷室は背中を向けたまま、静かに呼びかけた。

「あなたが大切にしている、顔の見えない『ファン』という情緒的な存在。……今、破綻寸前の我々に、彼らを愛でている余裕などありません」

 彼はマーカーを振り上げ、その単語の上に、乱暴なまでに大きく、二本の線を交差させた。

×(バツ)。

 あかりの体がビクリと跳ねた。まるで、これまで積み上げてきた信念そのものを否定されたような衝撃だった。

 氷室はその隣に、別の単語を冷静に書き加える。

『Customer』

「我々に必要なのは、明確な意図を持って財布の紐を開き、対価を支払ってくれる『チケット購入者』……すなわち『顧客データ』です」

 氷室は振り返り、冷え切った目で再びあかりを射抜いた。

「彼らが落とす金のLTV(総額)だけが、この瀕死のチームを延命させる唯一の輸血パックだ。……金にならない善意など、今のブレイズには高すぎる贅沢品なんですよ」

 その言葉は、あかりが信じてきた「スポーツの魔法」を真っ向から否定する、あまりにも冷徹な現実の宣告だった。

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