5.赤字のプロジェクション
ガチャリ。
ドアノブが回り、会議室のドアが開いた。
現れた男は、まるで精密機械のようだった。
埃ひとつないダークネイビーのスーツは完璧にプレスされ、わずかな皺も見当たらない。髪は整髪料で隙なく固められ、冷徹そうな銀縁眼鏡の奥には、感情を一切映さない瞳があった。
新事業部長、氷室だ。
あかりは反射的に背筋を伸ばし、広報担当として一番の「営業スマイル」を作った。第一印象が肝心だ。まずは元気よく挨拶をして、懐に入り込む。
「おはようございます! 広報担当の、湊あかりで――」
言葉は、空を切った。
氷室は、あかりと視線を合わせることすらしなかった。
会釈もなければ、足を止めることもしない。まるでそこに人間など存在しないかのように、あかりの横を一陣の乾いた風となって通り過ぎ、一直線に上座へと向かう。
そして、席に着くや否や、あかりが定規で測ったように丁寧に並べたあの企画書を、手の甲で無造作に脇へ追いやった。
読む価値などない。机の上を占領する、ただの邪魔なゴミだと言わんばかりに。
代わりに鞄から取り出したのは、刃物のように薄い金属製のノートPC。
カツン。
彼がそれをデスクに置いた瞬間、硬質で冷たい接触音が静まり返った会議室に響いた。
その一連の動作だけで、あかりの張り付けた笑顔は瞬時に凍りつき、ピキリと音を立ててひび割れた。
「カーテンを閉めてください」
それが、この部屋での彼の第一声だった。
「はじめまして」もなければ、「よろしくお願いします」もない。
その声は、人間の喉から発せられた言葉というより、AIスピーカーから流れる業務命令のように抑揚がなく、冷徹だった。
入り口付近にいた総務スタッフが、弾かれたように反応する。
「あ、はい!」
慌てて窓際のブラインドを降ろし始める。
シャララ、という乾いた音と共に、秋の柔らかな陽光が遮断されていく。
昼間の明るく開放的だった会議室は、わずか数秒で、外の世界から切り離された薄暗い閉鎖空間へと姿を変えた。
フォーーー……。
静まり返った闇の中で、天井に吊るされたプロジェクターの排気音だけが、低く、不気味に響いている。
まるで、この部屋の空気が徐々に吸い出され、真空になっていくような圧迫感。
氷室は無言のまま、手元のケーブルをノートPCのポートに差し込んだ。
カチリ。
その小さな接続音と共に、あかりの手元にあった『大須商店街クリーン大作戦』の企画書は、闇に沈んで文字が読めなくなった。
さっきまで指先に感じていたコピー用紙の温もりさえも、急速に冷めていくように感じられた。
バッ!
薄暗い空間の壁一面に、プロジェクターの光が投影された。
「うっ……」
あかりは思わず目を細めた。
そこに映し出されたのは、目がチカチカするほど鮮烈な「赤色」だったからだ。
それは、チームのプロモーション映像ではない。
巨大なエクセルシートだった。
『売上高:▲8,000万円(前年比70%)』
『営業利益:▲1.5億円(赤字拡大)』
すべての項目に、マイナスを示す「▲」の記号と、危険信号である赤い文字が並んでいる。
画面の端にある折れ線グラフは、数年前をピークに急降下を続けており、それはもはやグラフというより、地獄へと続く滑り台のようだった。
氷室は、その鮮血のようなスクリーンを背にして立ち、眼鏡のブリッジを中指で軽く押し上げた。
そして、抑揚のない声で淡々と言い放った。
「素晴らしいですね」
「え……?」
「ユニフォームだけでなく、PL(損益計算書)まで、美しいチームカラーで統一されている」
シーン……。
会議室の空気が、完全に凍りついた。
誰も笑わない。いや、笑える空気ではない。それはジョークの形をした、残酷すぎる事実の宣告だった。
スクリーンに映る毒々しい赤。それは、あかりたちが信じていた「情熱の炎」などではない。このチームが経営的に瀕死の重傷を負い、今この瞬間もドクドクと流し続けている「血」そのものだった。
氷室は胸ポケットから、銀色のペンに似た細長い金属を取り出した。
カチリ、とスイッチを押す。
スクリーン上の数字の海に、鮮烈な赤い光の点が現れた。
その赤い光点は、生き物のように画面上を這い回り、一番下にある項目――桁数の多すぎる『当期純損失』の数字の上でピタリと止まった。
ゆらりとも動かない。
それはまるで、標的の眉間を捉えて離さない、狙撃銃のレーザーサイトのようだった。
「私は、バスケットボールのルールは知りません」
氷室はポインターを握ったまま、視線だけを会議室の面々に向けた。
「何点取れば勝ちなのか。3ポイントシュートが何点なのかすら知らない」
彼は手首をわずかに動かした。
スクリーン上の赤い点が、高速で移動し、最前列に座っていたあかりの顔面を直撃した。
「っ……!」
あかりは反射的に目を閉じた。瞼の裏が赤く焼ける。
まるで銃口を突きつけられたような暴力的な威圧感。
氷室は一瞬だけあかりを照準に捉えた後、すぐにまた光点をスクリーンへと戻した。そして、判決を下す裁判官のような声で告げた。
「ですが、ビジネスにおいてこのスコアが『敗北』であることくらいは分かります」
彼は赤い数字を、執拗に、グリグリと光で抉った。
「あなたたちは、試合をする前から……すでに負けているんです」




