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その赤を、燃やせ  作者: 樽見 龍二
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4.温い希望と企画書

 月曜日の朝十時。

 名古屋ブレイズのフロントオフィスには、週末の試合結果(もちろん、連敗記録更新だ)を引きずったような、澱んだ空気が漂っていた。

 けれど、それは悲壮感というよりは、単なる「休み明けの気だるさ」に近い。蛍光灯の白い光の下、他の社員たちは死んだ魚のような目でメールをチェックしたり、大きなあくびを噛み殺しながらコーヒーを啜ったりしている。

 危機感の欠如。それが、このオフィスの日常風景だった。

 湊あかりは、部屋の隅にある大型複合機の前で、排出トレイから次々と吐き出される紙束を受け止めていた。

「……あつっ」

 印刷されたばかりのコピー用紙は、熱を帯びていて、少し湿り気がある。週末のアリーナで冷え切ったあかりの指先には、その人工的な温かさが妙に心地よかった。

 一番上の紙に、ゴシック体で大きくタイトルが印字されている。

『企画書:選手と行く! 名古屋・大須商店街クリーン大作戦』

 それは、あかりが週末返上で練り上げた起死回生の(と本人は信じている)地域貢献イベントの企画書だった。

 チームの成績が低迷している今だからこそ、地元・名古屋の商店街に出て、選手たちがゴミ拾いをしながらファンと交流する。汗を流し、笑顔を見せる。そういう地道な活動が、離れてしまった人の心を呼び戻すはずだ。

「試合で負けた翌週こそ、選手が街に出て笑顔を見せる。……それがプロだよね」

 あかりは、まだ眠気が残る自分の脳を叱咤するように、小さく呟いた。

 そうだ。落ち込んでいる暇はない。広報が下を向いていたら、誰がチームの魅力を伝えるというのか。

 あかりは熱を持った企画書の束を揃え、デスクにあったホッチキスを握った。

 パチン、と乾いた金属音が、静かなオフィスに小さく響いた。


「佐久間さん、これ、ちょっと目を通してもらえますか?」

 あかりは、隣のデスクで気だるげにコーヒーを啜っていた先輩社員に、ホッチキス留めしたばかりの企画書を差し出した。

 彼は広報歴こそ長いが、新しいことには手を出さず、波風を立てないことを信条とする、典型的な事なかれ主義の男だ。

 彼は眼鏡の奥の目を細め、企画書の表紙をパラリとめくった。

「ん? ああ、清掃活動か」

「はい。いわゆるCSR(地域貢献活動)です。これだけ負けが込んでて、SNSのリプ欄も荒れ放題なんで……こういう『いい話』を提供して、少しガス抜きが必要かなって」

 あかりは、もっともらしい理由を口にした。

 それは、Bリーグが掲げる「地域密着」という崇高な理念に基づいた、誰からも後ろ指をさされない「正攻法」だ。スポーツクラブとして、地域のために汗を流すことは絶対の正義であり、否定する者はいない。

 だが、あかりの心のどこかには、薄暗い自覚もあった。

 これは、一種の免罪符だ。

 試合に勝てない。客も呼べない。収益も上がらない。

 そんな惨めな現状から目を逸らすために、「でも、私たちは地域のためにこんなに良い活動をしています」というポーズをとり、自分たちを正当化しようとしているだけではないのか。

 そこには、「勝利」への執着も、「マネー」への貪欲さもない。あるのは、「いい人」でいることで批判をかわそうとする、弱者の処世術だけだった。


 佐久間は、手元の缶コーヒーをズズッと音を立てて啜ると、あかりの作った企画書をパラパラと適当にめくり、最後に軽く頷いた。

「まあ、いいんじゃない?」

「本当ですか?」

「最近負け続きで、選手たちも体育館に缶詰めで煮詰まってるだろ。たまには外の空気を吸って、ファンにチヤホヤされて、気分転換するのも悪くないよ」

 その言葉には、プロのアスリートに対する敬意というよりは、手のかかる子供をあやすような軽さがあった。だが、あかりはそれに反論しない。

「ですよね。経費といっても、軍手とゴミ袋代くらいですし……これなら、上の決裁も通りそうです」

「だね。うちのGMも、『金のかからないメディア露出』なら文句言わないよ。とりあえずやっとけ、ってハンコ押してくれるさ」

 佐久間はあくび混じりにそう言って、企画書をあかりに返した。

 このオフィスでの正義は、明確だ。

 「効果があるか」や「勝利に繋がるか」ではない。「波風が立たないか」、そして「安上がりか」。その二点が満たされていれば、たいていの仕事は承認される。

 その弛緩した空気――心地よい「ぬるま湯」のような承認プロセスに、あかりはどこかほっとした安心感を覚えていた。

 この企画書が、まもなく現れる「氷」によって、粉々に砕かれる運命にあるとも知らずに。


 あかりは会議室へ移動すると、長テーブルの上に人数分の資料を並べていった。

 特に念入りに整えた一部を、テーブルの一番奥――通称「お誕生日席」と呼ばれる上座に置く。

 そこは、今日着任する親会社からの出向組、新事業部長が座る予定の席だ。

 白いテーブルの上に、先ほどの『大須商店街クリーン大作戦』の文字が誇らしげに鎮座している。

 角をきっちりと合わせ、ペンの位置も整える。

「よし、これで掴みはオッケー」

 あかりは小さくガッツポーズをした。

 数字に厳しい人が来るという噂だが、これなら文句はないはずだ。コストはほぼゼロ、それでいて「地域貢献」というBリーグの正義を振りかざせる。この企画書こそが、堕ちた古豪チームに残された最後の良心を示す切り札になると、あかりは信じて疑わなかった。

 その時だった。

 オフィスの外、静まり返った廊下の向こうから、異質な音が近づいてきた。

 カツ、カツ、カツ、カツ……。

 それは、このオフィスの人間が誰も出さないような、硬質で、恐ろしいほど正確なリズムを刻む革靴の足音だった。

 一定の歩幅、一定の速度。迷いも、媚びも、無駄も一切ない歩行音。

 あかりは反射的に姿勢を正し、入り口のドアを見据えた。

 まだ、彼女は知らない。

 その足音が、心地よい「ぬるま湯」に浸かっていたこのオフィスを一瞬にして凍りつかせ、絶対零度の氷河期をもたらす死刑執行人の足音だということを。

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