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その赤を、燃やせ  作者: 樽見 龍二
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40.論理的敗北

 氷室は唇を真一文字に結んだまま、猛烈な速度で脳内シミュレーションを回転させた。

(法的措置で強制執行する?……間に合わない。裁判所の判断が出る頃には、試合終了のブザーはとっくに鳴り終わっている)

(ユースや練習生をかき集めて、代替チームを編成するか?……愚策だ。連携皆無の素人集団など、三河の餌食になるだけだ。歴史的な大敗はチームの権威を失墜させ、ブランド価値を回復不能なまでに毀損する)

(では、不戦敗覚悟で強行するか?)

 そのシナリオを想像した瞬間、脳内の計算機が莫大な損失額を弾き出した。チケットの全額払い戻し、スポンサーへの違約金、放映権料の補填、そしてリーグからの重い制裁金。

 どの分岐ルートを選んでも、その先に待っているのは『GAME OVER』の真っ赤な文字だけだ。

 冷や汗が、頬を伝う。

 論理の迷宮をどう彷徨っても、出口は塞がれている。彼は認めざるを得なかった。盤上のキングであるはずの自分が、歩兵ポーンだと思っていた彼らによって、完全なる「チェックメイト」に追い込まれたのだという事実を。


 氷室は、瞼を閉じて脳内に巨大な天秤を幻視した。

 彼は冷徹なディーラーの手つきで、左右の皿に事象を載せていく。

 左の皿には、「湊あかりへの処分を撤回し、彼女を呼び戻すという個人的な屈辱プライド」。

 対する右の皿には、「数億円規模の損失、スポンサーの撤退、そして最悪のシナリオであるBリーグ・クラブライセンスの剥奪」。

 ガチャン!!

 計測する時間さえ必要なかった。

 右側の皿は、重力に引かれる隕石のように、脳内の床を打ち砕く勢いで落下した。比較することさえ愚かしいほどの重量差だ。左側のプライドなど、経営存続という絶対的な重力の前では、羽毛よりも軽かった。

「……割に合わない」

 氷室は、誰に聞かせるでもなく独り言ちた。

 たかが一人の広報担当者を排除し、組織の規律を正す。その目的のために支払うコストとしては、あまりにも高すぎる代償だ。自身の感情を殺してでも損切りをする。それが、彼にとっての唯一の正解ビジネスだった。


 氷室は、肺の奥底に溜まっていた重苦しい空気を、時間をかけてゆっくりと吐き出した。

 そして、彼の冷徹な知性を象徴する鎧の一部――銀縁の眼鏡のつるに指をかけ、静かに顔から取り外した。

『カチャリ』

 硬質な音がデスクに小さく響き、彼はそれを手元に置いた。レンズの奥から解放され、露わになったその素顔は、憑き物が落ちたように無防備で、そして隠しきれない疲労の色を深く帯びていた。

「……計算違いでした」

 彼は、目の前に立ちはだかる巨大な赤い壁を見上げ、自嘲するように呟いた。

「私の構築した完璧な計算式には、『情熱』という変数が、決定的に欠落していました」

 それは、徹底して効率を愛し、不確実で非合理的なものを排除し続けてきた男が、数字には決して表れないその不確定要素が持つ「物理的な破壊力」を、自らの敗北と共に初めて認めた瞬間だった。


 氷室は、自分を見下ろす火野の瞳を、裸眼のままじっと見返した。そこには悔恨も謝罪の色もない。あるのは、算出された解を読み上げる時のような、平坦な事実の確認だけだった。

「……私の負けです。ロジックとして、これ以上の抵抗は合理的ではない」

 その一言で、限界まで張り詰めていた社長室の空気がふっと緩んだ。巨大な「赤い壁」を形成していた選手たちの肩から力が抜け、部屋のあちこちから深い安堵の吐息が漏れる。

 だが、その感傷的な時間はコンマ数秒で終わった。

 氷室はデスクの上の眼鏡を拾い上げると、カチャリと音を立てて再び装着した。

 レンズというフィルターを通したその瞳には、敗者の弱さは微塵も残っていない。そこには既に、冷徹な「経営者の光」が宿っていた。彼は一瞬にして、感情を持つ人間から、システムを動かすビジネスマンへと回帰したのだ。

「火野選手、湊あかりに連絡を取りなさい」

 彼は間髪入れず、淡々と指示を飛ばした。

「……業務命令です。即刻復帰し、この炎上を鎮火させろ、と」

 彼は敗北を認めた。だが、決して心まで折れてはいなかった。

 この屈辱的な状況すらも「利用可能なリソース」と捉え直し、氷室はすでに、このカオスを収拾した先にある次の盤面を描き始めていたのである。

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