39.商品からのストライキ
氷室は、足元から崩れそうな自尊心を必死に支えるように、中指で眼鏡のブリッジをくいと押し上げた。レンズの奥の瞳を細め、努めて冷静さを装う。
「感情論はやめましょう」
彼は冷ややかに吐き捨てた。
「あなた方は雇われる側だ。選手の分際で、経営に口を出さないでいただきたい」
氷室は視線を選手たちから外し、逃げ込むようにPCのマウスを操作した。数回のクリックでモニターに表示されたのは、PDF化された選手契約書の条文だ。彼はそれを絶対的な聖典であるかのように読み上げ始めた。
「第4条。あなた方には『指定された試合に出場し、プレーにおいて全力を尽くす義務』が課せられています。広報担当の人事に不満があるなどという理由は、法的効力を持ちません」
彼は顔を上げ、勝ち誇ったように選手たちを見渡した。
「正当な理由なき欠場は、明白な契約不履行です。その場合、スポンサー料の返還分も含め、数億円規模の損害賠償を個々に請求することになりますが……それでも構わないのですか?」
法律と金。それこそが氷室が築き上げてきた最強の盾であり、これまで誰も逆らうことを許さなかった、冷たく強固な鎖だった。
「なら、その義務ごと放棄してやる」
火野は、躊躇いのかけらもなく言い切った。
彼はさらに一歩、デスクとの境界線を踏み越えて氷室に肉薄した。身長192センチの鍛え抜かれた巨体が作り出す濃い影が、椅子に座り込んだままの氷室を頭上から完全に飲み込む。
「あかりが戻らないなら、俺たちは明日のダービー、コートには立たない」
その言葉の意味を理解するのに、氷室の脳は数秒を要した。
「なっ……ボイコット、だと?本気で言っているのか?そんなことをすれば、君たちのキャリアは――」
「ああ、本気だ」
火野は氷室の言葉を遮り、冷徹な目で彼を見下ろした。
「スターティング5どころか、ベンチメンバーも、スタッフも、誰一人としてアリーナには入らない。空っぽのベンチを用意して待っててやるよ」
そして、火野は残酷な提案を口にした。
「試合がしたいなら、あんた一人でユニフォームを着て、三河アイアンホースと戦えばいい」
氷室は、信じられないものを見るような目で彼らを凝視し、上ずった声を荒らげた。
「プロとしての自覚がないのか!職場放棄がどれほど無責任な行為か、わかっているのか!」
「プロだからだ」
火野は静かに、だが断固として首を横に振った。
「魂――あかりを抜かれた今の俺たちなんて、ただの身体がデカいだけの烏合の衆だ」
彼は、ユニフォームの左胸に刺繍されたチームロゴを、誇示するように拳で叩いた。『バン!』という乾いた音が、重苦しい空気を切り裂く。
「そんな魂の入っていない空っぽの『不良品』を、高いチケット代を払って来てくれる客に見せるわけにはいかない。それはファンに対する裏切りであり、詐欺だ」
火野は、氷室の顔を真正面から見据え、そのビジネスロジックを逆手に取った痛烈なカウンターパンチを放った。
「……それこそが、あんたのいつも言っている『ブランドの毀損』だろうが!」
火野の背後、そこにはまだあどけなさの残る翔太をはじめ、若手選手たちも仁王立ちしていた。
誰一人として視線を逸らさない。足元のカーペットに根を張ったように、一歩も引こうとはしなかった。彼らの瞳は、雄弁かつ不気味に語っていた。「もしキャプテンを干すなら干せ。その代わり、俺たち全員がいなくなるだけだ」と。それは、個人の保身を捨てた、恐怖すら感じさせるほどの完全な連帯だった。
明日は、年間で最大の集客と注目度を誇る「愛知ダービー」。ドル箱中のドル箱だ。
そのメインコートに、ホームチームの選手が誰一人として現れない――。
その破滅的な光景が脳裏を過り、氷室の背筋を冷たく粘り気のある汗が伝い落ちた。
今から代替選手を用意する時間など、物理的に存在しない。契約解除や損害賠償という、これまで彼が絶対的な凶器として振りかざしてきた脅しは、自らのキャリアすら賭け金としてテーブルに乗せた彼らの決死の覚悟の前では、何の意味もなさなかった。
張り詰めた静寂。この部屋の空気は、もはや利害を調整する「交渉」の段階を超えていた。互いの正義と生存本能をぶつけ合う、二度と引き返すことのできない「戦争」へと突入していたのである。




