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その赤を、燃やせ  作者: 樽見 龍二
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38.雑音の正体

 火野は、ノックも、失礼しますという言葉もなく、ズカズカと社長室の深部へと踏み込んだ。

 氷室が愛用する、指紋ひとつない艶やかなマホガニーの巨大なデスク。火野はその目前で足を止めると、無言のまま自身のスマートフォンを取り出し、氷室の顔の前に荒々しく突きつけた。

 突き出されたそれは、この洗練された空間には似つかわしくない、歴戦の傷跡そのものだった。幾度もの遠征と激闘を経て、保護フィルムは蜘蛛の巣のようにバキバキにヒビ割れ、縁は摩耗し、手垢と傷に塗れている。

 その傷だらけの画面の奥に表示されていたのは、魚拓として残された『残り火日誌』の一節――火野が誰にも言わず隠し続けてきた「膝のサポーター」についての、あの投稿だった。

「読め」

 火野の腹の底から絞り出された低い声が、静寂に守られていた社長室の空気を、物理的な振動を伴ってビリビリと震わせた。


 氷室は、目の前に突きつけられたヒビ割れた画面を、わずか一瞥しただけだった。

 そこにある熱量になど微塵も興味がないと言わんばかりに視線を外し、再び火野の目を真っ直ぐに見返す。

「読みましたよ。昨日、私がプリントアウトしてシュレッダーにかけたゴミと同じ文章だ」

「……あんたはこれを『雑音ノイズ』だと言ったそうだな」

 火野の問いかけに、氷室は眉一つ動かさず、さも当然の真理であるかのように頷いた。

「ええ、言いました」

 氷室の声は、火野の放つ熱気とは対照的に、どこまでも冷たく、滑らかだった。

「数字に変換できない個人の感傷。勝利への合理的根拠を持たない精神論。ビジネスの世界では、生産性を阻害するそれらを総じて『雑音』と定義します」

 彼は組んだ指の上に顎を乗せ、呆れたようにため息を吐いた。

「選手なら、こんなスマホを見ている暇があったら、一本でも多くシュート練習をしてください。それがあなたたちの仕事でしょう?」


 「ふざけるな!!」

 火野の右拳が、轟音と共にマホガニーの天板に叩きつけられた。

 その衝撃で綺麗に整頓されていた書類が雪崩のように舞い散り、重厚なペン立てが転がり落ちて、床で乾いた音を立てる。氷室の「完璧な聖域」が、暴力的なまでの感情によって蹂躙された瞬間だった。

「俺の膝はな、もうボロボロなんだよ!毎朝目が覚めるたびに激痛が走る。ベッドから降りるのさえ怖い。もう歩けない、バスケなんて辞めて楽になりたいって、毎日悲鳴を上げてるんだ!」

 火野は、自らの左膝――何重ものテーピングとサポーターで固められたその箇所を、ユニフォームの上から指が食い込むほどに強く鷲掴みにした。

「でもな、今朝、こいつを読んだ時……震えが止まったんだ」

 彼の目から、堪えきれない涙がこぼれ落ちる。

「ただの古傷じゃない。『逃げずに戦ってきた年月の厚み』だって……あいつはそう書いてくれた。その言葉があったから、俺は今日、またシューズの紐を結べたんだ。コートに立てたんだよ!」

 火野は充血した目で氷室を睨みつけ、喉が裂けんばかりに吼えた。

「あんたが『ゴミ』だと切り捨てた言葉が!俺の死んだ足を無理やり動かす、たった一つの『燃料』だったんだよ!」


 火野の荒い息遣いだけが支配する沈黙を破り、その背後から一人の若者が歩み出た。チーム最年少のポイントガード、翔太だ。

 彼は強張った表情で氷室を真っ直ぐに見据え、静かに、しかしはっきりと言った。

「俺もです。……社長、あんた、前のミーティングで言いましたよね。『この泥沼の連敗を止めたら、特別ボーナスを出す』って」

 翔太は侮蔑を含んだ苦笑を浮かべ、ゆっくりと首を横に振った。

「金で顔を叩けば、俺たちが尻尾を振って走るとでも思ってたんすか?ナメないでくださいよ。……俺たちの心を突き動かしたのは、あんたが提示した『インセンティブ』なんかじゃない。あかりさんが紡いだ、あの言葉だ!」

 その叫びに呼応するように、背後に控える「赤い壁」――全選手が、深く、力強く頷いた。

 その重厚な動作は、無言の肯定であり、氷室への断罪だった。氷室は息を呑み、言葉を失った。彼がこれまで絶対の真理として信じ込み、組織運営の根幹に据えていた「人間は利益メリットによってのみ動く」という経済合理性の原則が、彼らの理屈を超えた熱量の前で、音を立てて崩れ去った瞬間だった。

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