37.巨人の進撃
オフィスは、鳴り止まない電子音の檻に閉じ込められた戦場と化していた。
「はい、誠に申し訳ございません。現在、担当部署に確認を……」
「左様でございます、今回のSNSでの発表につきまして……」
「スポンサー契約の件でございますね、ただいま上の者を……」
あかりの処分が公表されてから数時間、電話回線は完全にパンク状態にあった。受話器を置いた瞬間にまた次のコールが鳴り響く。ファンからの怒号、スポンサー企業からの冷ややかな懸念、メディアからの執拗な取材依頼。
スタッフたちの顔からは生気が消え、ただ機械的に謝罪を繰り返すだけの肉声のループが、フロア全体を重苦しく支配していた。
しかし、そのヒステリックな喧騒の裏側で、オフィスの床を微かに、だが確実に振動させる“別の音”が近づいていることに、受話器に耳を押し当てて必死に頭を下げている彼らは、まだ誰一人として気づいていない。
『ズゥン、ズゥン、ズゥン……』
それは、電話の着信音のような甲高い警告音とは対照的な、腹の底に響く地響きのような重低音だった。
『バンッ!!』
乾いた破裂音と共に、入り口の頑丈なダブルドアが左右に跳ね飛ばされ、悲鳴を上げて壁に激突した。
その衝撃音に、あれほど鳴り止まなかった電話のベルさえもが遠のいたかのように、オフィス全体が一瞬にして凍りつき、静寂に包まれる。
入り口を塞ぐようにして立っていたのは、チームカラーである鮮烈な赤のユニフォームを纏った、キャプテンの火野とスターティングメンバーたちだった。
平均身長190センチ超、体重100キロに迫る鍛え上げられた肉体の群れ。狭い入り口に彼らが密集して立つ姿は、もはや人間というよりも、行く手を阻む巨大な「赤い壁」そのものだった。
天井の蛍光灯に頭が届きそうなほどの規格外のサイズ感と、彼らが放つ圧倒的な熱量。空調の効いたオフィスには不釣り合いなその物理的な威圧感に、デスクにしがみついていた社員たちは、ただ喉を鳴らして息を呑むことしかできなかった。
張り詰めた空気の中、総務の女性社員が、自身の震えを抑えるように小さく呟いた。
「……なんで、ユニフォーム?」
その疑問は、その場にいた全員の違和感を代弁していた。
彼らの肌には、練習後特有の汗が一滴も滲んでいない。普段、フロントに顔を出す時に着ているような簡易的なビブスでもなければ、移動用のリラックスしたジャージでもない。
彼らが身に纏っていたのは、スポットライトを浴びる試合本番でしか着用しない、鮮烈な真紅の「1stユニフォーム」だった。
シャツの裾は乱れなくパンツに収められ、バッシュの靴紐は戦闘用のアスリート結びで固く、隙間なく締め上げられている。それは、これからティップオフの笛が鳴るコートに向かう姿そのものだった。
それは明確な、無言の意思表示だった。
自分たちは今、給料や待遇の不満を言いに来た「一社員」としてここにいるのではない。
「名古屋ブレイズ」という誇り高きチームを代表する「戦士」として、このフロントという名の「敵」と戦うために来たのだと。彼らの正装である戦闘服が、そう雄弁に語っていた。
火野が、無表情のまま右足を一歩、前に踏み出した。
『ギュッ』
それは、吸音性に優れたカーペット敷きのオフィスには、決して響くはずのない異質な音だった。研ぎ澄まされたバッシュのソールが、床を強くグリップする摩擦音。それは彼らがここを、ボールを追うコートと同じ「戦場」と認識している何よりの証だった。
彼らがゆっくりと通路を進み始めると、デスクに向かっていたスタッフたちは、まるで巨大な捕食者に遭遇した小動物のように、怯えた表情で慌てて椅子を引き、左右へと退避した。誰に命令されたわけでもない。ただ、その圧倒的な質量と気迫に気圧され、道を開けざるを得なかったのだ。
無機質なグレーのスーツで埋め尽くされていたフロアが、左右に裂けていく。
それはさながら、旧約聖書に記された「モーゼの海割り」の光景だった。灰色の波が引いたその真ん中を、鮮血のような赤の一団が、一糸乱れぬ隊列で突き進んでいく。
開かれた道の先。そこに鎮座するのは、オフィスの最奥、冷ややかな透明度を誇るガラス張りの社長室。
この騒動の元凶であり、彼らが倒すべき敵将――氷室が籠城する「城」だった。




