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その赤を、燃やせ  作者: 樽見 龍二
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36.顧客データの反逆

 「#FreeEmber」がトレンドの頂点に達してから、わずか数分後のことだった。

 氷室のデスクの右端、普段は静かに数字を映し出し続けているサブモニターから、聞き慣れない、しかし神経を逆撫でするような無機質な警告音が鳴り響いた。

『ビーッ、ビーッ』

 それは、先程までの通知音のような軽快なものではない。心拍停止を知らせる医療機器のような、冷徹なアラートだった。氷室はSNSの画面から視線を外し、チケット売上管理システムのダッシュボードを睨みつけた。

 サーバーのダウンか? いや、システムエラーのランプは点灯していない。

 画面の中央に表示されているリアルタイムの売上推移グラフ。その緑色のラインが、ある一点を境に、断崖を滑り落ちるかのような鋭角を描いて急降下していた。緩やかな右肩上がりを描くはずの予想線から大きく乖離し、あらかじめ設定していた「危険域」のボーダーラインを、一瞬にして突き抜けている。

 まさに、ダウンバーストだった。

 画面上の数字が、次々とその色を変えていく。これまで積み上げてきた黒字のプラス表記が、まるでウィルスに感染したかのように、一つ、また一つと不吉な赤字へと反転していく。それは、ファンの怒りが「購買拒否」や「キャンセル」という、企業にとって最も恐るべき実体を持った攻撃へと変わった瞬間を告げていた。


 氷室は血の気が引くのを感じながら、震える手で詳細ログのタブをクリックした。

 画面を埋め尽くしていたのは、絶望的な単語の羅列だった。『予約キャンセル』『払い戻し請求』『ファンクラブ退会』。

 だが、氷室を真に戦慄させたのは、その「質」だった。解約通知を送ってきているIDの多くが、ゴールド会員やプラチナ会員――つまり、彼が経営指標として最も重視し、安定した収益源として計算していた「シーズンシート保有者ロイヤルカスタマー」たちだったからだ。

 顧客生涯価値の観点から「絶対に手放してはならない」と定義していた優良顧客たちが、雪崩を打って離脱していく。

 キャンセル理由の備考欄には、感情的な罵倒ではなく、冷徹な絶縁状が記されていた。

『広報を処分するようなチームに、今後お金を落とすつもりはありません』

のないアリーナには行きません。返金を希望します』

 それは、数字の反乱だった。氷室が単なる「財布」や「安定したデータ」だと思い込んでいた顧客リストが、一人ひとりの人間としての「意思」を持って、彼に明確な「NO」を突きつけていたのだ。


 氷室の指先が、空中で凍りついた。キーボードを叩く音も止み、不気味な静寂が彼を包む。

 脳裏に、あの日の会議室での自分の声が鮮明に蘇る。冷笑混じりにあかりへ投げつけた、あの言葉だ。

『絆で電気代が払えますか?』

 その問いかけが今、巨大なブーメランとなって戻り、彼の喉元を切り裂こうとしていた。

 今、モニターの中で起きている現象は、まさにその「答え」だった。「絆」を失ったことによって、文字通り「電気代」が霧散している。あかりという「不確実な要素」を排除したことで、彼は経営の安定を得るどころか、数千万円規模の逸失利益を、わずか数時間のうちに確定させてしまったのだ。

 数字しか信じない彼にとって、これほど皮肉で残酷な結末はなかった。

 あかりが訴え続けていた「感情の価値」や「目に見えない資産の重み」。それを、あろうことか氷室自身が神聖視し、絶対の真理としてきた損益計算書が、残酷なまでの赤字をもって証明してしまったのである。


 デスクの上の固定電話が、重苦しい呼び出し音を上げ始めた。ディスプレイに表示された番号は、チームの大口スポンサー企業の広報担当者のものだ。

 だが、氷室の手は受話器へと伸びなかった。鉛のように重くなった身体は、ただ呆然と、赤字が拡大し続けるモニターを見つめることしかできない。

「なぜだ……」

 うわ言のように呟く。

「不純物を排除して、エンジンを正常化したはずなのに。なぜ、動かない」

 彼がピカピカに磨き上げ、効率化を極めたはずの巨大なエンジン――「名古屋ブレイズ」という組織は、今やピクリとも動こうとしない。ただ冷たい静寂だけが、そこにある。

 彼はまだ、認めたくなかった。認められるはずがなかった。自分が「非効率なノイズ」として切り捨てたあの「泥臭い不純物」こそが、この冷徹な金属の塊に熱を入れ、駆動させるための唯一無二の「着火剤」だったという事実を。

 広報機能の喪失。ファンの離反。そして、収益の激減。

 司令塔を失ったアリーナは今、氷室の目の前で音を立てて崩れ落ち、完全なる機能不全メルトダウンへと沈んでいった。

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