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その赤を、燃やせ  作者: 樽見 龍二
34/41

33.10時の死亡告知

 午前10時00分。

 氷室は、社長室の窓から差し込む冬の陽光を背に、香り高いコーヒーを優雅に一口啜った。

 デスクの上のモニターでは、SNS管理ツールの予約投稿インジケーターが、設定された時刻通りに「送信完了」へと切り替わる瞬間だった。

 湊あかりという、組織に紛れ込んだ異分子――システムのエラー要因は、すでに物理的に排除した。

 彼女のIDは無効化し、社内のネットワークからは完全に遮断済みだ。

 そして今、公式アカウントからこの「お詫びと報告」がリリースされたことで、一連の騒動ボヤは速やかに鎮火するはずだ。

「……ふっ。これで、うみは出し切りましたね」

 氷室は独りごちた。

 感情的なノイズを一掃し、法務チェックを経たロジックだけで構成された、隙のない完璧な謝罪文。

 これが世界に公開されたことで、ブレイズはまた、規律正しい「平常運転」に戻る。

 彼は、自身の危機管理対応に一点の曇りもないことを確信し、満足げに目を細めた。


 定刻と同時に公式タイムラインに流れたのは、白い背景に黒い文字だけが並んだ、一枚の画像データだった。

 そこに使われているのは、感情の一切を削ぎ落とした、無機質で生真面目な明朝体。

『【当クラブスタッフによるSNSの不適切な利用について】』

 そのタイトルに続いて、氷室が練り上げた「完璧な文章」が続く。

『一部のスタッフによる、コンプライアンスに違反した不適切なSNS投稿が確認されました』

『当該スタッフにつきましては、社内規定に基づき、厳正な処分を下しましたことをご報告いたします』

 そして、結びの定型句。

『今後は管理体制を一層強化し、ブランドイメージの保全に努めてまいります』

 そこには、一応の「謝罪」の言葉こそ並べられてはいた。

 だが、なぜそのスタッフがそのような行動に至ったのかという背景への言及も、チームを想って筆を執った、今は去りゆく者への敬意や配慮も、そこには一ミクロンも存在しなかった。

 あるのは、「管理不足でご迷惑をおかけしました」という、組織の保身だけを目的とした、あまりにも空虚で冷徹な定型句だけだった。

 あかりの熱意は、「不適切」というたった三文字のレッテルを貼られ、事務的に処理されたのだった。


 通勤電車の揺れの中、あるいはオフィスの休憩室で。

 あかりのいない世界でスマホを眺めていた数千、数万のファンたちの指が、その「お知らせ」を見た瞬間にピタリと止まった。

「……おい、嘘だろ?」

「不適切な投稿って……まさか、あの『残り火日誌』のことを言ってるのか?」

 タイムラインに、戦慄が走る。

 ファンたちの嗅覚は、氷室が思っているよりも遥かに鋭敏だった。

 公式が「コンプライアンス違反」という無味乾燥なオブラートで包めば包むほど、彼らはその行間に滲み出ている、生々しい「血の匂い」――すなわち、あかりに対する容赦ない「排除」の事実を嗅ぎ取ってしまったのだ。

「『厳正な処分』って何だ?クビか?それとも……」

 画面上の文字は、ただの黒いドットの集合体に過ぎない。

 けれど、ファンたちには分かってしまった。

 あんなにも熱く、泥臭く、誰よりもチームを愛し、選手の痛みに寄り添っていたあの言葉たちを、このクラブは「不適切」な「汚点」だと断定し、切り捨てたのだ。

 その事実は、冷え切った刃物となって、ファンの心臓に深々と突き刺さった。


投稿から数分間。

 本来なら、ファンたちの喧騒で溢れかえるはずの公式アカウントのリプライ欄は、呼吸を忘れたかのような異様な静けさに包まれていた。

 誰も、ハートマークの「いいね」ボタンを押そうとはしない。

 いや、押せるはずがなかった。

 そこに表示されている無機質な画像データは、単なる業務連絡や謝罪文などではない。

 それは、ファンたちが心から愛し、その熱に救われていた『残りあかり』という存在の、あまりにも冷酷な「死亡診断書」であり――同時に、ブレイズというチームがついに「心」を殺してしまったことを告げる、最悪の訃報だったからだ。

 タイムラインは、まるで喪に服したかのように、不気味に静まり返っている。

 だが、その沈黙は決して、処分への「納得」や「了承」を意味するものではなかった。

 それは、裏切られた悲しみと、行き場を失った巨大な怒りの感情が、出口を塞がれた密室の中で、次の瞬間の爆発点を探してギリギリまで圧縮されている――そんな、嵐の前の不穏な轟音だった。

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