32.リアル・ログアウト
「すべて、置いていきなさい。PCも、IDカードも……その、スマートフォンも」
氷室の短く冷たい命令に従い、あかりは震える手で、自身の「武装」を一つずつデスクの上に並べていった。
ブレイズの社員であることの証明書、IDカード。
書きかけのプレスリリースや、明日配信予定だった原稿が入った社用PC。
そして、最後に――裏アカウント『残り火日誌』がログインされたままの、黒いスマートフォン。
それをデスクに置こうとした瞬間、あかりの指先に強い抵抗が生まれた。指が強張り、端末から離れない。
これを手放してしまえば、ネット上で燃え広がる炎に対して、もう弁明をすることも、別れの挨拶を告げることも、降りかかる火の粉を払うことさえできなくなる。
それは、あかりに残された唯一の「武器」であり、外の世界と繋がる「声」そのものだった。
「……っ」
躊躇うあかりの手から、氷室は無慈悲にスマートフォンをひったくるように回収した。
そのまま彼女の目の前でデスクの最下段の引き出しに放り込み、金属製の鍵を回す。
ガチャリ。
重たく、冷たい施錠の音が、あかりの希望を断ち切った。
「これで君は、手も足も出ないし、もう二度と声も出せない」
完全なる武装解除。
あかりは、丸腰のまま戦場に放り出された兵士のように、ただ立ち尽くすしかなかった。
私物だけを詰め込んだ鞄を抱え、あかりは総務課の男性社員に背後から監視されるようにして、通用口へと向かう廊下を歩いた。
向こうから、練習上がりのジャージ姿のスタッフが歩いてくる。
「お疲れ様でーす」
何も知らない彼が、いつものように屈託のない笑顔で挨拶を投げてくる。あかりは、ひきつった笑みを浮かべ、曖昧に頭を下げることしかできなかった。
(……ごめんなさい)
心の中で謝罪し、逃げるように視線を逸らす。
やがて、関係者以外立ち入り禁止のセキュリティゲートの前に着いた。
いつもなら、首から下げたIDカードをリーダーにかざし、顔パス同然で通り抜けていた日常の境界線。
あかりは無意識に、右手を胸元へと伸ばしかけた。
――ない。
そこにあるはずのカードは、もう氷室のデスクの上だ。
行き場を失ったあかりの手が空を切り、所在なげに彷徨う。
ピピッ。
立ち尽くすあかりの脇から、総務の社員が無言でカードをかざした。
電子ロックが解除される乾いた音が鳴る。
「……どうぞ」
事務的にドアを開け、手で促される。
その丁寧だが他人行儀な動作は、あかりがもはや「内部の人間」ではなく、監視が必要な「招かれざる客」に成り下がったことを、何よりも残酷に突きつけていた。
通用口から一歩足を踏み出すと、名古屋の容赦ない冬のビル風が、あかりの全身を激しく叩きつけた。
思わず身をすくめ、振り返る。
閉まりかけた扉の隙間から、アリーナのバックヤードの、目が痛くなるほど明るい人工的な光が漏れているのが見えた。そこは、さっきまであかりが息をし、生きていた「中」の世界。
しかし、見送りの総務社員は無言のまま、遠慮なくその重い鉄の扉を引き寄せた。
ガチャン、ドォン……。
腹の底に響くような、重厚で冷酷な金属音。
続いて、ジジッ、とオートロックの電子錠が作動し、完全な拒絶を示す施錠音が続く。
その無機質な連続音は、あかりの耳には、自分とブレイズの間に辛うじて残っていた最後の絆を、見えない巨大なハサミで「物理的」に切断する音のように聞こえた。
目の前には今、ただ冷たく、頑丈な鉄の塊だけが立ちはだかっている。
もう、二度とあの中には戻れない。
あかりは、寒空の下で呆然と立ち尽くし、夜の闇にそびえ立つ名城パークアリーナを見上げた。
巨大な緑色の屋根が、今は威圧的な怪物のように、ちっぽけなあかりを冷たく見下ろしている。
あの分厚い壁の向こう側――デジタルの世界では今頃、あかりが放った火種が、ネット住民たちの悪意と好奇心を燃料にして、制御不能な業火となって燃え広がっているはずだ。
けれど、その火をつけた当の本人は、消火器も、追加の燃料も、すべての手段を没収され、ただ蚊帳の外へと放り出されている。
「……私、ただの放火魔じゃん」
乾いた唇から、自嘲の言葉がこぼれ落ちて、白い息と共に消えた。
ポケットの中は空っぽだ。
スマートフォンがないため、今、ネットで自分がいかに罵倒され、あるいはチームがどんな批判に晒されているのか、その惨状を確認することさえできない。
知る権利も、守る手段も奪われたあかりは、圧倒的な無力感に包まれながら、トボトボと名城公園の深い闇の中へと消えていった。




