31.ブランドという虚像
氷室は、デスクに積まれた分厚い紙の束――あかりの罪の証拠資料を、指の背でパシッ、と無造作に弾いた。
乾いた音が、静寂な室内に冷たく響く。
「就業規則第12条違反。会社の信用失墜行為、および業務上知り得た機密・内部情報の漏洩」
彼はあかりの顔を一度も見ようとはせず、手元の資料に視線を落としたまま、淡々と告げた。
「チームの内情と弱みを世間に晒し、キャプテンの怪我の状態を、球団の許可なく勝手に公表した。……これは広報活動などではありません。ただの背任行為です」
ページをめくる手が止まる。
そこで初めて、氷室はゆっくりと顔を上げ、あかりを射抜いた。
「湊さん。あなたには、失望しました」
その抑揚のない口調には、部下を叱責する上司としての人間的な「怒り」すら含まれていなかった。
それはまるで、ベルトコンベアを流れてくる製品の中から、規格外の不良品を見つけ出し、無感情に検品ラインから弾き出す検査官のそれだった。
あかりは、血が滲むほど強く唇を噛み締め、氷室の次の言葉を待った。
普通の上司であれば、ここで問うはずだ。「なぜ、あんなことをしたんだ?」と。
その一言さえあれば、あかりは叫ぶことができた。「チームのために、今、これが必要だと思ったからです」と。自分の正義を、あの熱を、ぶつけることができたはずだった。
しかし――。
氷室は沈黙したまま、視線をあかりから外し、デスクの引き出しに手を伸ばした。
ガサゴソと、次の書類――おそらくは決定的な「処分通知」を探し始めている。
(……聞く気すら、ないの?)
あかりは愕然とした。
この男にとって、なぜあかりがリスクを冒してまで裏アカウントを作ったのか、その動機や想いといった人間的な感情は、業務プロセスの計算式において排除すべき「ノイズ」でしかないのだ。
数字にならない情熱、データ化できない忠誠心など、聞く価値すらないエラー値。
その徹底した「無視」と「人間性の不在」を目の当たりにした瞬間。
恐怖で萎縮していたあかりの心の奥底で、これまでとは違う質の、熱く、激しい炎がボッと音を立てて点火した。
「……ブランドって、一体、何ですか?」
静まり返った社長室に、あかりの震える声が落ちた。
書類へと伸びていた氷室の手が、ピタリと空中で止まる。
あかりは顔を上げた。
恐怖で潤んだ瞳の奥で、涙を必死に堪えながら、目の前の冷徹な上司を睨みつける。
「都合の悪いことを隠して、綺麗な嘘で塗り固めた……ただのハリボテのことですか!?そんな子供騙し、ファンはとっくに見抜いています!」
一度決壊した感情は、もう誰にも止められなかった。
「私が書いた言葉に、嘘は一つもありません!選手たちは、彼らは……本当に痛がっていて、それでも歯を食いしばって戦っている……!」
あかりは、自分の胸を拳でドンと叩いた。
「その『真実』を伝えることが、どうしてブランドの『毀損』になるんですか!綺麗なだけの嘘よりも、泥だらけの本音のほうが、ずっと……ずっと価値があるはずです!」
それは、入社してから今日まで、綺麗事ばかり並べるプレスリリースを作るたびに抱えてきた違和感と葛藤が、轟音を立てて崩れ落ちた瞬間だった。
あかりの魂の叫びが、社長室の空気を震わせた。
しかし、それを受けた氷室の反応は、あまりにも冷酷だった。
彼は眉一つ動かさず、表情一つ変えなかった。あかりの熱情は、この男の絶対的な冷徹さの前では、まったく無意味だった。
「……それが『真実』であるかどうかなど、まったく問題ではないのです」
氷室は、氷点下の声音で冷ややかに言い放った。
「それが組織によって完全に『統制』できている情報か否か。ビジネスにおいて重要なのは、唯一その一点のみです」
彼はデスクの引き出しに手を伸ばすと、そこから一通の封筒を取り出した。
宛名も差出人も書かれていない、不気味なほど真っ白な封筒。
氷室はそれを指先で軽く押し出した。
シュッ。
乾いた摩擦音が響き、封筒が磨き上げられたマホガニーのデスクの上を滑っていく。それは、あかりの震える指先のすぐ目の前で、ピタリと止まった。
「制御不能な真実など、企業にとっては嘘よりもタチが悪い猛毒でしかない。……受け取りなさい」




