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その赤を、燃やせ  作者: 樽見 龍二
31/41

30.アナログな告発状

 特定スレッドのURLが開かれたままの画面を前に、あかりの思考は完全に凍りついていた。

 指一本動かせないその硬直を、PCのスピーカーから鳴った無機質な通知音が、鋭利な刃物のように切り裂いた。

 ピロン。

 画面の右下にポップアップしたのは、氷室からの個人チャットだ。

『社長室へ。今すぐに』

 件名はない。具体的な用件も書かれていない。

 ビジネスメールの体裁すら削ぎ落とされたその異常な短さが、逆に事態が修復不可能な領域にあることを、冷酷に物語っていた。

「……はい」

 誰にともなく小さく呟き、あかりは椅子から立ち上がった。

 ガタッ、と椅子が引かれる音が響く。周囲の同僚たちが「何事だ?」と訝しげな視線を向けてくる。その好奇の目が、今のあかりには針のように痛い。

 オフィスを出て、突き当たりにある社長室へ。

 物理的にはわずか数十メートルの距離。

 だが、その長い廊下は、あかりにとって処刑台へと続く階段のように果てしなく、絶望的に遠く感じられた。

 恐怖で膝が笑い、うまく足が前に出ない。一歩踏み出すたびに、床が沈んでいくような錯覚に襲われた。


 コンコン。

 渇いたノックの音が二回、重厚な扉の向こうに吸い込まれる。

「……失礼、します」

 あかりは、鉛のように重く感じるドアノブを回し、恐る恐るその隙間から身体を滑り込ませた。

 いつもの風景なら、氷室は顔も上げず、猛烈な速度でキーボードを叩きながら「用件だけ言ってください」と冷たく言い放つはずだった。

 だが、今日は違った。

 執務机の上のPCは、黒い画面のまま沈黙している。

 氷室は、高級なレザーチェアの背もたれに深く身体を預け、胸の前で腕を組み、入ってきたあかりの一挙手一投足を、正面からじっと見据えていた。

 部屋の中には、空調の低い駆動音だけが、ブゥゥゥン……と不気味に響いている。

 それ以外の物音は一切ない。恐ろしいほどの静寂。

 射抜くようなその冷たい視線を浴びた瞬間、あかりの足が床に縫い付けられたように動かなくなる。

 それはまさに、捕食者である大蛇に睨まれ、呼吸さえ忘れてしまった、哀れな蛙の心境そのものだった。


 氷室の視線の先――。

 あかりの目は、広く整理されたマホガニーのデスクの上に鎮座する、ある「異物」に吸い寄せられた。

 それは、分厚いA4コピー用紙の束だった。

 一番上に置かれた一枚。そこには、あかりが昨夜、魂を削って投稿した『残り火日誌』の画面そのものが、白黒でハードコピーされていた。

 そして、その下に重なる何枚もの紙面には、あの匿名掲示板の「特定スレッド」のログが、びっしりと印刷されているのが見えた。

『www』

『特定完了』

『こいつバカすぎワロタ』

 インターネットという電子の海で消費されるはずの、軽薄なノリや嘲笑のスラング。

 それらが、トナーインクの匂いがする公的な文書として紙に定着され、左上をホッチキスで無造作に、しかし強固に留められている。

 その光景は、どこか滑稽でシュールでありながらも、同時に、逃れようのない罪状を列挙した警察の「調書」のような、事務的で圧倒的な威圧感を放っていた。

 デジタルな悪意が、物理的な質量を持って、あかりの目の前に突きつけられていた。


 氷室は、依然として一言も発しなかった。

 ただ、組んでいた腕を解き、デスクの上の分厚い紙の束に手を伸ばす。

 トントン、と長い指先でその表面を叩き、それからわざとゆっくりと、ページをめくった。

 バサッ。バサッ。

 空調の音しかしない密室に、乾いた紙の擦れる音が、不気味なほど大きく響き渡る。

 本来、質量を持たないはずのデジタルの炎上。

 それをあえてインクと紙という物質に変換し、物理的な「重み」のある証拠として突きつける。

 その行為自体が、「これはネット上の遊びや火遊びではない。現実世界における重大な契約違反だ」という事実を、あかりの骨の髄まで理解させるための、氷室なりの冷徹な演出だった。

 その圧倒的な圧力を前に、あかりは身体を小さく萎縮させた。

 喉元まで出かかっていた言い訳や反論の言葉は、恐怖という栓をされ、声になることなく喉の奥へと消えていった。

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