29.ドアノブの反射
運命のダービーマッチまで、あと3日。
あかりはいつものように、出勤前の僅かな時間を使って『残り火日誌』のタイムラインを追っていた。
(……うん、今日も温かい)
画面に並ぶのは、チームへの純粋な愛と、このアカウントへの信頼に満ちた言葉たち。それは、殺伐とした公式アカウントの管理に疲弊したあかりにとって、一日を生き抜くための唯一の精神安定剤だった。
だが、その平穏な朝は、たった一通の通知によって音を立てて崩れ去った。
画面の上部に滑り込んできた、DMの通知。
送信元の名前はなく、アイコンは初期設定のままの「卵」の画像。いわゆる捨て垢だ。
胸騒ぎを覚えながら開いたその文面は、あまりにも短く、そして礼儀正しいがゆえに、底知れぬ悪意に満ちていた。
『これ、あなたですよね?消すなら今のうちですよ』
その下には、見覚えのある、そして決して関わりたくない大手匿名掲示板のURLリンクが添えられている。
「……え」
背筋を、氷水のような嫌な汗がツーッと伝い落ちた。
心臓が早鐘を打つ。
あかりは、震えで制御の効かなくなりそうな指先を、必死にその青い文字列の上へと伸ばし――そして、タップした。
リンク先が開いた瞬間、無機質なゴシック体の文字列が、あかりの網膜を焼き尽くした。
『【悲報】ブレイズの裏垢、中の人が特定されるwww』
心臓が早鐘を打ち、指先が冷たくなる。
スレッドの1に貼られていたのは、数日前にあかりがアップした、「深夜の練習場」の写真だった。火野が去った後の、静寂に包まれたアリーナの入り口を写した一枚。
その下のレスには、事務的で、それゆえに狂気じみた短文が添えられていた。
『画像補正かけた。右下のドアノブの金属部分に注目』
そこから下は、まるでホラー映画のコマ送りのように、段階的な解析画像が貼り付けられていた。
1枚目。暗かった写真のガンマ値が極端に上げられ、闇に沈んでいた背景が白日の下に晒される。
2枚目。ノイズ除去とシャープネス処理。ぼやけていた輪郭が、鋭利な線となって浮かび上がる。
3枚目。入り口のドアにある、真鍮製の丸いドアノブへの異常なまでの拡大。
そして、4枚目。
あかりは息を止めた。
ドアノブという小さな球面の鏡。
そこに歪んで映り込んでいたのは、スマートフォンを顔の前に構え、スーツを着て立ち尽くす女の影。
無理やり引き伸ばされた画質は粗く、それはまるで不気味なドット絵のようだった。
けれど、そこに写っているのが「自分」であることは、誰の目にも明らかだった。
スレッドの流れは、もはや濁流だった。
それは、ただの推測が確信へと変わっていく、残酷で逃げ場のない「答え合わせ」の熱狂。
『特定班仕事早すぎww』
『758さん、サンクス』
『このスマホケース、特徴あるから覚えてるわ。先週の試合会場で、広報の湊あかりが首から下げてたやつだ』
心臓を素手で握りつぶされたような衝撃が走る。
画面をスクロールする指が、恐怖で痙攣した。
『あー、いつもベンチ裏にいる、あのおどおどした地味な女の人?』
『袖口のボタンの位置、スーツの色味も完全に一致』
『てかさ、そもそもこんな深夜のサブアリーナに侵入して撮影できるのって、合鍵持ってるスタッフ以外にいなくね?』
『はい、確定しました』
誰かが押した、決定的なエンターキーの音が聞こえた気がした。
『これは熱心なファンによる投稿じゃありません。広報担当による、痛々しい自作自演です』
たった数ミリのドアノブへの映り込み。
そして、淡々と積み上げられていく状況証拠のブロック。
それは、あかりがこの数日間で積み上げてきた「チームを想う名もなき語り部」としての純粋な信用が、「会社の金を使い、嘘をついてまでチヤホヤされたかった承認欲求モンスターの社員」という、最も醜悪なレッテルへと書き換えられた瞬間だった。
さっきまであかりの心を温めていた通知欄の景色が、一変した。
そこにあった「共感」の焚き火は、瞬く間に彼女を焼き殺すための「業火」へと変わっていた。
『感動して損した。結局、会社のプロモーションかよ』
『これコンプラ的に完全にアウトじゃね?関係者エリアでの盗撮だろ』
『広報が裏垢で自チームのネガキャンとか、この球団マジで終わってるな』
次々と投げつけられる罵倒と失望の言葉。
あかりの手から力が抜け、スマートフォンが手汗で滑り落ちそうになる。
「違う……プロモーションなんかじゃ、ない。私はただ、本当のことを……」
掠れた声で呟く。
だが、その弁明の言葉を打ち込む暇さえ、世界は彼女に与えてくれなかった。
ピロン。
静まり返ったオフィスの空気を切り裂くように、デスクの社用PCから無機質な電子音が響いた。
それは、いつもの社内チャットの着信音。
けれど今のあかりには、死刑執行の時間を告げる鐘の音のように聞こえた。
画面の右下にポップアップした通知。
送信者の名前は、『氷室 聖』。
そこに表示されたメッセージは、あまりにも短く、そして逃げ場のない冷徹な命令だった。
『今すぐ、社長室に来なさい。……その、スマートフォンを持って』




