28.種火の生存
「届いた……」
あかりは、ほんのり熱を持ったスマートフォンを両手で大切に包み込み、祈るように胸の奥に抱きしめた。
表示回数は、数千回程度。
氷室が定例会議で当たり前のように要求してくる「数百万」という桁違いの数字に比べれば、それはあまりにささやかで、取るに足らない成果かもしれない。
けれど、この画面の向こうにある反応の一つひとつには、確かに赤い血が通っていた。
氷室のPCモニターに映し出されているのが、数を積み上げただけの「冷たい死体の山」だとするなら。
今、あかりの手の中にあるのは、息遣いまで聞こえてきそうな「生きている人間たちの体温」だ。
その確かな温もりが、薄い衣類越しに伝わってくる。
それは、組織の冷徹な論理ですっかり冷え切っていたあかりの心の芯を、焚き火のようにじんわりと、しかし力強く温めていった。
タイムラインを埋め尽くす熱っぽい言葉を眺めながら、あかりはハッとした。
ファンたちは、決してチームへの情熱を失って冷めきっていたわけではなかったのだ。
彼らはただ、心の奥底に「まだブレイズを信じたい」「あの頃の熱狂を嘘にしたくない」という、カラカラに乾いた薪を大量に抱え込んだまま、暗闇の中で立ち尽くしていただけだった。
誰かがその薪に火をつけてくれるのを――再び心を焦がしてくれる「きっかけ」を、ずっと飢えるように待ちわびていたのだ。
あかりが昨夜、震える手で投げ込んだ小さな火種は、その乾ききった薪の上にポトリと落ち、瞬く間に引火したに過ぎない。
「私が……火をつけたうんじゃない」
あかりは、画面の向こうにいる見えない「同志」たちの渇望を、肌が粟立つほど鮮明に感じた。
「みんな、燃えたがっていたんだ」
自分は魔法を使ったわけではない。ただ、彼らの準備ができていただけだ。
けれどその事実は、組織の中で「お前のやり方は古い」と否定され続け、すり減っていたあかりの広報担当者としての自信を、静かに、しかし確かな手応えと共に蘇らせていった。
「よし、行こう」
あかりは勢いよく布団を跳ね除け、ベッドから降りて冷たいフローリングに両足を下ろした。
いつもなら胃の底が重くなる、憂鬱な出勤前の身支度。
けれど、洗面台の鏡に向かい、メイクをするその表情には、昨日までのような世界の終わりを嘆くような悲壮感は張り付いていなかった。
アイラインを引き、戦闘服であるパンツスーツに袖を通す。
最後に首からかけた社員証のストラップは、相変わらず囚人の鎖のようにずっしりと重い。
だが、今日は違う。
コートの右ポケットには、あのスマートフォンが入っている。
ファンたちの熱気が詰まったその端末は、まるで凍える冬の朝にこっそりと忍ばせた「使い捨てカイロ」のように、あかりの腰のあたりをじんわりと温めていた。
自分と、顔の見えない彼らだけが共有している「秘密の炎」。
それを会社の懐に隠し持っているという背徳感と、誰にも言えない共犯関係を結んでいるという高揚感。
その二つが入り混じった奇妙なエネルギーが、あかりの猫背になりがちな背筋を、ピンと真っ直ぐに正させた。
重たい鉄製のドアを押し開けると、名古屋の冬特有の、骨まで凍るような鋭いビル風がビューッと吹き抜けた。
いつもなら首をすくめ、コートの襟をかき合わせて震えていたはずの寒さ。
けれど、今日のあかりは不思議と寒さを感じなかった。駅へと向かうヒールの足取りは、羽が生えたように軽い。
これから向かう先は、あの氷室が数字とロジックで支配する、感情の一切を許さない「絶対零度のオフィス」だ。
だが、自動改札を抜ける今の彼女は、もう昨日までのただの死んだ目をした社畜ではない。
懐のポケットに、誰にも消せない「真実」という名の火種を隠し持ち、冷え切った組織の内部から熱を取り戻そうと企む、孤独な「二重スパイ」だ。
(おはようございます、氷室さん。……今日も”いい仕事”しましょうね)
あかりは口元に、誰にも気づかれないほどの不敵な笑みを浮かべた。
そして、新しい戦いが待つ朝の雑踏の中へと、力強く歩き出した。




