27.通知欄の熱量
あかりは、意を決して通知タブをタップした。
普段、仕事で公式アカウントの管理画面を開くとき、あかりは無意識に奥歯を噛み締め、身構えるのが癖になっていた。
そこはいつも、罵詈雑言と冷笑、あるいは「解散しろ」というファンの絶望が渦巻く、荒涼とした砂漠だからだ。画面越しに吹き荒れるその殺伐とした「砂嵐」は、広報担当者の心を容赦なく削り、乾かしていく。
しかし、目の前にある『残り火日誌』の通知欄は、それとは全く異質の空気を纏っていた。
画面から溢れ出し、彼女の瞳に飛び込んでくる言葉の数々。
それらは、いつものような鋭利な刃物や、冷たい石礫ではなかった。
長らく乾ききり、ひび割れていたあかりの心に、とつとつと、静かに、そして優しく沁み込んでいく「慈雨」のような、温かい言葉たち。
「怖い言葉が……ひとつも、ない……」
あかりは、強張っていた肩の力が抜けていくのを感じた。
そこには、彼女がずっと怯えていた悪意など存在せず、ただ純粋な共鳴だけが、静かに降り注いでいた。
あかりは、祈るような手つきで、並んだ言葉を上から順になぞるように読み進めた。
『……泣いた。最近の公式は「勝て」とか「チケット買え」しか言わないけど、この人は選手が今、傷つきながらも「戦ってる」ことを教えてくれる』
あかりの胸がぎゅっと締め付けられる。
それは、広報としての彼女自身への痛烈な批判であり、同時に、仮面を脱いだ一人の「書き手」としての彼女への、最大の賛辞だった。
『誰が書いてるの?解像度が高すぎる。関係者?それとも創設期からの古参サポ?』
『今のブレイズに足りないのは、まさにこの泥臭さだよ。「Smart & Stylish」なんてクソ食らえだ。俺たちのキャプテンは不器用でいい、泥まみれでいいんだ』
あかりがこれまで、組織の中でたった一人、孤独に抱え込み、押し殺してきた「ブレイズはこうあるべきだ」という熱い想い。
それが、決して間違いではなかったのだと、画面の向こうの見知らぬ他人たちが、次々と証明してくれていた。
顔も名前も知らない、どこに住んでいるかも分からない人々が、あかりが紡いだ言葉を唯一の媒介にして、深夜のネットの海で深く、強く、頷き合っている。
その光景は、どんなに精巧なマーケティングデータよりも雄弁な「真実」として、あかりの胸に迫った。
スクロールするあかりの指が、ある一つの投稿の前でピタリと止まった。
『正直、最近負けてばっかで、アリーナ行くのやめてた。高いチケット代をドブに捨てるようなもんだし』
そこには、今のブレイズを取り巻く、あまりにも残酷でリアルな「ファンの本音」が書かれていた。
だが、その文章には続きがあった。
『でも、火野があんなボロボロの膝で、そんな想いでテープ巻いて戦ってるなら……もう一回だけ、明日見に行こうかな。勝ち負けじゃなく、キャプテンのその生き様を見に』
「……勝った」
あかりは、布団の中で小さく、けれど力強くガッツポーズをした。
以前、企画会議で氷室は鼻で笑って言った。「美談や絆で、アリーナの膨大な電気代が払えるか?」と。
払える。
あかりは今、確信した。
人は、理屈で動くのではない。感情こそが、人の足を物理的に動かし、固く閉じた財布の紐をこじ開けるのだ。
それは、たった1枚のチケットかもしれない。
けれどその1枚は、あの冷徹な氷室のロジックに対する、あかりの完全なる勝利宣言だった。
あかりは、まだ微かな熱を帯びているスマートフォンを、両手で包み込むようにして胸に押し当てた。
トクトクと脈打つ自分の心臓の音が、画面の向こう側の鼓動とリンクしていくのを感じる。
今まで、オフィスのデスクでやっていた「広報」は、ただ一方的に情報を投げつけるだけの「放送」に過ぎなかった。
顔の見えない数万人の群衆に向かって、綺麗にラッピングされた中身のない空箱を、事務的にばら撒くだけの虚しい作業。
でも今、この場所で起きている現象は違う。
これは「対話」だ。
「私が投げたボールを、みんなが受け止めて……ちゃんと、投げ返してくれている」
あかりは、自身の掌に、確かな重みを感じていた。
それは、キャッチボールが成立した時に感じる、あのバシッという衝撃にも似た、少し痛くて、でもどうしようもなく嬉しい、心地よい痺れだ。
あかりの目頭が、じわりと熱くなる。
この小さな裏アカウントは、もう闇に向かって叫ぶだけの、孤独な独り言の場所ではない。
それは、凍えるようなチームの冬の時代に、同じ「熱」を求めて集まった同志たちが、一つの焚き火を囲んで暖を取り合う、温かな「輪」になった瞬間だった。




