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その赤を、燃やせ  作者: 樽見 龍二
25/41

24.青い送信ボタン

 あかりは、その文章を締めくくる最後の一行を、祈るように打ち込んだ。

『火は、まだ消えていない。青く、静かに燃えている』

「ブレイズ・レッド」。

 それは、パンフレットやユニフォームを彩る、わかりやすい情熱の色だ。

 だが、あかりは知っている。炎という物理現象において、最もエネルギー密度が高く、最も高温で燃え盛る領域は、赤ではない。

 透き通るような、冷徹なまでの「青色」だ。

 今、壁の向こうで声を押し殺す火野の静かなる怒りも。

 そして今、ここで震える指を必死に抑え込んでいる、あかり自身の秘めた反骨心も。

 それらは、誰の目にも止まる派手な赤色などではなく、触れれば火傷では済まない、高純度の青色をしていた。

 その一文は、彼女がこのチームに貼り付けられた「表面上のチームカラー」を引き剥がし、その奥底にある「本質」を暴き出した、深層の心理描写だった。


 書き上がったばかりのテキストの塊を、あかりは静かに見下ろした。

 普段の球団広報としての業務であれば、本当の戦いはここから始まる。

 誤字脱字の徹底的なチェック。先輩による語尾の修正。そして、氷室という名の最終防衛ラインによる、「リスク管理」と「ブランド毀損」を盾にした検閲のような決裁。

 それら何重ものフィルターを通過するたびに、尖っていた言葉は角を削り取られ、どこにでも転がっている、無害でつまらない丸い石ころへと加工されていく。

 だが、ここは違う。

 このアカウントは、誰の許可も、誰の印鑑も必要としない。

 会社という名の理不尽な法律が適用されない、ネットの海の片隅に浮かぶ、彼女だけの解放区だ。

(読み返す必要さえ、ない)

 あかりは、推敲すらしなかった。

 一息で吐き出したその言葉には、一ミリの淀みも、大人の計算も、そして自分を騙すような嘘も、何一つ混じっていない。

 それは修正の余地などない、生まれたての感情そのものだ。

 あかりは、いつも使っている校正ツールを起動する代わりに、夜の冷たい空気を肺がいっぱいになるまで吸い込み、深く、ゆっくりと深呼吸をした。


 画面の右上に浮かぶ、鮮やかな青い長方形。「ポストする」。

 それは、スマートフォンの画面ならどこにでもある、ありふれたただのUIユーザーインターフェースに過ぎない。

 けれど、今のあかりの目には、世界を一変させるための爆薬に繋がれた、起爆装置のトリガーそのものに見えていた。

 これを押せば、もう戻れない。

 あの安全で、退屈で、そして嘘にまみれた日常への橋は、完全に焼け落ちる。

 あかりは、恐怖から逃げるように目を閉じることはしなかった。

 カッと目を見開き、その青い光を正面から見据える。

 そして、断罪の剣を振るうかのように、躊躇なく右手の親指を振り下ろした。

 タッ。

 硬質なガラス面を指先が叩く、微かで乾いた音。

 その音は、深夜の廊下に一瞬だけ響き、そして闇に吸い込まれた。

 それは実際の銃声よりも遥かに静かで――けれど、どんな悲痛な叫び声よりも、重く、腹の底に響く音だった。


 『送信完了』

 画面が一瞬だけ白く反転し、タイムラインが更新された。

 一番上に、先ほど打ち込んだばかりの、漆黒の背景に白い文字だけの無骨なテキストが表示される。

 その下に並ぶアイコンの数字は、当然ながらすべて「0」。

 いいねのハートマークも、リポストの矢印も、まだ色付いていない。

 派手な投稿完了のエフェクトもなければ、通知を知らせるポップな効果音も鳴らない。

 世界はまだ、この深夜の片隅で産声を上げた、小さな真実に何ひとつ気づいていない。

 けれど、スマホを握りしめるあかりの目には、その光景がまったく違って見えた。

 インターネットという名の、底知れず深く、膨大な情報が渦巻く暗い深海。

 その漆黒の海原に、今、誰にも知られていなかった小さな小さな灯台の明かりが、ポツンと一つ、静かに点灯したのが見えた。

(届け……)

 あかりは、祈るように奥歯を噛み締めた。

 何万、何十万という顔の見えないフォロワーじゃなくていい。

 たった一人でいい。この青い炎と同じ温度の熱を持つ、世界のどこかにいる「誰か」に、届け。

 彼女は、熱を帯びてジンジンと痺れる右手の指先を、左手で強く握りしめた。

 そして、獣の嗚咽がまだ微かに漏れ聞こえてくる扉に背を向け、コツ、コツ、とヒールの音を響かせながら、静かにその場を後にした。

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