22.拒絶音の翻訳
あかりの両手の親指が、まるで意思を持った生き物のように、スマートフォンの冷たいガラス面を滑走し始めた。
昼間、上司の顔色を窺いながら、骨を抜かれたような空虚な「お詫び」の文章を作っていた時に感じた、泥沼のような重いブレーキは、もう微塵もない。
脳裏に焼き付いたばかりの、あの残酷で神々しい光景が、電気信号となって神経を駆け巡り、指先を通してダイレクトに文字へと変換されていく。それは、堰を切ったような快感だった。
その奔流は、スマートフォンの予測変換機能さえ置き去りにする。
AIが気を利かせて差し出してくる「無難な候補」を選ぶ必要などない。
あかりが紡ぎたい言葉は、そんな借り物ではない。
次から次へと、渇いた喉を潤す水のように画面に現れては、迷いなく確定されていく。
「湧いてくる……。これが、私が本当に書きたかったこと」
あかりの鼓膜の奥で、先ほどサブアリーナの静寂を切り裂いた、あの暴力的な衝突音が鮮明にリフレインした。
ガンッ!!
通常の広報ブログであれば、この無様な事実は「シュート調整」というオブラートに包むか、あるいは「ミス」という単語すら使わず、なかったことにして隠蔽する場面だ。
けれど、今のあかりは逃げなかった。
彼女の指が、漆黒のキャンバスに白い文字を叩きつける。
『ボールが心地よくネットを揺らす音よりも、硬いリングに激しく拒絶され、嫌われる音のほうが、今日の彼には圧倒的に多い』
「嫌われる」――。
そのたった四文字の言葉を選び取った瞬間、単なる「シュートが外れた」という無機質な物理現象が、たちまち熱と痛みを帯びた「火野の苦悩」という物語へと変質した。
英雄の失敗を隠すのではない。
その失敗の鋭い「痛覚」を文字で共有することによって、あかりは画面の向こうにいるはずの読者の魂を、この冷たく静まり返った深夜のアリーナの床へと、力ずくで引きずり込んでいった。
指先は、あの痛々しい足元の描写へと移った。
その瞬間、脳裏の奥底から、上司・氷室の冷徹な声が呪いのようにフラッシュバックした。
「生産性がない」「それは不良債権だ」「無駄なメンテナンスコストがかかりすぎる」
あかりは、耳にこびりついたその呪詛を物理的に振り払うかのように、強く、激しく、スマートフォンの画面を叩いた。違う。あんたたちの物差しで、彼を測るな。
『幾重にも、幾重にも巻きつけられた膝の分厚いテーピングとサポーター。それは、単なる怪我の証ではない』
――じゃあ、なんなの?
自問する間すら惜しむように、彼女の親指が決定的な答えを紡ぎ出す。
『あれは、彼がこれまで一度たりとも逃げずに戦い続けてきた、年月の厚みそのものだ』
漆黒の画面に、白い文字でその一行が表示された、その瞬間。
あかりの中で、世界の認識がぐるりと反転した。
火野の膝を覆っていた、あの痛々しく「惨めな包帯」は、傷ついたベテラン戦士だけが纏うことを許された、「誇り高き装甲」へとその意味を変えたのだ。
あかりは、ふと指を止めた。
漆黒の背景に浮かび上がる、その一連の文章をじっと見つめる。
「翻訳、できた……」
氷室たちビジネスの世界の住人が「損失」や「劣化」と呼んで冷たく切り捨てる事象を、物語の世界におけるかけがえのない「勲章」へと定義し直す作業。
それこそが、本来、「広報」という職能を持った自分が果たすべき、本当の仕事だったはずだ。
昼間、言われるがままに打ち込んだ、中身のスカスカな広告文とは決定的に何かが違う。
黒い画面に刻まれたその白い文字の羅列は、まるでそれ自体が物理的な質量を持っているかのように、あかりの心臓にずしりと重く、深く響いていた。




